第二話
「キャー!!」という絹を裂くような悲鳴が家中に響いたので、たかしは慌てて飛び起きた。
マリ子になにかあったのではないかと、寝起きの格好のままでリビングへと向かったのが、そこにいたのは明夫だった。
目を見開き、口をぽかーんと開けて、絶望の表情でテレビ画面を見ていた。
「なんだよ……ホラー映画なら夜に見ろよ……。朝に見るなんて醍醐味が半減だ。それに音が大きすぎる……」
たかしはテレビの音が大きいのだと思って音を下げたのだが、テレビに表示される音量の数字は飛び起きるほど大きいものではなかった。
なにかおかしいと思っていると、不機嫌な足音がドカドカと階段を降りてきた。
「エロ動画見るなら小さくするのがマナーじゃないの? なんで朝から作り物の悲鳴で起こされないといけないわけ」
マリ子はソファに乱暴に座ると、ほうけた表情でテレビを見つめる明夫を睨みつけた。明夫が何も言わないのでテレビを見ると、そこにはアニメの映像が音も小さく流れていた。
日曜の朝にやるような魔法少女のアニメで、今まさに敵と戦っているところだった。
「まさかとは言わないけど……これ見て興奮の雄叫びを上げたわけじゃないよな。だったらオレもかばいきれない」
たかしはそんなくだらない理由で起こされただなんてたまったものじゃないと呆れたが、明夫の表情が徐々に怒りへと変わっていくので、それ相応の理由があるのだと思い直した。
しかし、マリ子は違う。朝の講義はなし、バイトも夕方から。ゆっくり寝ていられるはずの午前中を起こされた怒りは、次々と暴言となっていた。
そして、その言葉の合間を縫うように「コントラストと明るさの設定……」と明夫がつぶやいたのだった。
事情察知したたかしは「君が画面設定をいじったなら、今すぐ謝ったほうがいい」とマリ子に耳打ちをした。
「画面設定? 昨夜ドラマを見る時にいじったわよ。だって見づらいんだもん。鮮やかな方が見やすいでしょ」
「……耳打ちした意味分かってる?」
「わかってるけど、ただ戻せばいいだけのものに、コソコソする意味がわからない」
悪びれた様子もなく肩をすくめるマリ子に、明夫は歯を剥き出しにして怒った。
「君はなんてことをしてくれたんだ! 彼女の尊厳を破壊したんだぞ!」
「そんなに大きくはいじってないわよ」
「いじってないだって!? よくもそんなことが言えたな! 見てみろ! 彼女の肌のベースカラーはR247のG208のB182! これじゃあ R247のG195のB169だ!」
明夫は叩くような勢いでテレビ画面を指した。
「……コイツなに言ってるの。英語? 数学? それともオタクってBWHのスリーサイズのかわりに、なんか特別なアルファベットを使うわけ?」
「信じられない……。肌の色に過剰になってる世界に生きる若者だとは思えない言葉だよ。たかし……やっぱりこの同居は解消すべきだ。僕らまでポリコレ棒で殴られる」
「おおげさだよ。ほら、いつものプリセットを呼び出しておいた。これで解決だろう。もう誰もアニメを見るのを邪魔しないからゆっくり見ろよ」
「僕は現実に歪められたユミコちゃんの無残な姿を見せられたんだぞ。アーチェ様もだ。皆現実のコントラストに染められたんだ。アニメなのに! それにあの女はこの惨状を見て笑ってる!! こんなひどい話があるか?」
マリ子が口元にニヤニヤと笑みを浮かべているので、たかしは訝しく思い眉をひそめた。
「……なんで笑ってるわけ?」
「だって……ポリコレ棒とかプリセットとか、ちょっとえっちぽく聞こえない?」
マリ子はニヤニヤしたまま自分の部屋へと戻っていった。
「明夫……諦めろ。ジャングルで改宗させるようなもんだ。そもそも話が通じない。波の間に間にゆれるゴミのように、ただただ揺蕩うことも大事なんだ。誰かが声を上げるから環境問題になる。誰も声を上げなければ、それはもう自然の一部だ」
「僕は立ち上がる。自分の足でね。君みたいに役に立たないものを立たせる男とは違うんだ」
「朝なんだからしょうがないだろう」
「いつまで寝起きでいるつもりだ。起きて五分で収まらなければ君は病気だ」
「だって、マリ子さんの髪が寝起きで乱れてただろう? そのせいだ」
「この髪だろう? どこがいいんだか……どのみち君は病気だ」
明夫はスマホを見せた。そこには写っているのは、先程撮ったばかりのマリ子の写真だった。
「隠し撮りするほうが病気だろう……。でも、その写真はちょうだい」
「わかってないな。これは復讐の道具だ。これから彼女の肌の色を変えて、これが本当の姿だと彼女のSNSに送りつけてやるんだ」
さっさく明夫は写真を編集し始めた。アプリを使えばこんな簡単に加工できるだなんてと、自然に笑みまで浮かんでいた。
そのサイコパス気味の笑顔に、たかしはまさか本気ではないだろうなと心配した。
「わかってると思うけど……。そんなことしたらポリコレ棒じゃなくて本物の棒で殴られるぞ」
「こんな理不尽な世の中。誰かが剣を掲げるべきだ。エイビス様もそう言ってた」
「アニメの見すぎ」
「そのアニメを汚されたんだ。僕はもう誰にも止められ――ダメだ……出来ないよ……」
明夫はガクリとうなだれてスマホを太ももに落とした。
「良かったよ。思い悩んでくれて」
「もう既に加工済みだった……。なんて女だ」
スマホには現実よりも美肌で、目も大きく、可愛らしく頬が染められたマリ子の写真がプロフィール画像になっていた。
「今どき皆やってるだろう。オレだってやってるぞ。むしろ今じゃそれが礼儀。面接の写真のプロのカメラマンに撮ってもらうのだって、全然印象が変わって見えるだろう」
「なんて時代だ……皆現実を見ていない」
「そう思うなら、朝のアニメタイムをやめて、ニュースの一つでも見たら?」
「バカにするな。僕だって八時からニュースを見てる」
「好きなアニメの声優がナレーションをやってるからだろう。とにかく、もうバカなことを考えるのはやめろよ」
たかしはもう少し自分の部屋でゆっくりしようと背を向けたのだが、明夫が「そうだ!」と声を大きくしたので思わず振り返った。
「バカなことを考えるなって言ったんだぞ……」
「わかってるよ。だから良いことを考えたんだ。あの女の現実の肌の色を変えるんだ」
「もう一度言うぞ……バカなことを考えるなって言ったんだ」
「なにも麻酔をかけて肌を移植しようっていう話じゃない。酔わせて眠ったところ、絵の具で塗りつぶすんだ。遅刻寸前に起こせば、そのまま出ていく。あの女が外で笑われることによって、自分の浅はかさと視野の狭さを思い知ることになる」
明夫が意地悪な笑みを浮かべると、階段を降りてくる音が聞こえた。
「友達と外で食べてくる約束したから、私の分の朝ごはんはいらないわよ」
小走りに玄関へと向かうマリ子に「そもそも用意してないよ!」と怒鳴りにいった明夫だが、とぼとぼとリビングへと戻ってきた。
「今度はなんだよ」
「朝と肌の色が違ってた……」
「友達と会うなら、化粧くらいするだろう」
「なんなんだよ! どれが本当の肌の色がわからないよ!」
「マリ子さんには効かないんだよ。諦めなよ。まったく……」
たかしは今度こそゆっくりしようと部屋に戻ると、音楽をかけて明夫のことは忘れることにした。
「僕は絶対に諦めない……見てろよ……」
明夫は洗面台で顔を洗ってしゃきっとさせると、良いことを思いついたと笑みを浮かべた。
「ね? 笑っちゃうでしょ」
マリ子は今朝の出来事をカフェで女友達に話していた。
「まぁ、笑える。他人事だし」
友人の京は男前な笑みを口元に浮かべながら言った。
「なにそれ……。自分のことだったら笑えないってこと?」
「オタクのことはよくわかんないけど、なんかこだわりがあるってことでしょ。マル子が写真を加工する時に、絶対ネコひげをつけるみたいな」
「あれは高校生まで。今やったら寒すぎんでしょ。あとマリ子よ、マリ子。あのオタクの前で呼んだら怒るわよ。マル子なんてあだ名、いじられどころ満載なんだから」
「追い出されたら、行くところないんだから。印象を良くしろってこと。今更第一印象は変わらないけど、謝ることくらい出来るでしょう」
「もっといい考えがある。私がみゃーこのところに引っ越す」
「最初に断ったでしょう。実家暮らしだし、部屋が化粧品臭くなるのはお断り。あと京ね、み、や、こ。みゃーこじゃない」
「どっちかというと猫じゃなくて、虎って感じだもんね。でも、みゃーこの方が可愛いもん。でも、マル子は可愛くない。わかる?」
「なにが? 名前の可愛さの話? それとも、オタク君には絶対に謝りたくないって話?」
愚痴なのか相談なのか雑談なのかわからないものを聞かされた京は、コーヒーを一口飲んで早く結論を出すように急かした。
「レポートをコピーさせてって話。あのクソ男と別れたり、引っ越しでバタバタしてやる時間なかったの。大丈夫。展開をコピーするだけで、他の文章は引用で誤魔化すから。引用して、自分の意見を述べる。また引用して自分の意見を述べる。回転寿司のお皿のように積み重ねていけば、最後にはそれなりの値段になるってわけ。てか、寿司食べたくない?」
「コーヒー飲んでるのに?」
「レポート書くのに、頭を使ったらお腹が減るでしょう」
「コピーするのに?」
「わかった。ただお寿司を食べたいだけ」
「ダイエットするって言ってなかった?」
「明日からするわよ」
「それ、先週からずっと聞いてるんだけど……」
「ダイエットっていうのは、そういうものなの。みゃーこは細いから、女の苦労なんてわからないのよ」
マリ子は京レのポートの起承転結をコピーすると、後は手慣れたように電子書籍から文章を引用して引用元を記入していった。
「そうだよ、女同士でもわからないことだらけ。男と暮らすんだったら、余計わからないことだらけ。我を通すとこじらせるだけでしょ。別れた原因を思い出しなよ」
「アイツの浮気だけど? ありがとう思い出させてくれて」
「同棲なのに、マル子の理想を押し付けすぎて、彼がプレッシャーに耐えられなくなったのが原因だと思ったけど?」
「それもある。でも、それは別れる原因になるけど、浮気をする原因にはならない」
自分は絶対に悪くないと言いはるマリ子に京はため息をついた。
「マル子はもっと考えて行動するべきだね。普通は見知らぬ男と同棲なんかしないよ」
「見知らぬじゃないよ。一人は同じ大学で私に惚れてるの。もう一人は紙とディスプレイに映った女じゃないと興奮しない変人」
「ちょっと待った……惚れてるの? マル子に? 初耳なんだけど」
「私のことを好きな男の話をしてたら、毎日挨拶代わりに男の名前をだす嫌な女になるけどいいの? 大丈夫よ。襲う勇気なんてありもしないんだから。世間体を気にする普通の男よ。もう超普通」
普通と呼ばれる男に京は心当たりがあった。京だけではなく、同じ大学に通っていれば皆が想像する普通の男というのが存在するからだ。
「あぁ……彼ね。いくつか講義が一緒だ。たしかに普通だね。顔も名前も思い出せるけど、なにを話したかまったく覚えてない。凄いよね。挨拶と当たり障りのない会話だけで、皆共通の知り合いになってるもんね」
「動かなければ、たかしが大学のハチ公前になってたね。ところで、レポートの邪魔してるの? それともダイエットの手助け?」
「両方。簡単に言えば、ハムが来るまでの暇つぶし。あの子また遅れるって。ジムで知り合った男にご飯を奢ってもらって、食べすぎて動けないんだってさ。あっ……と、ごめん。また邪魔しちゃった。もう黙ってるよ」
京がコーヒーに口をつけると、マリ子はそれはないんじゃないと睨みつけた。
「ちょっと……気になるところで止めないでよ。レポートが手につかないじゃない」
「最後まで話したつもりだけど?」
「食べたのはご飯なのか、男なのか。それに、ジムにいる男ってことは鍛えてるってことでしょう」
「ハムの話だよ」
「あぁ……そうね。ハム子だもんね。でも、待った。その男は手つかずってことでしょう。お皿に乗ってお腹の板チョコを晒してるのに、誰も溶かしてないんでしょう。私が溶かさなきゃ」
「ダイエットは? してるんじゃないの?」
「そっちのダイエットはしてない」
「レポートは? 単位危ないんじゃないの?」
「親に殺される……」
マリ子は今度こそ集中だと、コーヒーのおかわりを頼み、ラストスパートをかけてレポートに取り組んだ。
結局頭を使いすぎたせいで、寿司を食べるという気力もなくなり、精神的にフラフラになって家に帰ってきたマリ子だが、手を洗おうと洗面所に向かって驚愕した。
「なにこれ……」
「それが本当の君の姿だ。実に醜いだろう?」
明夫は背が低く、脚が短く、潰れて太ったマリ子を見て、勝ち誇って笑った。
「えぇ……見にくいわ……。私は自分の部屋に鏡があるけど、アンタ……自分の髭を剃る時はどうするのよ」
マリ子は湾曲したミラーの自分を見てため息をついた。まさか明夫がこんなにお金と労力を使って仕返しをしてくると思わなかったからだ。
「僕は髭が薄いもん」
明夫は現実のマリ子と、鏡に映るブクブクに太って見えるマリ子のツーショットを撮り、してやったと笑顔を浮かべて去っていった。
翌日傷だらけなった顎をさすりながら、明夫を睨みつけるたかしの姿があった。