第二十二話
よく晴れた日の昼。散歩日和、旅行日和という言葉がよく似合う天気だ。気温は少し高めだが、心地良く風が吹き抜けていくので気にならない。陽気に誘われるように、皆どこかそわそわしていた。
しかし、一人。そんな影響を受けずに、ドスドスと踏み鳴らしながら学食を闊歩する者がいた。
窓から吹き入れる風になびくスカートや、肩にぶつかる人にも目もくれず、揚げ物やカレーの匂いにも惑わされない。
睨むような視線をまっすぐに芳樹はたかしへと近付き、テーブルを叩いて詰め寄った。
「見たぞ!」
「本当に見えてるなら、サラダの皿に拳は落とさないと思うけど」
「恋は盲目だとでも言いたいのか?」
芳樹はいいご身分だなと、ますます感情的になって詰め寄った。
「なるほど……あのことね」
マリ子とのことだろうというたかしの予測は当たっていた。
芳樹は「こっちには証拠の写真もあるんだ」とスマホを見せた。
画面に写っていたのは、いつしか二人で深夜に並んで歩いていた時の写真だった。
誰かが目撃し、写真を撮ったのだ。それをグループSNSで送り、巡り巡って芳樹の元へと届いたのだ。
「先に言っておくけど、それは勘違いだよ。まだ付き合ってない」
「――オレがなにを怒っているかわかるか? 別に誰と付き合おうが構わないが、なんでオレに知らせ……なに? 付き合ってないって?」
「そう。付き合ってない」
たかしが言うと、芳樹は笑顔になった。その笑顔は自分の金髪にも負けないほど輝く笑顔だった。
「なんだよ! それを早く言えってんだ!」
「解決して良かった。それで? オレに言うことは」
「そうだな。言い直すよ。オレは見てないぞ」
「……サラダを弁償するとか。騒がせて悪かったとか。言うことは山ほどあるだろう」
「勘違いさせるほうが悪い」
芳樹はテーブルに散らばったレタスを拾うと、まるでスナック菓子でも食べるかのように口に投げ入れた。
シャキシャキと音を立て、皿から落ちたレタスを半分ほど食べると、良い雰囲気なのになぜ付き合わないのかという疑問をたかしにぶつけた。
「わかんないよ……。告白すれば八割は受け入れられると思う。でも、なんて言えばいい?」
「愛してる。ベッドに行こう。これ以外あるか?」
「オレは真面目に聞いてるんだぞ」
「オレだって真面目に答えてる。小学生だったら手を繋げって言うけどな。大学生だぞ? どうすればいいかわかるだろ」
「わかるけど。先に同棲から始まったもんだから……。改まり過ぎて言葉が出てこないんだ……」
「本当に今更だな。そんな悠長なことを言ってられないと思うぞ。恋はどこに落ちているのかわからない」
たかしは心臓を掴まれたかのようにキュッとなっていた。マリ子が恋多き女性だということはわかっているので、芳樹の言葉は間違っていない。
グズグズしてると、すぐに別の男が出来てしまうかもしれない。そうなれば、自分は思い出にも残らない存在に成り下がってしまう。
普段おちゃらけていても、いざとなると的確なアドバイスをくれる親友だとたかしは感動していたのだが、芳樹は自分のことを話していたのだ。
芳樹はたかしにだけ聞こえるような小声で「見ろよ。視線を感じるだろう? 後ろだ」と言った。
「後ろ?」
たかしが覗き込もうとすると、芳樹は「ダメだ! 見るな」と語気を強めた。
「見ろって言っただろ」
「バカ正直に見る奴がいるか。それを警察にやってみろ。すぐに職務質問だ。たまたま目に入るんだ。わかったか? 見るんじゃないぞ。あくまで背景との一部としてとらえるんだ」
「そんな無茶な……」
たかしはとりあえず言われたとおりにやってみようと思ったが、すぐに女性と目が合ってしまった。
「なんだ……いくつか講義が一緒の子じゃん。芳樹も見たことがあるだろう?」
「なに!?」
芳樹は顔見知りなら話が早いと、振り返って手を振ったのだが、女性は振り返さずにじっとこちらを見ているだけだった。
それでも笑顔のまましばらく手を振り続けていた芳樹だが、あまりに反応がないので、ひとりおちゃらける恥ずかしさから額には汗が吹き出ていた。
たかしは「芳樹」と名前を呼ぶと、ホッとした顔で振り返った。
「ありがとう……助かった。引くに引けなくなったんだ」
「そりゃよかったよ。それで――って……なにするつもりだ?」
たかしは話題を変えようと思ったのだが、それよりも早く芳樹が立ち上がったので何事かと思った。
「声をかけに行くんだよ。見られてることは確かだ。このチャンスをモノにしないなんて勿体ない。待ってろよ、すぐにダブルデートに誘ってやっからよ」
先程まで怖気付いていたのはなんだったのか、芳樹は謎の自信に動かされ女性の元へ歩いていった。
その姿は颯爽という言葉がよく似合う。
だが、女性と二言三言会話するだけで、すごすご引き下がってきてしまった。
椅子に座ってため息をつく芳樹に、たかしは「熱視線だけど、そういうのじゃないくらい雰囲気でわかるだろう」とバカにした。
「オレには、アイス屋の前にいる女の子に見えたんだ。お気に入りのアイスのトレイの前に陣取るあの感じ。お気に入りのアイスってのはオレのことだからな。超人気で、いつも一番初めに売り切れるんだ」
「だから誰も味を知らない。いつも芳樹が自分で食べちゃうからね」
「いつもじゃない。三日に一回くらいだ。それに、知らないってことは興味をそそられるってことだ。ほら……あれ……チュパカブラもそうだろう。誰も見たことはない。でも、興味はあるだろう?」
「ないよ……。UMAの中でもロートルじゃん。たぶん小学生とか知らないぞ」
女性は二人のくだらない会話中もじっと見ていた。会話の内容が聞こえるわけではないが、一挙手一投足を見逃すまいとするかのように集中している。
「あれ、京じゃん。一人で学食にいるなんて珍しい。喫茶店じゃないの?」
そう声をかけたのは悟だ。
京と悟は二人共中性的な顔立ちをしているということもあって、会ったら世間話をする程度の仲だった。
「喫茶店だと、あれが見られないからね」
京は顎をしゃくって、たかしと芳樹の二人を指した。
「あれは僕の連れだよ。一人はオススメ出来るけど……もう一人はオススメしないね。でも、オススメの一人も別の人に恋い焦がれてるから。やっぱり両方ともすすめられないや」
「オススメしたいなら、履歴書の一枚でも持ってきて。私は今見極めてるのよ。狼か羊なのかを」
「芳樹のことじゃなくて、たかしのことでしょ? そんなのどっちでもないよ。羊飼いに決まってる。無害な男だからね。オーガニック信者にも安心して紹介できる」
京はなるほどと頷いた。
男女のルームシェアならば、一度二度の間違いはありそうなものだが、たかしはしっかり理性を働かせてマリ子と有効な関係を築いた。
そして、京の興味はずばりそこにあった。
二人が男女の関係になったとき。どういう変化が訪れるのだろうと。もう一人のルームメイトはどういう行動を取るのだろうか。
考えても考えても、興味が尽きることはない。
「あっ悪いこと考えてる」
悟は京がたかしに送る視線に不穏なものを感じていた。
「自分で言うのもなんだけど、私は表情が顔に出ないタチよ。決めつけないでもらいたいわね」
「僕のお姉ちゃんと一緒だもん。顔じゃなくて、雰囲気でわかる。今のは、僕をいじってどう楽しもうかって考えてるときのお姉ちゃんと同じ顔してた」
「心外だね……。でも、言い訳はしないでおくよ」
京は余計なことまでバレそうだと、半ば強引に話題を終わらせた。
「それでどうするの? 会うなら紹介するけど。羊飼いでも、羊飼いに懐いた狼でも」
「今はいいわ。ここから眺めてることに意味があるから」
悟は首を傾げると、京にさよならを言い、たかし達と合流した。
「やぁ、今度はなんの話?」
「大学に潜むチュパカブラの話だ」
芳樹は恥ずかしげもなく言い切ったので、これは聞く相手を間違えたと、たかしの隣に座り直した。
「なんの話をしてたの?」
「芳樹が言ったとおりチュパカブラの話だよ」
「なんでまた……そんな話を……」
「芳樹がバカだから」
「なるほど!」
納得する悟に向かって、芳樹が不機嫌に声を荒らげた。
「おい! どういうことだよ!」
「そのまんまの意味」悟は思いついた顔で「二百五十六かける百四十九は?」と聞いた。
「そんなの――わかるわけないだろう」
「それはどうかな? たかし、今の問いの答えは?」
「三万と五十四」
たかしが答えると、悟は拍手を響かせた。
「正解!」
「なんだと!? 本当にわかったのか?」
「オレは答えただけ」
たかしは適当に答えを言い、悟はどんな答えが出ても正解と言う。要はからかっているだけなのだが、芳樹は気付かずに凄いと感心してた。
あまりにも純粋に信じ込むので、悟は呆れのため息をついた。
「狼って、どのアニメでも大抵マヌケな役なんだよね……」
「そんなことより、知り合いなの? さっきの女の子と」
芳樹とは違い、たかしは悟と京が会話しているのに気付いていた。
「京でしょ。知り合いだよ。もうすぐたかしの知り合いにもなるはず」
「もう既に顔見知りだけど? 昨日も講義が一緒だったよ」
「マリ子さんの親友だよ。知らなかった?」
たかしは「知らない……」と答えてから、急に頭を抱えた。「どうしよう……。オレ、彼女のこと全然知らないかも」
「なんて酷い奴だ。親友を落ち込ませるだなんて」芳樹はこうなったのも、全部悟が悪いと責め立てた。「たかし……オマエの代わりにオレがビシッと言っておいてやったぞ。安心して落ち込んでろ」
「彼女が出来たら、疎遠になりそうでひがんでるな」
悟の言葉に、芳樹は図星だと顔を歪ませた。
「オレ達三人はいつも一緒だろう。それが、女一人に崩されるだなんて溜まったもんじゃない」
「でも、さっきサークルの女の子が探してたよ。芳樹のことを」
「オレ達三人はいつも一緒だろう。それが、三角形から四角形に変わるだけだ。問題ない」
芳樹は素早く別れを告げるとサークル室へ向かって走っていた。
聞こえない程度の小さな声で「雑用を押し付けたいんだってさ」と悟は笑いながら言った。そしてすぐ表情を真面目なものに戻して、たかしの肩に手を置いた。
「別に結婚するわけじゃないんだから、そんな真面目に考える必要ある? 学生の恋愛なんて、何かの拍子で好きになって、いつの間にか付き合ってるもんだろう。そんなに劇的な恋愛にしたいなら、同棲から始まった君達の関係は、とても劇的だと思うよ」
「ありがとう……そうだよな。みんな大した理由もなく付き合ってる。好きってだけで。それって悪いことじゃないよな?」
「それは僕より彼女に聞いたほうが早いんじゃない? そんなにすごい理由で、毎回彼氏作ってるの?」
「元カレ達に会って聞きたい……。どうやって付き合ったのか」
「あまり頭の良い選択肢とは言えないけどね。そんなに話したい? 恋人になる予定の女性の元カレと」
「できれば……一生話したくない。まぁ……でも、どうにか頑張ってみるよ。――元カレと話すわけじゃないぞ。彼女と縮めた距離を二人のものにしてみるよ」
たかしはお礼を言うと小さく気合を入れて食堂を後にすると、入れ替わるようにすぐに京が悟の元へやってきた。
「恋愛中なら臭いことも言えるか。ふむ……彼って本当に普通ね。悩みもありきたりだし……将来は一姫二太郎で平凡ながらも幸せな家庭を築きそう」
親友のことを茶化された悟は、少し不機嫌に「まだ帰ってなかったの?」と京に言った。
「マル子がエステに行って一人ぼっちなの。本当はもう少し観察してたかったんだけど、悟君が来てからだいなし」
京はこれみよがしのため息をついてから、席を離れていった。
残された悟は「あの子も変わってるよね」と独り言をつぶやいて肩をすくめた。
その日の夜。告白する決心をしたたかしは、そわそわしながらマリ子の帰宅を待っていた。
明夫はオタク仲間とアニメの上映会。二人きりになるチャンスは今日を逃したらいつになるかわからない。
鍵がガチャと開く音が引くと、たかしの心臓は弾けるように高鳴った。
「お……おかえり」
たかしは緊張から変に上ずった声になっていた。
雰囲気作りで炊いておいたアルマオイルの香りが消える前に、マリ子との関係を一つ先に進めようと思っていたのだが、出だしから躓いてしまった。
「ただいま」と返事をしたマリ子の顔は不機嫌そのものだったからだ。
これは諦めたほうが良さそうだと、たかしは「どうしたの?」と、告白から悩みを聞く方へとシフトした。
「どうもしないわよ……来て」
マリ子はたかしの胸ぐらを乱暴に掴むと、そのまま引っ張って歩き出した。
「ちょっとちょっと! どうしたの? どこいくの?」
突然のことにたかしは慌てたが、マリ子の足が止まることはなかった。
「決まってるでしょう。私の部屋に引きずり込んで――セックスするのよ」
「なんで?」
「これ以上焦らされたらおかしくなりそうだから! するの? しないの? 返事は?」
マリ子が怒鳴るように言うと、たかしは「させていただきます」と大人しく部屋までついていった。
それからしばらくして、まだ余韻で揺れているようなベッドの上で、たかしは荒い呼吸を落ち着けえようと深呼吸を繰り返していた。
一方マリ子は余裕の息遣いで「――それで返事は?」と聞いたが「聞くまでもないわよね」と笑みを浮かべると、たかしの胸に顔をうずめるようにして眠ったのだった。