第十九話
午後11時30分。リビングのソファに座ったマリ子は、スマホの時計を何度も確認していた。
推しの俳優がゲスト出演する深夜番組まであと30分。
昨夜のカラオケオールが響いて、既に瞼が重い。
それでも彼女の心には確固たる決意があった。
「絶対に寝ない! 絶対に!!」
選手宣誓のように響く声には、自分に言い聞かせるような力強さがあった。
キッチンから冷蔵庫を開ける音が響く。
たかしがペットボトルのお茶を取り出しながら振り返った。
「昨日カラオケで朝まで歌ってたのに、今夜も起きてるの?」
心配している声色だった。マリ子の目の下にうっすらとクマができているのを見逃していない。
「リアタイじゃなきゃ意味ないの!録画なんて邪道よ」
マリ子は拳を握りしめて答えた。疲労で少しかすれた声だったが、その瞳には譲れない何かが宿っていた。
たかしは首をかしげた。極々一般的な思考を持つ彼には、なぜわざわざ眠気を我慢してまで、深夜に起きている必要があるのか理解しがたかった。
「でも録画すれば翌日に見られるし、CMスキップもできて楽だよ」
「違うの!」
マリ子は首を激しく横に振った。インナーカラーのグラデーションが波打つように肩で揺れた。
「みんなと同じ時間に見て、同じ感動を共有するのがいいのよ。SNSのリアルタイム実況も含めて、それが推し活なの」
その時、キッチンの奥からカップラーメンを持った明夫が現れた。
いつものアニメTシャツ姿で、興味深そうにマリ子の方を見ている。
「なるほど、集合的無意識による共感体験が重要ということか。ようく理解できる。最近のオタクは理論武装じゃなくて、集団心理で戦う」
明夫の口調は軽いが、分析は的確だった。彼なりにマリ子の心理を理解しようとしている。
しかし、マリ子は「一緒にしないで」と睨みつけた。
「同じだよ。睡眠時間をやすりにかけ、食費を削りセルフ兵糧攻めを始める。そうして、オタクの城が立つんだ。ほら、今にも眠そうじゃないか」
明夫の言う通り確かにマリ子の動作は普段より緩慢で、時折小刻みに頭が揺れていた。
「眠くない!」
即座に否定したものの、その直後に小さなあくびが漏れてしまい、マリ子は慌てて口元を手で隠した。
「あー、完全に眠いやつじゃん」
明夫はカップラーメンをテーブルに置いて、ニヤリと笑った。
「だから眠くないって言ってるでしょ!」
マリ子の声に少し焦りが混じる。
自分でも眠気を感じているからこそ、必死に否定したくなる。
なぜなら眠いと認めると、そのまま夢の世界へと誘われる可能性が高いからだ。
明夫は腕を組んで、何かを思いついたような表情を浮かべた。
「じゃあ証明してみようか。眠気覚まし実験室の開設だ。オタク的手法で、ギャルを寝かせない」
「ちょっと待った!」と、マリ子が声を張り上げた。「最後の部分だけもう一回言って」
「……ギャルを寝かせない」
「今後そのセリフを言うことは二度とない」
マリ子は満面の笑みでからかい返したが、その横ではたかしが昔を思い出しながら話に混ざった。
「でも、明夫の目覚ましは結構効果あるよ。オレも何度かお世話になったよ。テストの前の一夜漬けとかにね」
マリ子は少し困惑した。
オタクの明夫の言うことは信用できないが、恋人のたかしの言うことは信用できるからだ。
その結果出た言葉が「ちょっと、実験動物扱いしないでよ」という、否定でも肯定でもない言葉だった。
それを察したたかしは「30分の暇つぶしにはなる」と、優しくマリ子を誘った。
明夫はリビングのテーブルからノートを取り出すとペンを構えた。
その姿は明らかに、なんらかのアニメの模倣だった。
「カフェイン摂取が最も効果的。コーヒーか緑茶、どっちがいい?」
「映えするカフェ?」
「君は30分も承認欲求をしまっておけないのかい?」
「胸の谷間をしまってもいいけど、結局は男は覗く」マリ子は嫌味に返したと思ったが、まったく理解していない明夫を見て、ため息を付いた。「アンタに言っても無駄ね……。コーヒーお願い」
素直に答える彼女を見て、たかしは本当に必死なのだと理解した。
手際よくキッチンに向かい、ドリップコーヒーの準備を始める。
その間に明夫がタブレットを取り出して、画面を操作し始めた。
「次は精神的覚醒法を提案しよう。君の推しの過去作品を見て気分を上げるのはどうだ?」
マリ子の疲れた表情が、一瞬で明るくなった。
推しの話になると、彼女のエネルギーは別次元に跳ね上がる。
「それいいかも! なによ、やるじゃない。オタクのお医者様ね」
「でもあまり感動的なシーンだと逆に眠くなるかもしれないから、アクションシーンがいいね。炎魔法が、溶岩石で出来た真っ黒のレンガに命を吹き込むシーンとか、最後の力を振り絞り雨を降らせる特大禁忌魔法のシーンとか」
明夫の分析は的確だった。長年のアニメ視聴経験から、感情と覚醒度の関係を理解している。
「さすがオタク、的確な分析ね。まずは火の魔法と水の魔法を覚えなくちゃ」
マリ子の皮肉に、明夫は少し照れくさそうに頬を掻いた。
「火じゃなくて炎だよ。これは魔術師ランクの違いと言っていい。火が炎になり、雨が雷雨になる。どちらも命を魔力にしたシーンだよ」
明夫がアニメの設定の講釈を始めるのと同時に、コーヒーの香りがリビングに漂い始める。
たかしが丁寧に淹れたそれは、いつもより濃いめに仕上がっていた。
「はい、どうぞ」
カップを受け取ったマリ子は、飲む前にたかしの頬へ軽くキスをした。
「愛してるわ」
「コーヒーを淹れたくらいで大げさだよ。それがインスタントコーヒーだって皮肉なら受け取らない」
「もう少しで異世界転生させられるところだったの」マリ子はため息を吐ききると、カップに口をつけて「苦っ!」と叫んだ。
普段飲んでいる甘いカフェラテとは全然違う。苦味が舌に残って、思わず眉をひそめる。
「カフェインの効果を最大化するために砂糖は控えめにしてるんだよ。糖分を取ると眠くなるからね」
たかしの説明を聞いて、マリ子は渋々もう一口飲んだ。言われてから感じる苦みは、確かに目が覚める感じがした。
「次は軽い運動だ。血流を良くして覚醒度を上げよう。スクワット20回、負荷は軽めで」
意味がわかっているのかいないのか、明夫はどこかで書かれているようなことを、さも有識者のような態度で教える。
マリ子は少し嫌そうな顔をした。疲れている時に運動するのは億劫だが、推しのためなら仕方ない。
立ち上がって、ゆっくりとスクワットを始める。
最初の数回は順調だったが、5回目あたりから息が上がってきた。昨夜の疲労が思った以上に残っている。
「運動不足だな」
明夫が淡々と実況する声が聞こえる。
「うるさい! アンタに言われたくないし、普段スクワットをやらないだけ。このおっぱいは、土台を鍛えるからハリがあるのよ」
息を切らしながらも、マリ子は反論した。
「だったらなぜそんなに息が上がる?」
「アンタが喋らせるからよ!」
20回を終えた時には、マリ子の頬が紅潮していた。
確かに血流は良くなったようで、少し目がしっかりし始めていた。
更に15分が経過した。
マリ子の疲労は確実に蓄積している。3セット目のスクワットを終えた時、彼女は大きく肩で息をしていた。脚が小刻みに震えているのがわかる。
「はあ、はあ...」
普段なら何でもないはずの軽い運動が、今の彼女には重い負担となっていた。
昨夜のオールナイトカラオケのツケが回ってきている。
たかしが心配そうに声をかけた。
「大丈夫?」
「大丈夫、まだまだ行ける」
マリ子は強がって答えたが、声に力がない。それでも諦める気配は微塵も見せなかった。推しの俳優への想いが、疲れ切った体を支えている。
深呼吸のタイムになると、マリ子は目を閉じて大きく息を吸い込んだ。
しかし、その瞬間に危険な兆候が現れた。リラックスした途端、今まで必死に押さえ込んでいた睡魔が頭をもたげてきたのだ。
「あ、やばい」
マリ子の頭がふらつく。バランスを崩しそうになって、慌ててソファの背もたれに手をついた。
たかしは急な運動による貧血だと思って手を差し伸ばしたが、その手をマリ子が振り払った。
「今……睡魔を殺してるところよ。邪魔をするならあなたも殺す……」
それを聞いて明夫はやんややんやと盛り上がった。
なぜなら、このセリフは今季のアニメのものであり、明夫が耳元で囁いたセリフをマリ子がそのまま言ったのだ。
「ほら、眠気で頭が変になってる。諦めて寝たほうがいいって」
「あと10分で推し出演の番組が始まるのよ。10分起こしてくれるなら、福を追い出して、鬼を受け入れたっていいわ」
「鬼とルームメイトするつもりはないんだけど……」
たかしの言葉に、明夫が大きく呆れた。
「それは僕のセリフだ。男二人、きままなオタク生活。たかしが鬼を家に入れた」
明夫の言う鬼とは当然マリ子のことだったが、本人はそのことに気付かず、瞑想するように、CMが流れるテレビを虚ろに眺めていた。
ドラマのオープニングが流れるまで残り5分を切った。
たかしの表情は緊張に満ちている。マリ子の眠気は限界ギリギリだった。
「最後の5分、ここが正念場だ」
彼の声には、なんとしても成功させたいという願いが込められていた。
もしも、ここでマリ子が寝てしまったら、翌日、彼女が自分本位に怒る展開が容易に想像できるからだ。
それは明夫も気付いており「最終手段を使おう」とタブレットの画面を切り替えた。
今度はマリ子の推し俳優の過去インタビュー映像だった。
落ち着いた雰囲気の中で真剣に語る姿が映っている。
「君の推しの過去インタビュー映像。一番感動的なやつ」
マリ子の疲れた目が、一瞬で輝いた。
「あ、これ好きなインタビュー!」
それは推しが夢について語る有名なインタビューだった。マリ子は何度も見返している映像で、毎回感動で胸がいっぱいになる。
疲労を忘れて画面に見入る彼女の姿を見て、たかしと明夫は安堵した。
これで最後まで持ちこたえられるはずだった。
推しが「どんなに辛くても諦めないことが大切だと思います」と語る場面で、マリ子は深く頷いた。
「そうよね、諦めちゃダメよね」
その言葉は、今の自分自身にも言い聞かせているようだった。感動で目が潤んでくる。
しかし、その瞬間だった。予想外の事態が起こったのは。
マリ子の瞼が重くなってきたのだ。
感動の余韻に浸っているうちに、心が穏やかになり過ぎてしまったのだ。推しの優しい声が、まるで子守唄のように響いている。
時計が午前0時を指す直前、マリ子の呼吸は深く、規則的になっていった。
「番組開始まであと2分」
たかしが呟いたが、その声は既にマリ子には届いていなかった。
画面の中で推しが微笑みかけているのが、なんとも皮肉な光景だった。
午前0時ちょうど。テレビから推し俳優の爽やかな声が響いた。
「皆さん、お疲れ様です」
いつもの挨拶がリビングに流れるが、肝心のマリ子からは何の反応もない。ソファに深く沈み込んで、天使のような寝顔で眠り込んでいる。
たかしが諦めたような表情で呟いた。
「完全に寝てるね」
これまでの実験が全て無駄になってしまった。
しかし、なぜか責める気持ちにはなれなかった。マリ子の安らかな寝顔があまりにも幸せそうだったからだ。
「寝てるだって? これは爆睡してるっていうの」
明夫が冷たく言うには理由があった。
自分がマリ子の立場だったら、推しの配信を見逃すことなんて絶対に有り得ないからだ。
「そう怒るなよ。途中までアニメごっこに夢中だったくせに」
「あれはアニメごっこじゃなくて訓練。何回も言ってるだろう。アニメの世界に行くには宇宙飛行士より過激な……訓練……といろはにほへとだ!」
明夫は舐めるような近さでテレビにかじりついた。
「なに?」
「いろはにほへとだよ! ほら、この声!!」
明夫は番組のナレーションに注目していた。
秋の番組のテコ入れの関係により、アナウンサーから声優へと変わったのだが、それが明夫の推しアニメの声優だったのだ。
公式ホームページはおろか、本人のSNSでさえ告知がされていなかった。
明夫にとっての最高サプライズだった。
「鬼を家に入れてよかった……」
すぐに明夫のスマホにオタク仲間の赤沼と青木から連絡が入った。
内容はこの盛り上がったテンションのまま、ナレーションの声優が出演している【アイプラ】という魔法少女アニメを見ようというお誘いだ。
明夫は低い唸り声を上げると、拳を突き上げた。
「絶対に寝ない! 絶対に!!」
「いい加減目を覚ませよ……」というたかしの声は、隣で眠るマリ子にも届かず、テレビに食いつく明夫にも届かなかった。




