第三話
「だから結局恋愛にも距離が必要なわけ。わかる?」
マリ子は言い終えると、クリームたっぷりのコーヒーを麦茶のようにがぶ飲みした。
「そうね」
京は本から目を離さずに答える。
「わかるわ。私も今距離を取っているところよ。今までは副隊長とか、押し入れに居候とか、近い距離にいた。でも、最近の彼は向こうからくるタイプなの」
アコはマリ子の方を向いているが、目は開いていても、未だ夢の最中だった。
今は怠惰な午後。
講義までの長い空き時間や、急な休講により、今はマリ子、京、アコ。そして、たかしの4人がリビングにいた。
女三人。
たかしは微妙な空気にいたたまれなくなっていた。
「これってさ……新しい死刑の方法とかじゃないよね。だとしたら、いっそなにをしでかしたか教えて……。全く身に覚えがない」
たかしは過去の経験から、あれこれいうとマリ子が急に名探偵になるのがわかっているので、具体例を言えずにいた。
実際になにも覚えがないので、まるで職務質問にあったような動悸に襲われていた。
悪いことはしていないのだが、思考の自由を奪われたあの息苦しい感じ。
だが、マリ子が「なぁに? 居心地でも悪いの?」という返事より、何もしていないことがわかったので、たかしはほっと胸を撫で下ろした。
「正直、居心地が悪い。変な意味じゃないよ。京さんのことも知ってるし、アコさんの事も知ってる。でも、なんでオレがここにいるの?」
「情けないわね」
「普通に考えてよ。恋人の友達がいるんだ。男にとっては、両親の次に値踏みされる存在だ」
「あら、心外ね。一つ屋根の下。何度も夜を重ねたっていうのに」
京が肩をすくめて冗談を言うと、たかしはふっと細く息を吐いた。
「京さんの冗談はわかりにくい……なにを言われるかと」
「そんなんでどうするのよ。これから二人をもてなすのに――私抜きで」
マリ子の傍らにはバッグがある。いつもの出掛ける用のバッグではなく、仕事用のシンプルバッグだ。
「待った。なにも聞いてない」
「これから二人をもてなすの」
「普段ならそこが一番聞きたいことなんだけど……トラップを二重に仕掛けられた」
「明夫みたいなこと言わないでよ……。理由は簡単。今日は皆で持ち寄っての女子会。でも、金欠なの……。だから、バイトに行って賄いを持って帰ってくるってわけ」
「聞いてない」
「言ってないもの。だって、言ったらお金を貸してくれたり、出したりするでしょう。たかしにはそういう甘え方はしないって決めたの。だから、言ってくるわね。今日の私はキャリアウーマンよ!」
マリ子は力こぶを作るように、バッグを雄々しく肩へかけると、勇ましく家を出ていった。
マリ子がドアを閉める音をきっかけに、家中が無音に包まれた。
残っているのはクールな京と、淡々としたアコ。
社交性のあるたかしだとしても、会話に困ることだけは間違いなかった。
「これなら甘えられたほうが良かった……」
思わず本音をこぼすたかしだったが、ツッコミも嫌味も帰ってこない。
ただ「そうね」と、どっちが言ったかわからない言葉が宙に漂っただけだった。
会話の糸口が掴めぬまま、コーヒーのおかわりを聞いたり、空調はどうかと聞いたり、忙しなく身の回りの世話をしようとするたかしに、思わず京は本を閉じた。
「本当に損する性格をしてるわね、たかし君は。私達がここにいる理由は、ここはあなたがたの家で、私達は他人。マリ子の部屋に他人がずっといるのも悪いでしょう」
「てっきり、オレを困らせるためかと……」
たかしは京の気遣いだとわかり、肩の荷が下りた。
明夫がオタク仲間たちとの独自のルールがあるように、彼女らにもなにかしらのルールがあるのかと思ったからだ。
しかし、ホッとしたのも束の間。アコが目を光らせた。
「私には、オモチャを置いていくから、自由に遊んで。って、まーちゃんが言ってるように聞こえたわ」
「本当に聞こえたなら、耳鼻科に行くべきだ」
「考えすぎだし、気を使いすぎよ」京はコーヒーに口をつけて、一息ついてから続けた。「別に無言だって構わないわ」
「そういう性分なんだ……。そうだ! この前のアロマ凄い良かったよ。オレンジとミントですごい爽やかだった」
たかしが必死で共通の話題を見つけたとテンションを上げたので、京はまるで弟が姉や兄に気を使っているようだと、口元に笑みを浮かべた。
「オレンジとユーカリよ」
「気分転換になるなら同じこと」
「そうね。それがアロマの本質だわ」
「そうだ。アコさんって好きな香りとかあるの?」
たかしは我ながら良い話題を思いついていた。
女性なら大抵好きな香りはあるし、ハラスメントにもならない。
尚且つ、退屈でもなければ、盛り上がりすぎて余計なことを口走る必要もない。
しかし、アコもまた。たかしの予想を覆す、明夫のような性格をしているのを忘れていた。
「オレンジとユーカリ。【弾道ラケット】の【播磨勇】の香りね」
「あら、そのマンガなら私も読んでるわ。ポイントで読むのにちょうどいいのよ」
京がスマホでマンガのタイトルを見せると、アコは少女のようにぱぁっと笑顔を光らせた。
「さすがまーちゃんの友達ね。みゃーちゃんは」
「京なんだけど……。そのあだ名。マリ子から聞いたでしょう。合わないから苦手なのよ」
「わかったわ。心の中では京と呼ぶわね。それでみゃーちゃん。播磨勇は試合前に精神統一するのよ。その時の香りがオレンジとユーカリなの。そして、全国大会で嗅いでいたのはこの香りよ」
アコは財布の中から500円玉くらいの大きさの四角い紙を取り出した。
「へぇ、面白いわね。お香でしょう? こういうのもあるのね」
「インセンスシートよ。財布や小物入れに入れておいて、匂いが薄くなったら燃やして使うの。ウッディーでアンバーな香りで、大人の男を感じるでしょう?」
「そうね。随分甘いアンバーの香りね」
「これはバニラも混ざってるの。彼の心の甘さを表現してるの」
「弾道ラケットの播磨勇でしょう? 彼って熱血漢じゃなかった?」
「なるほど……あなたの中での彼はそうなのね」
「まぁ……そうね。公式プロフィールにも書いてあるから」
「へぇ……公式プロフィールを熟読して、噛み締め、飲み込むタイプね」
仲間を見つけたと勘違いしたアコが顔を近づけて言うが、京は全く怯まなかった。
むしろこの状況を面白いと思って、わざと誤解を解かなかった。
「なるほど……。アコは、一を聞いて十を語るのね」
「それがオタクよ」
今はなんの時間が流れているのか、たかしが心底不思議に思っていると、ドタドタ忙しない足音が聞こえてきた。
「ちょっと! ずるいよ!!」
アニメプリントのトレーナーを着た明夫は、たかしへと一直線に向かった。
「そう思うなら、今すぐ変わってくれ……。というか、部屋にいたなら出てこいよ」
「僕が現実の女に挟まれて、たかしみたいに有頂天になると思う?」
「有頂天にはなってないだろう」
「ハーレムものの主人公は皆そう言う」
「オレには恋人がいて、彼女らは恋人の親友だぞ。なにも思うわけがないだろう」
「じゃあ、僕だって同じ。声優でもコスプレイヤーでもないんだぞ。だとしたら僕を冒涜してるね。でも、それよりさらに冒涜してることがある」
「冒涜もなにも……昔から現実に向き合えないアニメオタクだと思ってるけど?」
たかしの嫌味な言葉に、明夫は満更でもない照れ笑いを浮かべた。
「それは最高の褒め言葉だよ。ありがとう、たかし。僕ら、まだまだ親友でやっていけるよ」
「わかった……話せ。なにが不満なんだよ」
「なんで僕のときは否定されて、彼女らは肯定されるわけ? こんなの差別だよ」
「そうだ。これは差別だ。オレは差別主義者。これで普通から特徴が出来た。ありがとう、明夫」
「なにがありがとうだ」
「なんでオレのときは上手くいかないんだ……」
たかしは諦めの境地で天井を仰いだ。
「これは由々しき問題だぞ。男女差別はポリコレ棒に殴られる。そうなったら、キャラクター原案に問題が出てくる! 昨今キャラクターメイキングが増えたのも、美形に文句を言うバカのせいだ。だから、叩かれるのも自己責任でどうぞで、キャラクターメイキングが増えた。その結果どうだ? 皆理想の自分を作り上げている。僕は取り戻すぞ! 古き良きオタクの時代を!!」
明夫の熱弁に、アコは真剣な表情で「由々しき問題ね」と反応した。
「"オタクと臭い問題"は、新たな局面を迎えているわ。それが"オタクと香り問題"。そういうことでしょう?」
「その通りだ。2.5次元のコスプレイヤーの意見も。味方が乏しい今の状況だと、頼もしく見えるよ」
明夫がため息を挟むのを、たかしは既に離れて見ていた。
「京さん……これってオレがおかしいの?」
「いいえ、でも面白いから黙って見ていましょう。コーヒーのおかわりはどう?」
京は変人を観察するモードに落ち着いており、すっかりたかしと家主が逆転していた。
「昨今はオタクから搾り取る時代よ。想像ではなく、現実とリンクするの。つまり、柔軟剤や香水。架空の香りではなく、現実の商品をニオわせる時代よ」
「驚いた……。2.5次元でも、オタクの本質は理解しているらしい」
「それどころか、私は香りを記憶の引き出しに入れてるわ。だから、香るだけで記憶が蘇るのよ。シーズンごとに上書きされるわけじゃないのよ」
「あら」と京が嬉しそうに声を高くした。
それに気付いたたかしは「なんで?」と聞く。
「マリ子といても絶対に見られないバトルだからよ。オタクの男女のマウントの取り合い。見ものだと思わない?」
「……確かに。おかわりをどうぞ。ポップコーンも開けちゃおっか」
キャラメルの塩気がわずかにリビングに漂うと、明夫とアコの言い合いは更にヒートアップした。
「言わせてもらうけど。僕ら男のオタクは信じられないくらい、お金を使ってるんだ」
「それは女も同じよ。ただ、女が買ったグッズはなかなか流れないわ。ヒロインのフィギュアがやたらと中古で回るの何故かしらね」
たかしと京は同時に顔を見合わせた。
「おお……今のはいいジャブだ」
「そうね。でも、反論を聞いてみましょう」
「いいかい? 中古で回してるのは、男オタクとは言わない。山賊だ。ブラックライトを持参しないと買えない中古なんて、オタク趣味とは言えないね」
京は首を傾げたまま、視線だけをたかしにやった。
「これはカウンターなの? 意味がわからないわ……」
「意味はわかるけど、説明はできない……。言えることは反撃になってないってこと。クロスカウンターが来るぞ」
「いい? 女オタク文化は、ユーザーと一緒に成長してるの。だから、化粧品から服飾品。生理用品に至るまで、私達が子供の頃見ていたアニメのキャラがサポートしているのよ。常に新品の文化を築いているってこと」
たかしが指をぱちんと鳴らした。
「決まった! クロスカウンターだ!」
「さっきから、うるさいんだけど。君たちはオタクをつまみ出す警備員か!」
明夫が叫ぶと、たかしは驚いた。
明夫が怒ったからではない、いつの間にか観客一人。小さい箱の中から『そうよ! やっちゃいなさい!』と盛り上がっていたからだ。
「マリ子さん!?」
たかしは京のスマホに映る、テレビ電話を受けているマリ子にびっくりした。
『かけてきたのは京からよ。面白いものがあるって』
「それはいい。でも、そこで煽ると……」
『スマホなんだから、向こうはどうにも出来ないわよ。さあ! アコ! ヤっちゃいなさい。現実を見てないオタクをぶっ倒すのよ!』
マリ子は客が来なくて暇なのをいいことに、明夫を煽りに煽った。
「たかし! 君の魔女はなんて言った!」
「現実を見てないのは良いことなんだろう」
「現実を見ていないギャルに言われるのと、現実を見ている親友に言われるのは全く違う。だから、僕は現実の女と付き合うのを反対したんだ。何度も何度もね」
「それは関係ないだろう」
「関係ある。君は今、現実の女によく思われたいと思い、親友を売ろうとしたんだぞ」
「そんなことしてないだろう」
「してる。これは徹夜でアニメを見ないとダメだ。まったく……たかしは定期的に、こうやって僕が教えてあげないと、道を踏み外すんだ……。今のうちに寝ておいてよ。じゃないと、エナジードリンクの地獄を見ることになる」
明夫は睨みつけるようにして言うと、たかしの反論を何一つ聞かずに部屋へ戻って準備を始めた。
『だから結局恋愛にも距離が必要なわけ。わかる?』
マリ子はごめんと手を合わせると、テレビ電話を切った。
たかしは盛り下がるアニメ鑑賞会に身を置きながら、深夜の女子会の笑い声を聞いていた




