第6話
「あー……」といった落胆の声や「おー!!!」という驚きの歓声は、スポーツの試合を見ているわけでもなければ、アニメの鑑賞会をしているわけでもない。
マリ子の一挙手一投足を眺めている明夫のものだ。
「……なんか文句あるわけ?」
「ある。僕はてっきりおかゆを作ってくれるもんだと思ってた」
「だから作ってるでしょうが」
マリ子はフライ返しを剣のように明夫に突きつけた。
「おかゆにフライ返しは必要ないはずだけど」
「フライパンの焦げを取ってんのよ。あーもう! 頑固な奴ねぇ!」
キッチンでドンガラガッシャンとアニメのような音を立てるのを、明夫は怪訝な顔で聞いていた。
「たかし……僕達は殺されるかも知れないぞ……」
「殺されても、それは明夫だけ。マリ子さんはオレ達の看病をしてくれてるんだぞ。機嫌を損ねたら、それこそ殺されるかも知れない……」
「なに言ってるのよ。加湿器をつけないで寝たおバカな彼氏は誰?」
そう。たかしも明夫に続いて、インフルエンザに掛かり、シェアハウスで元気なのはマリ子ひとりだった。
いちいち二人の部屋を行き来するのも煩わしいので、リビングに布団を敷き、二人並んで寝かせられているのだ。
「口答えしていいなら、今年のインフルエンザに対策は意味がない」
「私は元気よ、見て。ルームシェアの弊害よね……。これが女子大生がやること?」
家にインフルエンザ発症者が出たので、外で友だちと遊ぶわけにもいかない。
結局マリ子がやることは、二人の看病をすることだった。
「君が見るのはフライパンだ! また焦げてる!」
たかしが咳混じりに指さした方向では、湯気ではない白煙が上がっていた。
「わっ! わっ! 大丈夫! フライパンは無事よ!」
マリ子が真っ黒になったおかゆを見せる。
「僕らのご飯は?」
明夫のため息は、慣れないことをするマリ子にはいつもより大きく聞こえた。
しかし、今日はいつものように怒って相手をするのではなく、スマホを取り出した。
「私は学ぶ女よ。見てなさい」
マリ子は自信満々の顔で友人たちに、おかゆの作り方を聞き始めたのだ。
「てっきりネットで頼むかと思った……。ねぇ、たかし……彼女本当に学んでる? ねぇねぇ、僕ら危険じゃない?」
「なんでオレに言うんだよ」
「たかしの恋人だろう。痴情のもつれで僕まで一緒に殺されたくない」
「マリ子さんはオレ達の看病をしてくれてるんだぞ」
「本当に? 僕らは死刑を待つ囚人になっていないかい?」
明夫が耳を済ませろと言った風に目配せをしたので、たかしは耳をそばだてた。
聞こえてくるのは『え? プロテイン? おかゆに入れるの? え? 違うってダイエットじゃなくて、インフルよ。バカねぇ、ハム子は。ステーキ食べて寝れば治る?』という不穏な会話だ。
「オレ……今ステーキなんか食べたら、残らず吐く自信がある……」
「君はもう恋愛という刑務所生活に毒されてる。普通は食べるという選択肢は出てこない」
「なんだよ。じゃあ、どうしろっていうんだ?」
「決まってるだろう――脱獄だ」
明夫の表情は真剣そのものであり、その迫力にたかしも思わず頷いた。
「でも、よく見ろ。彼女は密に連絡を取り合ってる。もしかしたら、誰かにヘルプを頼むかも知れない。熱でぼーっとして、関節が痛みふらつく身体で玄関まで行くのは危険だ。鉢合わせる可能性も高い。今朝の出来事を忘れたのか?」
「そうだった……。次の一歩を踏み出すのに、通常時のおよそ5倍はかかってた。おしっこを漏らすところだった……。でも、異世界惑星の重力を味わった気分で悪くなかったよ。予行練習が出来た」
「それに関節の痛みでまとめに噛めないから、食べれてもないだろう。だからもっと身体は動かないし、もっと頭は働かなくなる。オレ達が動けるのは一回だと思ったほうがいい」
普段ならツッコミを入れて道筋を正すのがたかしの役割なのだが、高熱で朦朧としているせいで、明夫の暴走を止めるどころか、ますます加速させるような言動を取っていた。
「僕はこの家の間取りを熟知している。引っ越す前から、家を借りる前からだ。何度も間取りをチェックし、何度も何度もシミュレーションをした。君を連れて脱獄するなんて余裕だ」
「看守の目は厳しいぞ……。なんとしてでもオレ達に、おかゆという名の創作料理を食べさせようとしている……」
たかしは色んな友人にアドバイスを貰うマリ子に震えていた。
相手の声は聞こえないが、どんな事を言っているか丸わかりだからだ。
『え? 塩と砂糖をわざと入れ間違えるの? なんで? それってアコの好みじゃなくて? へー、そういう女のアプローチもあるんだぁ。ん? なになに? 大丈夫よ、火傷じゃなくて火傷のフリでいいんでしょ? メイクでどうにでもなる』
「大丈夫だ、たかし。僕を信じろ。絶対にここから連れ出してやる」
「でも、どうやって」
「壁に穴を開けるんだ。方法はある。フィギュア棚を作る時にDIYをしただろう」
「オレがね」
「その時に使った工具を覚えてるかい?」
「オレが騙されて買った工具だ。持ってるが男らしいって、テレビのバラエティを切り抜いて編集された動画を、特番だって見せられたから」
「感謝してよ。アニメじゃない切り抜き動画を作ったのは、後にも先にもあの作品だけだ。僕が異世界で名を馳せても、このことだけは言わないで。僕の唯一の汚点とも言える」
「これって怒るところ? 呆れるところ? 睡魔が襲ってきて、考えがまとまらない……」
「まったく……ヤクのやり過ぎには気をつけろって言っただろう」
「インフルエンザの薬の副作用だ……。しっかりしろよ。それで、どこの壁に穴を開ける?」
たかしは眠気を遠ざけるように、布団から少し身を乗り出した。
「それはここに」
明夫は来ているトレーナーを見せた。
「そのアニメプリントのトレーナーはなんだ……」
「アイプラだよ」
「絵柄を聞いたわけじゃない」
「このアイプラのフィギュアが飾ってある棚の下に、その工具はあるってこと。脱獄に必要な情報はすべてこのトレーナーに入ってる」
「ただのトレーナーだろう」
「トレーナーだけど、ただのじゃない。プレミアがついてる代物だぞ」
「無料か高級かの話じゃない……」
「その話だよ。なぜプレミアがついたかだ。このトレーナーは絵柄だけじゃない。材質にもこだわっているんだ。生地の配合に至るまですべてに意味がある。いいかい? 目に見えるものだけが真実じゃないんだ。綿70ポリエステル30。たかし、この意味がわかるかい?」
「……綿70ポリエステル30の生地を使ってる?」
「違う! いや、そうなんだけど……。僕が言いたいのは、ヒロインのはいてるパンツの材質と一緒なんだ」
「まさかそのパンツを被ったら魔法少女になるなんて言わないよな」
「魔法少女を侮辱するな!! 彼女らはいつも使命を受けて能力を与えられるんだ。そして、僕達はシナリオを解読する義務がある。つまり、このトレーナーを解読すれば、自ずと脱獄へのルートは見えてくる」
「オレには6人の女の子がポーズを取っているようにしか見えないけど」
「良いところに気付いた。さすが僕の親友……。6人のうち、一人だけ指を指してるポーズの子がいるだろう? その子が指し示す方に、アイプラのフィギュア棚がある。わかるかい? 全ては偶然ではなく、緻密に計算されたものなのだよ」
明夫が口角を吊り上げてニヤッと笑った瞬間、マリ子に「ちょっと」と声をかけられた。
「な、なに?」と必要もないのに焦り、たかしはどもってしまった。
「お米の芯が残っててもおかゆと呼べるわよね」
「芯が残ってるのは一般的にピラフじゃ! いや、呼べるね。おかゆと呼べる」
明夫がボロを出す前に話を切り上げろというサインをしたので、たかしは適当に話を合わせて誤魔化した。
「よかった。もうちょっと待っててね。焦げずに芯がなくなったらご飯を食べあせてあげるから」
マリ子は鼻歌まじりに上機嫌でキッチンへと戻っていった。
ホッと一息ついたのは明夫だ。
「あぶなかった……。たかしはマリ子の前だと、いつも余計なことを口走る」
「身に染みてるよ……。ところでさ、さっき眠気が出たって言っただろう」
「言ったね。薬が効いてきた証拠だろう」
「そうなんだ。それと、さっきのマリ子さんに話しかけられた変な緊張感でかいた汗で、オレは我に返った。なんだ? 脱獄って」
今度は「ちっ」と明夫が舌打ちをした。
「親友……昔の君はもっと扱いやすかったよ。ある時は僕の言われるままにカードゲームにハマり、飽きては僕に譲渡。ある時は僕の言われるままにソシャゲに手を出し、ボクは紹介でもらえる石でウハウハ」
「それでなんだ。なにが目的なんだ。まさか本当に壁を壊す手伝いをさせたいわけじゃないだろう」
「当然だろう。これから冬に向かうんだぞ。死ぬつもりか? ボクは最初から恋愛という刑務所生活に毒されてるって言っただろう」
「言っ……てたな」
「君とマリ子が別れたら、コレクション部屋が一つ復活したのに残念だよ。なにが今年のインフルはたちが悪いだよ。男女の仲の一つも拗れさせないで、たちの悪さなんて語らないでほしいね」
明夫は心底がっかりしたと、これ見よがしなため息を落とした。
「たちが悪いのはどっちだよ……。よくその高熱で頭が回るな」
「命の危険がかかってれば誰だって賢くなる」
そう言って明夫が見せたのはスマホだ。
画面には配達中の文字。
マリ子の料理に期待していない明夫は、こうなることを予測して途中から料理を頼んだのだった。
「明夫……まずいぞ」
「なんで? おかゆを配達してるところがなくてうどんだから? それとも味の心配? そんなのマリ子より美味しいに決まってるじゃん。ほら、きたぞ」
明夫が車べている最中。ピンポーンとインターホンが鳴った。
まさかデリバリーが届くなんて思ってもいなかったマリ子は激怒して出ていった。「信じらんない!」という言葉を残して。
無理もない。一言の相談もせずに、勝手にデリバリーを頼んだのだから。
「ほら、怒っただろう。マリ子さんの時間を無駄にしたんだぞ。わかってるのか?」
「わかってるよ。無駄な看病をさせたってことだろう。別の可能性を探すなら、これはどう? 彼女はうどんのことをケーキって言われ育てられていた。だからそれが嘘だってわかって怒った」
「じゃあ聞くけど、どっちが取りに行くんだ」
現在ふたりとも薬が効いてきて眠気が出ている。前日からの疲労も抜けきっておらず、関節の節々が痛みトイレに立ち上がるのも一苦労。
マリ子が入れば、眼の前まで運んできてくれる。
デリバリーを頼んだの一言さえあればだ。
そんな単純なことに気付いた明夫は、今更「あっ」と口をポカーンと開けた。
「身体を起こすのでさえ一苦労なんだぞ……。それともこのまま寝るか? 起きた時に食べるのは冷え切った水を吸った小麦粉の塊だぞ。別の可能性を探すなら、うどんで微々たる加湿をしてるってのはどうだ? 加湿器の水を変えてくれる、マリ子さんも出て行っちゃったしな」
たかしは恨み節を明夫にぶつけた。
「ペストを運ぶネズミだって、こうやって出ていったのかも知れないだろう。だとしたら防ぎようがなかったのは歴史が証明してる」
「熱が下がったら覚えてろ……」
「まずは熱が下がることを祈ろうよ」
「たしかに……」
それっきり二人の意識は途絶えた。
次にたかしが目を開けた時、移ったのは芳樹の姿だった。
「おい、大丈夫か? マリ子から聞いたぞ。動けねぇって。ほら、たかしオマエの分のうどんだ」
気付くとたかしの隣では、先に起こされた明夫がうどんを食べていた。
少食の彼だったが、昨夜から満足に食べれていなかったので、少し伸びてぬるくなったうどんは、それはそれは食欲を誘ったのだ。
時計を見ると、芳樹がマリ子と尾ほぼ入れ替わりでやってきたのがわかる。
つまり、マリ子に呼ばれたわけではなく、彼からやってきたということ。
その友情にたかしは思わずじんわりと感動したのだ。
「芳樹……インフルエンザがうつるぞ。予防接種もまだだろう」
「バカヤロー。オレはうつされに来たんだよ」
「は?」
てっきり「バカヤロー」の後は「友達だろう」と続くと思っていたたかしは、予想外の言葉に固まってしまった。
「悟もインフルエンザだぞ。オレ一人で大学に行けっていうのか? 言っとくけどな、友達はオマエらだけじゃないけど、皆インフルエンザだ。……頼む仲間はずれにしないでくれ」
「なに言ってんだ……」
「今インフルエンザをうつされたら、ちょうど皆が治る頃にオレが具合悪くなるだろう。優しくされてぇよ……」
「親友……君は大丈夫だ。インフルエンザなんてものともしない」と口を挟んだのは明夫だ。
「それじゃあ、困るんだよ。いいか? レポートの提出もない、今がチャンスなんだよ。期末のゴタゴタした時にインフルエンザにかかったら大変だろう。今だけだ! 今だけなんだよ! 怠惰に甘やかされたいんだ!」
「芳樹は無理だと思うけど……助かったからお礼だけ言っとくよ。ありがとな」
「おう!」
芳樹は任せろと目一杯自分の胸を叩いた。
たかしはバカは風邪引かないと言うが、インフルエンザはどうなだろうかという疑問を、うどんと一緒に飲み込んだ。




