第十九話
「明夫!! 何をしてるんだ! バレたら殺されちゃうぞ!」
たかしが叫んだのは、夜九時を回った頃だ。
「殺されないよ。僕をなにと勘違いしてるんだ」
「下着泥棒以外ある? 今なら見なかったことにする」
たかしは明夫が握りしめている下着を睨んで言った。
男二人と女が一人の生活環境。推理するまでもなく、下着の持ち主はマリ子だ。
明夫とマリ子は相変わらず馬が合わない。そんな関係で、下着を盗むだなんて大きな騒ぎになるとたかしは慌てていた。
「だから、それが勘違いなんだって。僕は頼まれたの。洗濯機を回したけど、干す時間がないから頼んだわよって」
「オレがそんな簡単な嘘に騙されると思うのか?」
「思うよ。たかしはお人好しだからね。でも、今はこれが真実。僕が三次元の下着でどうこうすると思ってるなら、君は僕の親友とは呼べない」
「たしかに……。でも、なんで明夫なんだ?」
「それも今の答えと一緒。君は下着でどうこうするだろう?」
「たしかに……。オレが女性なら、絶対にオレに下着を干してなんて言わない」
「それは相手をどこまで性的対象として見てるかによる。見てよこのパンツ」
明夫がパンツの端を摘んで広げて見せようとするので、たかしは慌てて目を背けた。
「明夫!! 君には興味がないものかもしれないけど、オレにはそれが百万円の札束に思えるんだ。だから、そういう風に見せるのはやめてくれ!!」
「これが百万円ね……」明夫はパンツを広げたまま薄ら笑いを浮かべた。「こんな父親の靴下みたいのがね……。信じられないよ。ヨレヨレでヨレヨレでヨレヨレ。ゴムが切れるまで履くつもりなのかな?」
「明夫! やめてくれ!」
「もう、見せてないよ」
「その下着のディティールを説明しないでくれって言ってるんだ」
「うそぉ……こんなのにも興奮するっていうのか? 僕は現実の女の子に興味なくてよかったよ……。これに興奮するってのは無理があるよ」
「世界中の八割の男はそうだよ! 幻滅させるようなことを言うなってこと。わかるだろう?」
「わかるけど、わからない。まだあの女に幻滅してないの? 僕は幻滅し切ったよ。ティッシュをポケットに入れたまま洗濯機に放り込むしね」明夫はブラを乱暴に振って、こびりついた紙屑を落とした。「これもソシャゲ招待の報酬を手に入れるための試練だ」
明夫はぶつくさ文句を言いながらも、マリ子の洗濯物を次々と干していった。
マリ子が明夫に頼んだ洗濯物は、普段着にしているものばかりだ。さすがにブランド品やお気に入りの服などは明夫に触られたくないので別にしてある。だが、そのせいで明夫からの評価は下がりっぱなしだった。
よれて形が定まらなくなった下着に、毛玉だらけでザラザラするスウェット。使い古してゴワゴワになったタオル。明夫はより一層現実の女性に落胆することになってしまった。
明夫が干してる間。たかしは手伝うことも出来ず、適当にテレビを見て時間を潰していると、スマホに着信があった。
「はい、オレだよ。そうそう。え? なんで? お金は? へ? それじゃあどうやってそこまで行ったの? うん……。うんうん……。あーでも……わかった。すぐ行くよ。お金持ってくから、ファミレスかなんかに入ったら連絡して」
たかしはすぐにソファーから立ち上がると、自分の部屋へと走っていった。
着替えて出てきたところで、明夫は「どうしたの?」聞いた。
「マリ子さんが文無しで取り残されたんだって」
「今日は恋人のライブの日だって言ってなかった?」
「そう。きっとバンドのメンバーが置いていったんだ。バンドマンなんて飽きたらぽいだ。最低の奴らだよ」
「それ、本気で言ってる?」
「もちろん!」
「君はまだまだだね。マリ子のことをわかってないよ」
「悪いけど、君にどうこう言われてる暇はない。助けに行かなきゃ!」
たかしは慌ただしく体を壁にぶつけながら玄関まで走っていった。
その後ろ姿を見ながら、明夫はまた都合よく思い違いをしてると肩をすくめた。
それからタクシーで三十分かけて、たかしはマリ子から連絡のあったファミレスへと向かっていた。
「待った?」
「待った」
マリ子は不機嫌に言うと、座れと対面の椅子を指した。
「……元気そうで安心したよ。とりあえずは」
「よかないわよ! あのクソ男! めちゃ最悪。まじで最悪。本当に最悪よ!」
「それには全面的に同意しちゃう。あいつはクソな男だよ。最低だ」
たかしはこれでマリ子が彼氏と別れるなら、一石二鳥だと名前も姿もわからないバンドマンの彼氏を貶した。
「でも好きなの……」
マリ子が俯いて言うと、これは時期尚早の悪手だったと、慌てて彼氏のフォローに入った。
「そうだね。彼は良い人だと思うよ。もう少し考えてみたら?」
「そんなわけないでしょう。最低最悪よ」
「あー……もうどっちでもいいや。何があったわけ?」
「私は彼氏のライブを見に行っただけよ。一番前に陣取って彼に声援を送る、彼は手を振って返してくれる。それが、なんでこうなったか聞きたいって言うの?」
マリ子は乱暴にテーブルを叩いた。
コップが揺れ、水滴が飛び跳ねる。慌てて近寄ってくる店員に、たかしはなんでもないとジェスチャーをした。
「出来れば、警察を呼ばれる前に聞きたいね……」
「私にもわかんないわよぉ……」
マリ子の目尻に溜まっていた涙は、悔しさに顔を歪めると頬を伝って落ちた。
「とにかく、話してみてよ」
たかしは話しやすいようにと、マリ子の好きなアイスを注文しながら慰めた。
「一次会まではよかったのよ……。私は王女様。だって、バンドのギターは王子様だもん」
「それって……ドラゴンを倒したり、魔法のランプを使ったりする? もしするんだったらそこら辺は飛ばして、おとぎ話のフィナーレを頼むよ」
「わかるでしょ? 二次会よ、二次会! 彼に二次会来る? って聞かれて、お金がないって言ったの。そしたら、それは残念だね。だって! はぁでしょ? はぁ? だよね。こっちはオマエのライブのチケット買って金がないんだっての! 奢れよ! 二次会は!」
「もしかして、一次会で全部使ったわけ?」
「一次会は、バンドメンバーが経営してる居酒屋だからお金はかからないの」
「ちょっと待って……つまり、ほとんど文無しのまん出掛けたわけ?」
「だって私可愛いから。お金なくても遊べちゃうの」
「もしかして、オレって洗脳されてる?」
たかしはマリ子の顔をじっと見ながら言った。
言ってることや行動が最低だとしても、それでもマリ子が可愛く見えてしまうからだ。
例えば、手持ち無沙汰に髪をくるくると指で巻いたり、肘をついてため息をつく仕草。聞いてるのか確認するように睨む目。そんな些細なことの全てが、たかしの心臓を高鳴らせていた。
「洗脳するなら、オタクだけで十分よ。今も私の洗濯物干してるはず。とっくの間に登録済みのソシャゲに招待するためにね。哀れよね」
「嘘なの? それは後が怖いよ……。明夫は執念深いぞ」
「私の下着を触れるなら安いもんよ。紐だったり、小窓付きは洗濯機には入れてないけどね。あのオタク、下着の手洗いの仕方って覚えると思う?」
「カラシを塗られたくなかったらやめて置いた方がいい」
「そんなことされたの」
「友達がね。ちょっとからかい過ぎた代償が玉の腫れだ。歩き方が治るまで、金髪たぬきって呼ばれてたよ」
「それ面白い。今度は、熱湯で腫れ上がりそう」
「オレは冷や汗もの。寒気がしてきたよ」
「熱湯でも頼む?」
「今の話題で熱湯が出てきたら、おしっこが止まらなくなるよ。大きい赤ちゃんを連れた女だと思われたいなら止めはしない」
「じゃあ、はい。代わりにアイス」
マリ子はスプーンですくったアイスをアーンとたかしの口元に近付けた。
しかし、たかしは口を開けないので唇に触れるだけだ。
マリ子は不満な顔で「食べないの?」と聞いてきたので、たかしは慌てて口を大きく開けた。
「アイス一口よ? 私の手まで食べられそう」マリ子は笑みを浮かべると、アイスをたかしの舌に落として「よしよし」と頷いた。
「ファミレスのアイスも美味しいね」
「アイスはいつでも美味しいのよ。むしゃくしゃした時も、落ち込んだ時も、楽しかった時も、エッチした後もね。いつでも食べたくなる」
「エッチは経験ない」
「あら? そうなの? 勿体無い。新作アイスはベッドの中で作ってるんじゃないか? って思うくらい相性抜群なのに」
「じゃあオレはアイス屋さんになろう」
「一人でする度にアイス食べるつもり? わかってるわよ、冗談よ。素敵な彼女と一緒にやるんでしょう。……今すぐアイス屋を開いて雇ってくんない? 正直今月生きられるほどお金持ってないの」
「さっきお金がなくても出歩けるって言ってなかった?」
「しょうがないでしょう。フリーになっちゃったんだから。フリーで男に愛想を振り撒くのって面倒くさいのよ。すぐ彼氏面するし、ご飯食べるにも興味ない話題に延々相槌打たないといけないし。なんで男って、もうやめてっていう女の相槌を、もっと話って相槌に勘違いするの?」
「それはおだてるから……それより、フリーになったって言った?」
たかしが身を乗り出して聞くと、マリ子は近すぎだとアイスのスプーンを唇に押し付けて座らせた。
「言ったわよ。ファミレスに入る前にメッセージ送ってやったの。文字はなし。わかりやすく、道端に落ちてた犬の糞のドアップをね。……危うくカメラにつくところだったわ」
「それは強烈だ。でも、ドアップだとクソだって伝わらないかも。それを見てチョコレートアイスを買ってこられたら、もう一生チョコアイス食べられなくなりそう」
「最悪……想像しちゃった。そういう話題を出すなら、お皿を確認してからにしてよ……」
マリ子はもう食べる気がなくなったと、アイスの盛り合わせを卓也に目の前に押し付けた。
「そんなこと言って、ほとんど食べてるじゃん。バニラもストロベリーもね」
「私はチョコが好きなの。最後に取っておいたのに……犬の糞で台無し。一生恨むわよ」
「君が言い出したんだけどね……。さぁ、帰ろうか。今なら電車もあるし、コンビニでアイスを買う権利もあげちゃうから」
たかしはアイスを一気にかっこむと、伝票を持って立ち上がった。
「それを早く言ってよね……。ファミレスの安物アイスでカロリー取っちゃったじゃん。食べるけど」
マリ子も立ち上がるとたかしの後を続いてファミレスを出た。
外は変わらずの夜。ファミレスに入る前と同じだ。雨もなく、人はまばら。
たかしにとって違うことは、マリ子がフリーになったくらいだ。
「まだこんな時間ね。カロリー消費のために少し歩いてから帰ろうか?」
「オレも?」
「こんな夜道を可愛い女の子一人で歩かせるつもり?」
「そうじゃないけど、大学も近いし変な噂が立ちそう」
「噂ね……そうだ!」マリ子は思いついた顔で、たかしの足元を指した。「その辺、犬のうんこが落ちてたわよ」
「うそ!? 踏んでないよね」
たかしが片足を上げて靴裏に犬の糞がついていないか確認した時だ。急にマリ子に腕を引っ張られた。
片足では踏ん張ることができず、すぐに転んでしまった。
しかし、行き先は歩道ではない。マリ子の肩だった。
カメラのシャッター音が鳴り響いたかと思うと、マリ子が「送信完了」と得意げに自分のスマホを振って見せた。
「なに? 犬のうんこを踏んだ男だって、グループに流したわけ?」
「違うわよ。新しい彼氏だって、元彼に送ったの。彼……頭が悪いから、たぶんさっきの犬のうんこの写真を見ても気付かないわ。でも、これでばっちり。これで気付かないんだったら、彼は天然記念物よ。絶滅寸前のアホね。一生国に保護してもらわなきゃ」
「だね」とたかしは笑った。
その笑顔を見たマリ子は「ありがとね」と言っていなかったお礼を言った。「嫌な女でしょう。こんなところまで呼んで」
「オレ達は同居人だからさ。そういう関係もありじゃない? 友達にも見せたくない姿はあるだろう? そんな時はオレの出番」
「優しいのね」
「と言うより……なんか罪悪感が」
たかしはマリ子の開かれた胸元を見た。普段はヨレヨレのブラジャーをしてるのかと思うと、幻滅でもなく興奮でもない変な気分になっていた。
そして、二人が帰宅すると、明夫はまだ洗濯物と格闘していた。
「もう十一時だぞ? 二時間も洗濯物干してたのか?」
「違うよ、ブラジャーと格闘してたんだ。なんだこのブラは! 糸のほつれをちぎってたら、あっという間に分解されちゃったぞ」
明夫はバラバラになったブラジャーをどうして良いのかわからず、まごついていた。
「これじゃあ、ソシャゲに登録するのは無理ね。でも、これは不問にしてあげる。あなたの友達に感謝することね」
マリ子はコンビニの袋に入ったアイスを掲げて見せると、鼻歌を歌いながら二階の自室へと上がっていた。
「どうやら、たかしに助けられたみたいだね。お礼にこれをあげるよ」
明夫はバラバラになったブラジャーをたかしに押し付けた。
「これをどうしろって言うんだ」
「僕には無理でも、君ならうまく使えるはずだ。健闘を祈る」
明夫は敬礼すると、肩が凝ったと自室へと戻った。
たかしはひとまずブラジャーを部屋に持ち帰ると、箱にしまうことにした。