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2.1チャンネルスピーカーズ  作者: ふん
シーズン5
123/125

第二十三話

 午後2時の陽射しが、リビングをだるい明かりで照らしている。

 誰も見ていないつけっぱなしのテレビからは、どこか間抜けなオープニングBGMが流れる情報番組の音が聞こえ、ソファにはクッションが無造作に投げ置かれていた。

 大学の授業が午前で終わった三人は、ルームシェアハウスでそれぞれ思い思いの時間を過ごしている。

「おい明夫、今日の洗濯当番だろ」

 たかしがソファに寝転がりながら、床に座ってスマホを見ている明夫に声をかけた。

 大学生の怠惰な時間を物語る、だらしない姿勢だった。

「ああ、後で回すよ。今いいところなんだ」

 明夫は手に持ったスマホから目を離さず、画面を上下にスクロールし続けている。

 その集中ぶりは、まるで重要な論文でも読んでいるかのようだ。

「何見てんの?」

 キッチンの向こうから、マリ子が顔を出した。手には薄いピンクのマグカップを持ち、湯気が立っている。

 熱々のインスタントココアに、たっぷりの砂糖と生クリームスプレーを入れる彼女の動作には、カロリーを躊躇する一切の迷いもなかった。

「新作アニメの考察サイト。これがまた深くてさ……今週は大きな山場があったんだ」

「オタクって本当に暇よね」

「暇じゃない。アニメにハマるって言うのはね、暇だと出来ないの。どれだけの時間をアニメに費やしてると思ってるんだ。お金だけを使うオタクはもう古いよ。今は時間を浪費するんだ」

「それを暇って言うのよ」

 三人の軽口が部屋に響く。

 いつもの午前の風景だった。

 エアコンの音、壁時計の針の音、遠くから聞こえる舗装の悪い道を走る車の音。

 全てが平和で、安心できる日常だった。

 その平穏を突然切り裂く音が響いた。


 ――ピンポーン――


 チャイムの音が部屋の空気を変えた。

 三人は同時に動きを止めると、お互いの顔を見合わせた。

「誰だ?」

「宅配便じゃない?」

 マリ子がマグカップをキッチンカウンターに置いて、ドアに向かった。

 鍵の回る音がすると同時に、ドアが開く音も響いた。


「お邪魔するわね…」


 ドアが開くのと同時に現れたのは、頭からつま先まで真っ黒な服に身を包んだアコの姿だった。

 いつものカラフルな服装ではなく、まるで葬儀に参列するような喪服に身を包み、顔は蒼白で、目元は赤く腫れぼったい。

 その表情は、まるで世界の終わりを見てきたような深刻さを湛えていた。

 三人は固まった。

 明るい陽射しと、アコの黒い装いが異様な対比を作り出していたからだ。

「あ、アコさん!? どうしたんだ、その格好? まさか……誰か亡くなったのか!?」

 たかしが立ち上がり、一気に深刻な表情になった。

「はい……とても大切な方が……」

 アコの声は震えていて、今にも泣き出しそうだった。

「大丈夫じゃなさそうだ……」

 心配するたかしと違い、明夫とマリ子の反応は妙に冷めていた。

 明夫はちらりとアコを見ただけで、再びスマホの画面に視線を戻す。

 マリ子は「ああ、はいはい」といった様子で、アコに一度手を振ると、その後はココアを飲み続けている。

「おい、人が悲しんでるのに、その態度は何だよ!」

 たかしの声が部屋に響く。彼は明夫とマリ子を交互に睨みつけた。

「別に……」と明夫は肩をすくめた。

「冷たすぎないか?」

 アコはただうつむいたまま、小刻みに震えている。

 重い沈黙が部屋を支配し、エアコンの音だけが妙に大きく響いていた。

 たかしはアコの近くに歩み寄り、優しく声をかけた。

「アコさん、とりあえず座って。お茶でも入れるから」

 彼の手がアコの肩に触れようとした時、明夫がソファに座ったまま、ぼそりと呟いた。

「家に入れるなよ。厄介なことになるんだから」

「そういう事を言うなって言ってるんだ。いつもの注意じゃないぞ。本当に怒ってるんだ」

 部屋の空気が張り詰める。

 たかしの正義感と、明夫とマリ子の反応が正面衝突していた。

「いや、だから……」

「説明なんていらない! 今は悲しんでる人を支えることが大事だろ!」

 たかしは氷のように冷たいアコの手を取ると、二人に背を向けた。

「アコさん、ここは騒がしいから外に出よう。近くに喫茶店があるから、そこで落ち着いて話を聞かせてくれ。お金なら全部オレが出す」

 二人がドアを出ていく。玄関から出る足音が遠ざかっていった。


 残されたリビングには、明夫とマリ子だけが取り残された。しばらくの間、二人は無言でいた。

「……君はひどい"女"だ」

 明夫が天井を見上げながら呟いた。

「は? "アンタ"の親友なんだから適任でしょ。文句あるならアンタが代われば?」

「オタクでも女だ。男の都合良さと女のわがままは相容れない。たかしは日頃マリ子のわがままに慣れてるから適任だ。文句あるなら君が代わればいい。同じ女なんだから」

「ちょっと待ちなさいよ。わがままって何よ」

「事実だろ」

「じゃあアンタのオタク談義はどうなのよ。毎日毎日、アニメがどうのキャラがどうのって」

「同じことよ!」

 二人は険しい顔で見つめ合った。部屋の空気が再び張り詰める。

 数秒の沈黙が続き、時計の針の音だけが――チクタク――と無機質に響いた。

 しかし突然二人の表情が緩んだ。

「…ならやることは一つね」

「ああ」

「お昼はピザでも取りましょう」

 マリ子が踊るような楽しげな声で言うと、まるでリハーサルをしたかのように、すぐに明夫が意見に寄り添った。

「マルゲリータで」

「Lサイズでね」

「プラス、唐揚げ」

「ポテトとコーラもね」

 明夫が宅配アプリを開き、マリ子がソファに腰を下ろす。

 二人の表情は一瞬で明るくなっていた。先ほどまでの重い空気が嘘のように消え去っている。

「平和っていいよね」

 明夫がにやりと笑いながら注文ボタンを押した。

「たまにはこういうお昼もアリよ。罪悪感なしでだらけられるもの」

 窓の外では、たかしとアコが歩いて行く後ろ姿が小さくなっていく。

 二人は振り返ることなく、平和な午前を満喫する準備に入っていた。



 そんな二人とは対象的に、たかしとアコがいる喫茶店では、ジャズの音楽が低く流れ、コーヒーの香りが空気を満たしていた。

 そして、雰囲気も当然違う。

 奥の窓際の席に座ったアコは、白いハンカチで目元を押さえながら小刻みに震えていた。

 彼女の前には、まだ手をつけていないアイスコーヒーが置かれている。

「大丈夫? 無理して話さなくてもいいから」

 向かいに座ったたかしが心配そうに声をかけた。

 彼のホットコーヒーからは湯気が立ち上り、温かい香りを漂わせている。

「ありがとう……でも、話を聞いてもらいたくて。一人じゃとても……」

「ああ、もちろんだ。オレでよければいくらでも」

 たかしは身を乗り出して、真剣な表情でアコを見つめた。

 喫茶店の静寂が、二人の会話を包み込んでいる。

 アコは深呼吸をして、震える声でゆっくりと口を開いた。

「私にとって世界で一番大切な存在が……昨日……」

 アコの声がさらに震える。たかしは真剣にうなずいた。

「それは辛いな。きっととても大切な人だったんだろう? どんな人だったんだ?」

「とても美しくて、強くて、でも心の奥に深い悲しみを抱えた人よ。私はその人の生き様に心を奪われて……毎日その人のことを考えて過ごしていたの」

 アコの表情に嘘はなく、長いつけまつげで涙がせき止められていた。

「そうか……」

「最期のセリフが本当に尊くて……『君たちのことは忘れない』って……まるで私たちに向かって言ってくれたみたいで……」

「ん? 最期の……セリフ?」

 たかしの眉間にしわが寄った。

「はい。あのアニメ制作会社は本当に容赦ないの。ファンの気持ちなんてお構いなし……」

「公式って……会社のこと?」

「そうです! 原作では生きてる描写がさり気なくあったのに、制作会社の都合で勝手に殺すなんて!」

 アコが拳をテーブルに叩きつけた。アイスコーヒーのグラスが小さく震える。

 既に瞳の色は悲しみから怒りへと塗り替わっていた。


 その時、たかしの頭に過去の出来事が浮かんだ。

 それは、明夫が別の次元の言葉を喋るようになった少年時代の思い出だった。


「死ぬまでの流れが最高に美しくて……まるでチーズがトロけて混ざり合うみたいに、運命が絡み合って、最後の瞬間まで愛が貫かれていて……」

「チーズ?」

「そう、私とアキラの出会いは、途方に暮れていた私を迎え入れ、探偵事務所で宅配ピザを取ったシーンから始まるんです。だからピザを食べたくなったんです。推しの最期を想いながら、チーズの溶け合う様子を見つめたくて」

 アコが突然立ち上がった。

「すみません、マルゲリータピザをお願いします」

「推しが亡くなったのに食欲はあるんだ……」

 たかしは明夫とマリ子がよそよそしい態度を取った意味を知った。

 二人共知っていたのだ。夢女子のアコの推しが亡くなったことを。

「あ、あとトッピングで追いチーズお願いします」

 十五分後、湯気の立つピザがテーブルに運ばれてきた。

 チーズがとろとろと溶けて、油分がハチミツのように光っているのを見るとアコの目が輝いた。

「このトッピングの組み合わせ、まるで私とアキラの関係を表しているようだわ。マルゲリータがアキラで、チーズが私。何度でも重なり合い……彼の熱で私は溶けるのよ」

 数秒の沈黙が流れた。喫茶店のジャズ音楽だけが、変わらず静かに響いている。

 たかしは深くため息をついて、脱力したようにソファの背もたれにもたれかかった。

「……つまりあれだ。秋の新作アニメラッシュの中で、見るものが一つ減ったってことだろう?」

 拍子抜けしたたかしがピザに手を伸ばすが、その手はアコによって叩かれた。

「これは儀式よ。推しキャラの好きな食べ物を食べて供養するの。一人で食べきることにより、思いも浄化されるの。数多の推しの死を傍らで見届けてきた女の言葉よ」

「重いよ……」

「そう、思いよ」

「そうじゃなくてヘビーってこと」

「アキラのライバル探偵事務所のエースである蛇島のヘビーのこと? それなら今は関係ないわ。男同士の愛を見届けるではなく、私は夢に溺れたから」

「オレも関係なくしてほしいよ……」



 たかしが出だしから対応を間違えたと後悔している頃。

 喫茶店と同じ香りが、ルームシェアに漂っていた。

「見て、見事な三すくみだよ。モッツァレラチーズ、バジル、トマト。3っていう数字はオタクからは切っても切れないんだ。過去のオタク達だって、みーんな3にこだわってる。キリスト教の三位一体。ヒンドゥー教の三大神から北欧神話のノルン三姉妹までね」

「宗教を作ったやつはアンタみたいなオタクかもね。世界でアニメが流行るわけだわ……」

「そもそもピザとアニメは似てるんだ。生地はパレット。焼き加減は作画監督の匙加減。焦げ目がついたら、それは演出の魂。焼きすぎればSNSで炎上、冷めてたら視聴者の心は動かない。見た目が同じでも、味で勝負しなきゃ量産型で終わる。トッピングは声優、チーズは音楽、バジルは脚本のスパイス。そして何より……食べた瞬間に“うまい”と唸らせる熱量がなきゃ作品とは呼べない」

「そんなこと言ってるからオタクって呼ばれるのよ」

「光栄だね」

「後衛よ。男ならもっと攻めなさいよ。今日だって、たかしじゃなく明夫がアコの面倒を見るべきでしょう。オタクで話が合うんだから。人の彼氏使わないで」

「たかしは君と付き合ってるんだぞ。オタクでも女のわがままは女のわがままだ。僕は慣れてない。たかしこそ適任だ。毎日マリ子のわがままを聞いてるし、意味のない悩みにも答えてる」

「本当に――扱いやすい」と、明夫とマリ子は声を揃えた。


 明夫とマリ子が最後の一切れずつをコーラで胃に流し込んでいる頃、

 アコもピザを食べきるところだった。

「これが最後の一切れ。どういう意味かわかる?」

「ピザがなくなる?」

「私の血肉となるのよ」

「だろね。少なくとも明日の間は胃もたれで、ずっとアコさんのお腹の中にいると思うよ。彼がいなくなるときのことは考えたくない」

「優しいのね」

「食べたものが出る時は2パターンあるけど、そのどっちも考えたくないだけ」

「わかるわ……思考がまとまらないのよね。それが推しの消失よ。アキラは亡くなったの」

「なくなったのはピザだよ。あと……そろそろ失いそうなのは言葉かな。もう絶句しそう」

「そう……言うことなしの男だったわ」

 それからもアコはたかしの言葉を都合よく解釈し、推しキャラ供養に突き合わせた。


 アコが最後の一切れを口に押し込んだその時、たかしのスマホに明夫からメッセージが届いた。

『お疲れ様。ちなみにアキラ、来週復活するよ。公式サイト見てみ』

 たかしが画面をアコに見せると、彼女の顔が青ざめた。

「あ、あの……お会計お願いします」

「え? まだデザート頼むって言ってたじゃない」

「急に胃もたれが……」

「お金なら全部オレが出すって言ったもんな……」たかしは諦めたようにレジに向かった。

「推しロスって辛いのね」とアコが呟く。

「辛いのもロスしてるのもオレだよ……」

 たかしは空になった財布を見つめながら呟いた。


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