第二十五話
「ただいま~」
マリ子は帰ってくるなり、部屋に戻ることもなく、ソファーにカバンを置いてくつろいだ。
「おかえり、今日のバイトどうだった?」
たかしは夕食後のテレビのバラエティ番組を眺めているところであり、マリ子は一瞬テレビに目を向けるもすぐに話題へ戻った。
「テンチョーがボスとデートするのに服装に困ってたくらいねぇ」
「いつからマッチングアプリの胴元になったわけ?」
「だって、二人とも奥手なんだもん。正直バイトより、二人を引き合わせたことに時給が発生してほしいくらいよ」
それっきり、二人の会話はなくなった。
特に喧嘩をしてるわけでもなければ、今の会話にムッときた箇所があるわけでもない。話題が途切れたのと同時に、自分たちの時間が流れ始めたのだ。
よくある流れで、ごく自然なことだ。
「な? 不可解だろう」
明夫が言うと、隣でアコが神妙な表情で頷いた。
「本当に変ね。こんなシーンアニメでもゲームでも見たことないわ」
現在、ルームシェアハウスにはアコが遊びに来ていた。
マリ子が帰宅する前までは、三人で他愛もない話をしていたのだが、帰宅と同時に二人は急に黙って恋人の会話に耳を傾けていたのだ。
「これじゃあ、イベントがなにも起こらないじゃない。今すぐ別れるべきよ。この先、あなた達二人にイベントCGは用意されていないわ」
アコの突拍子もない意見に、明夫は深く頷いた。
「その通りだ。彼らは自分たちの立場ってものをわかっていない。現実世界というのは、みんなが主役だと言うけどそれは間違い。じゃなければ漫画の主役になんて憧れない」
「心理ね」
「ちょっとぉ……お二人さん。適当なこと言わないでよね。現実世界はそれでいいの」
マリ子は脱ぎかけの靴下が引っ掛かっているつま先で、ぐちぐち文句を言う明夫を指した。
「君らはそれ“で”いいんだろう。僕らアニメの世界“が”いいんだ」
「待った……意味はわからないけど、その言い方なんかカチンと来るわね」
「僕らは欲望のコントロールが出来てるってこと」
「よく【バクラバーガー】のセットのおもちゃを並べて、そんなこと言えるわね」
「おもちゃじゃない。アニメコラボのスパイグッズだ。ほら見ろ、ココを押すとボタンが光って音がなるんだ」
明夫がプラスチック製の安い作りの時計を見せつけると、マリ子は適当にボタンを押した。
しかし、時計のおもちゃはなんの反応もしなかった。
「違う。そこじゃないって。何を聞いてたんだ」
「聞いてたわよ。スパイグッズなんでしょう。明夫を消すならどのボタンかと思って」
「僕は真面目に言ってるんだ」
「私も大真面目に言ってる。人の恋愛に口を出すなんてバカのやることよ」
「それって自分に言ってる?」
「……いいえ」マリ子は明夫を睨みつけると、時計を乱暴に投げ返した。
「でも、まーちゃん。それじゃあ……尊くないわ」
アコが話に混ざると、マリ子の表情は少し和らいだ。
「言わせてもらうけど、オタクに現実カップルの何がわかるっていうのよ。恋人がいるならまだしも、二人ともデータ化したままでしょう。仮の恋人は」
「あら、私の推しは現実にいるわ。それも目の間に」
アコの熱っぽい視線を、マリ子はため息で回避した。
「いいのよ、私たちはこれで。ね?」
マリ子は甘えるようにたかしに身を寄せた。
しかし、たかしの反応は「あっ」と言った口のまま固まっていた。
明夫と幼馴染の彼は、間違った答え方というものを熟知している。
この場合の正解は『例えばどういうカップルがいる?』だ。
これを聞かなくても結果は同じで、推しカプについての話が始まるのだが、肝心なのは時間だ。
肩をすくめて「やれやれ」から始まるこれからの展開を、たかしだけが予想していた。
そして、思った通り「やれやれ……」と明夫がおもむろに口を開いたのだった。
「やれやれ……君たちは自分たちの関係性がどれだけ希薄か理解していない」
明夫は立ち上がり、部屋の隅に積まれた漫画の山から一冊を引き抜いた。
「例えばこの【月光のラプソディ】。主人公の蓮とヒロインの詩織の関係を見てみろ。彼らの会話には、常に相手への深い理解と共感がある」
「それ、ファンタジー漫画でしょう」
マリ子が呆れた声で言った。
「ファンタジーだからこそ本質が見えるんだ。蓮が詩織に『君の瞳に映る世界を、僕も見たい』と言うシーン。あれこそが恋愛の真髄だ」
「気持ち悪っ」
「気持ち悪くない! 美しいんだ!」
明夫が叫ぶと、アコが興奮気味に割って入った。
「そうよ、まーちゃん。あなたたちの会話には、そういった詩的な要素が完全に欠如してるわ。『バイトどうだった?』『まあまあ』で終わりなんて、恋愛として成立してないのよ」
「いや、成立してるから付き合ってるんだけど。ね?」
マリ子に話を振られたたかしは慌てて頷いた。しかし、その動きはどこか機械的だった。
明夫は漫画をパラパラとめくりながら続けた。
「見ろ、このシーン。蓮が詩織の誕生日に、彼女が幼い頃に見た星空を魔法で再現するんだ。彼女がふと漏らした一言を覚えていて、それを形にする。これが愛だ」
「明夫、たかしは魔法は使えない。アンタと違って童貞じゃないんだから。仮に童貞だったとしても、もう私が奪ってる」
マリ子の冷静なツッコミに、明夫は顔を上げた。
「比喩だよ、比喩。要は相手の何気ない言葉を覚えていて、それを行動で示すってことだ」
マリ子はなるほどと頷いた。それがアニメの知識かどうかは置いておき、妙に自分に刺さる言葉だった。
「たかし、私が何気なく言ったこと覚えてる?」
マリ子が尋ねると、たかしは少し考えてから答えた。
「えっと……先週、パフェ食べたいって言ってたよね」
「それ……何気なくじゃなくて、めっちゃ強調して言ったやつ。アイス三つ乗っけて食べるって言ってたやつ。思い出した?」
「今思い出した……。次のデートはオレ持ちだったことも」
「今4つに変わったわ」
「ほら見なさい。全然ダメじゃない」
アコが勝ち誇ったように言った。
「でも、私は別に困ってないわよ。むしろアイス4つで得した気分」マリ子は肩をすくめた。「そもそも、些細なことまで全部覚えてられたら、それはそれで怖いわ」
明夫は漫画を閉じて、真剣な表情でマリ子を見た。
「そんなんだから、君たちカップルは推されないんだ」
「ちょっと……それは聞き捨てならないわよ。どう考えたって、推されるカップルでしょうが」
「マリ子さん……」
たかしが止めようとするが、マリ子は「黙って!」と一喝して続けた。
「つまり、こう? 明夫……アンタは、他の女がまだ割って入ってくる可能性がある。そう言いたいわけね」
マリ子が明夫に詰め寄るのを、アコは口を半開きにしたうっとりとした表情で見ていた。
「素敵よ、まーちゃん。絶対に自分は悪くないところから始まるのね。00年代を駆け抜けたアニメの暴力ヒロインのようよ」
「00年代のヒロインを暴力ヒロインとは、僕は認めていない。あれはツンデレが流行った付加の属性として理不尽な暴力というステータスがついたんだ。つまりあの時代はツンデレヒロイン。暴力ヒロインの時代はまだ来てないんだ」
「それはどうかしら、暴力という付加価値がツンデレ発祥とするのが間違いの可能性は? 少女漫画における。おじゃま虫キャラからの派生だった場合は考えたのかしら。少女漫画っていうのは、オタク文化の母よ」
「つまりキャラクターという概念は、少女漫画が生んだっていうのか?」
「いいえ、カップリングという概念が生まれたのよ。男より先に、主役以外のストーリーに目を向けたのよ、それが少女漫画。少年漫画はずっと同じ服を着てるでしょう? 彼らの時間は止まってるの。そして章が終わると急に動き出すのよ。少女漫画は場面ごとに時間が動いている。だから場面で服が違うの」
思い掛けずのオタク討論となったのを見て、マリ子はたかしの元へと逃げてきた。
「裏切り者……よくも見捨てたわね」
「見捨てたんじゃない。見なかったことにしたんだ。オレが前に明夫に反論した時は、アニメで勉強させられ、そのアニメの監督が影響されたアニメまで見させられたよ」
「それでも手を伸ばすのが恋人でしょう」
「あの時伸ばさなかったから、今こうして助けられたんだ」
「奴らは強力ね……増殖しないかしら?」
「虫じゃないんだから。それより、マリ子さんって少女漫画読んでたの?」
「あー、柄じゃないって言いたいんでしょう」
「いや……そうだね。柄じゃないかも」
「あら、正直じゃない」
「もしも怒らせた時の謝り方は知ってるけど、誤魔化した時の言い訳が思い浮かばなさそうだから」
「いい心がけよ」マリ子はたかしの頬にキスをした。「少女漫画は読んでたわよ。それで勉強したこともいっぱいあるし、幻滅したこともいっぱいあるわ」
「そうなの? 少女漫画ってきらびやかなイメージがあるんだけどな」
「漫画に限らず、女の子の情報誌はね。夢を見させてくれるのと同時に現実も突きつけてくるのよ。だからこじらせる子も多いのよ。不幸な恋愛が好きな中高生って多いでしょう?」
「確かに。クラスメートにもいたよ。辛い方、辛い方へと傾いてく人って」
「だから女の恋愛は、夢と現実のバランスが大切なの。セックスの快楽については現実的だけど、セックスの愛情については夢見がちだったりね」
「……たいへん助かっております。その心遣い……」
「やーね。別に嫌味を言ったんじゃないわよ。幸せっていうのは、快楽じゃなくて愛情の上に成り立つものってことを言ってるのよ」
たかしとマリ子がいつの間にか良い雰囲気になると、明夫とアコの討論の熱も下がっていった。
「待った待った」とアコの言葉を止めた明夫は、眉間にシワを寄せてソファーで寄り添う2人に視線を向けた。「なにあれ」
「なにって……恋人よ」
「なんで一枚絵の特別イベントCGみたいな雰囲気出してるわけ? そんなロマンティックな会話あった?」
「あったら聞き逃すはずないでしょう。まーちゃんの言葉は全部が妄想の材料になるんだから」
「聞き逃してるから、たかしたちはリビングのソファーをホテルだと思ってるんだ。訂正してあげないと、それは異世界に言ってもソファーだって。ソファーとベッドを逆転させる作品もあったけど、アレはダメだね。異世界を強調したいのに、逆に混乱しちゃう」
「難しいところね。私達は異世界の生活を知りたいのであって、異世界のトイレ事情を知りたくないのと一緒ね。私達は世界史を読みたいのじゃなくて、異世界物語を読みたいの」
明夫とアコが意気投合して、異世界の設定について話しているのを、たかしとマリ子は耳をそばだてていた。
「なぁーんで、あんなに価値観が一緒なのに、2人は付き合わないのかしら」
「二人とも恋人がいるから」
「うそ!? って……ややこしい言い方しないでよ。推しキャラがいるってことでしょう」
「そうだけど、それが彼らの価値観だ。しかもそのうちの一人は、オレの恋人を狙っている」
「安心して、今のところ京以外の女に興味ないわ」
「……余計心配になったんだけど。2人からはたまにただならぬ空気を感じる時がある」
たかしが距離感の近い2人の姿を想像してニヤけると、その頬がつねられた。
「妄想に出していいのは私だけ。京まで出したら出演料。他のものまで出したら慰謝料も取るわよ」
「京さんに甘えるマリ子さんを想像してたんだよ。ネコみたいで可愛いなって」
「なら許しましょう」
マリ子はネコのように丸くなって、たかしの膝に頭をのせた。




