第十七話
午前7時半。三人でシェアしている家のダイニングキッチンに、香ばしい目玉焼きの匂いが漂っている。
「はい、できたー」マリ子が三枚の目玉焼きを皿に盛り付けながら言う。
髪を後ろで束ね、ピンクのキャミソールにショートパンツという出かける前のラフな格好だ。
「ありがと」たかしはスマホをしまうと、人数分の皿をテーブルに並べた。
遅れて部屋から出てきた明夫はまだパジャマ姿で、寝癖のついた髪をボサボサにしたまま席に着く。
昨夜遅くまでアニメを見ていた疲れが顔に出ている。
「朝から目玉焼きって、アニメの朝食シーンだよね」明夫がケチャップボトルを手に取る。「やっぱこれでしょ」
明夫はアニメのセリフを言いながら、白と黄色のキャンバスに赤い線を落とした。
それを見たマリ子は怪訝な表情で「まじ? 正気?」と引いていた。
「君はいつもオタク文化を否定から入るけどね、今のアイドルだってオタク文化に媚びて成り立ってると自覚してほしいよ」
「違う。アンタのオタク談義はどうでもいい。目玉焼きにケチャップをかけるのがありえないって言ってるのよ」
マリ子は手近にあった醤油を手に取ると、それを目玉焼きにかけた。
まるで山から川が流れるように、醤油は薄紫に輝く軌跡を残した。
「目玉焼きに醤油っていうのは、変われない日本人の象徴だよ。知ってるかい? 二十数年前は眉毛をいじっただけでも学校で怒られたらしいよ」
「私はその時代に生まれてたら自殺してるか、革命を起こしてたかのどっちかね……。じゃなくて、朝から気持ち悪いハートを書くなって言ってるの」
「まぁまぁ……ふたりとも。好きなのをかければいいじゃない」
たかしは二人のやりとりを横目に見ながら、黙って塩をパラパラとふった。
その瞬間、二人の視線がぴたりとたかしに向いた。
「えー、塩?」マリ子が眉をひそめる。「なんか地味じゃない?」
「シンプルすぎない?」明夫も首をかしげる。「絵面が寂しいよ」
たかしは涼しい顔で箸を動かし、塩で汗をかいた薄いピンクの膜を破り、目玉焼きを一口。
「普通にうまいけど」
「たかし、もっと冒険しなさいよ。人生楽しまないと……。塩なんて世界中どこにでもあるでしょう」マリ子がため息をつく。
「目玉焼きに冒険も何もないだろ」
「あるよ!」明夫が力説する。「朝からケチャップの赤で視覚的にも楽しめるし、甘酸っぱい味で脳が覚醒する。これは間接的にアニメの名シーンの栄養を摂取してるといても過言じゃない。
「過言だよ……。ふたりとも否定してるけど、ゆで卵には塩だろう? 卵に塩はおかしいことじゃない」
「僕はゆで卵は混ぜてサラダにするもん。マヨネーズに決まってるだろう」
「それには私も同意」マリ子が割り込む。「ゆで卵をそのまんま食べるなんて、本気出して体を鍛える時のハム子くらいよ。あのっちっちゃい体で、めっちゃ食べるのよ。まじヘビかっての」
結局朝はいつの間にか、二人がたかしを攻撃する形で過ぎていった。
その日の正午。たかしは昼食のため学食へ行くと、悟が大学発刊のバイト情報誌をめくりながら唸っていた。
たかしが声を掛けると悟は挨拶もそこそこに「バイト、何がいいかなあ……」と聞いた。
「まだ次のバイト先見つかってないの?」
「遊ぶ時間と勉強と給料、この3つのバランスを崩すと、学生のうちからブラック企業並の精神負担も受けるんだぞ。慎重にもなるよ」
「なんか久々に、文化的な会話をした気がする……」
たかしが今朝の『目玉焼きになにをかけるか騒動』のことを話していると、急にマリ子が紙袋を持ってバタバタと割り込んできた。
「ちょっと……ふたりとも弁当買わない?」
袋から弁当を取り出すと、それだけで生姜とにんにくの効いた揚げ物の匂いが広がった。
学食でも唐揚げはあるが、鶏肉だけを揚げ続けた油で上がったザンギの香りはひときわ濃かった。
「学校で売人やってるの?」
悟はもう昼食は済ませたと弁当を突っ返した。
「人手が足りないのよ……。たかしは知ってるでしょう? テンチョーの人見知りぶり」
「そうだ!」とたかしは声を大きくした。「【メイドのザンギ】でバイトすればいいんだ」
メイドのザンギとは朱美店長が経営しているザンギ専門の弁当屋で、いままではたかしがヘルプに入っていたのだが、あまりにマリ子がたかしを連れ込んでイチャつくので、たかしは出入り禁止になってしまったのだ。
その結果、人手不足。マリ子は、自費で買った弁当を大学で売っているのだ。
「たかし……テンチョーは男が苦手。待った! ……なるほどね」
マリ子は値踏みするように悟を見た。
仲間内では見慣れた悟の中性的な顔。これならば、朱美も緊張しないのではないかなと考えた。
「待った。朱美さんって、君たちが夏休みの間中ずっと巻き込んでた人だろう。おかげで、僕はボスのカードショップをクビになった」
「だから雇ってやるって言ってんのよ。決まり、午後の講義が終わったらすぐ店に来て」
マリ子は有無を言わさず学食を出て行った。
悟は諦めたような表情でバイト情報誌を閉じる。
「これって行かなきゃダメ?」
「朱美さんは良い人だよ。人見知りが激しいだけで」
「それはわかってるけど……ボスが僕をクビにしたのって、僕が女顔で、その朱美さんが嫉妬するからっていう、童貞特有の自己決意だよ。絶対に後々ややこしいことになるって……」
たかしは思い出したように「ああ」と声を上げた。
「それはボスのもとに、悟がいるからややこしいんであって、逆ならシンプルだろう」
「でも、朱美さんは男の人が苦手なんでしょう?」
「そうなんだけど……まあ、とりあえず面接だけでも受けてみたら?」
その日の夕方。悟は【メイドのザンギ】の前に立っていた。
小さな店舗で、カウンターの奥から揚げ物の音が聞こえてくる。
「すみません……」
声をかけると、エプロンをつけた細身の女性が振り返った。朱美だ。
悟を見た瞬間、朱美の顔がほんのり赤くなる。
「あ、あの……マリ子ちゃんから聞いて……」
「面接の件ですね。悟と申します」
「あ、はい。私、朱美です」
悟の穏やかな話し方に、朱美は少し安心したのか、緊張が和らいだ。
「マリ子ちゃんの友達なんですね」
「はい。お手伝いできることがあれば」
面接は思っていたよりもスムーズに進んだ。
悟の中性的な雰囲気が朱美の警戒心を解いたのか、いつもより多く話すことができた。
「それでは、明日から来ていただけますか?」
「はい、よろしくお願いします」
翌日から、悟は【メイドのザンギ】で働き始めた。
朱美の手際を見ながら、悟は感心していた。
「朱美さん、すごく上手ですね」
「そ、そんなことないです……」
「いえ、本当に。油の温度とか、タイミングとか、見てて勉強になります」
朱美は照れたように微笑む。
「悟くんも、すぐに覚えてくれそうです」
二人の距離は、日に日に縮まっていった。
一週間後。マリ子がいつものように店にやってきた。
「お疲れさまー!」
しかし、マリ子が見たのは、メイド服を着た悟が接客している光景だった。
「お待たせしました。醤油ザンギと塩ザンギ、どちらになさいますか?」
悟の中性的な顔立ちにメイド服が似合い、客の男性たちがキャーキャー騒いでいる。
「可愛い!」
「写真撮ってもいいですか?」
「また来ます!」
レジには長い列ができていた。
マリ子は呆然としていた。
「なんで……メイド服着てるの?」
朱美が慌てて説明する。
「あの……店の制服を悟くんが着てくれたら、お客さんが……」
「売上、どのくらい上がったの?」
「前の週の3倍……かな」
マリ子の顔が青ざめる。
まるで親が隠れて借金していた書類を見つけた時のような顔だ。
「3倍って……私が頑張って売った分より?」
「うん……」
朱美が困ったような表情をすると、マリ子はカウンターを叩くようにして手をついた。
「男に負けるわけにいかないのよ。特に悟に」
「なんで僕?」
「いいから。対決よ、対決!」
朱美は冷静にマリ子を止めた。
「対決って同じ店でやっても意味ないでしょう」
「ある。これはプライドの問題よ。私は看板メニューの醤油ザンギを売る。悟は塩ザンギを売る。一週間で勝負しましょう」
「でも、悟くんはメイド服効果があるから……」
「関係ない! 私だって女よ。本気出せば負けるわけない。私にもメイド服はあるし、おっぱいもある。しかもおっぱいは二つ!」
「やめておいたほうがいいと思うよ。僕に負けたら、そのプライド粉々に砕けて、足元マキビシだらけになって一歩も動けなくなるよ」
悟とマリ子の関係は、何故かいつもマリ子の嫉妬から始まる。
今日もまるで流れ作業のように、マリ子の対抗心が燃えだした。
「はい! ムッカチーン! 絶対殺す。勝負は明日からよ! いいわね? ふたりとも」
しかし、マリ子の勢いに押され、醤油ザンギ対塩ザンギの対決が始まった。
翌日から、店では異様な光景が繰り広げられた。
マリ子は制服のメイド服と甘えた声色で、醤油ザンギを必死にアピールする。
「これは伝統の味よ。超濃厚で食べ応えがある。ご飯にも合うわぁ」
一方、悟はメイド服を着て、控えめに塩ザンギを勧める。
「こちらは、あっさりしてて食べやすいですよ。どなたでも気軽に……」
「可愛い~!」
「今日は塩ザンギで!」
「悟ちゃん、お疲れさま!」
明らかに悟の方に客が集まっている。
マリ子は焦っていた。
「なんでよ! 醤油ザンギの方が美味しいのに!」
醤油ザンギを買った客は「おー、これは確かにパンチがある」「ご飯が進みそう」「濃厚で美味しい」とマリ子の言葉をオウム返しのように褒め、塩ザンギを買った客は、「さっぱりしてるけど、深い味わい」「何個でも食べられそう」「鶏肉の味がよく分かる」と、自分の言葉での感想が多かった。
しかし、そんな感想は微々たるものであり、どちらを買うかはほぼ見た目で決まっていた。
一週間後、結果発表の日。
朱美が手に持った集計表を見つめながら言う。
「売り上げ結果が出ました。塩ザンギ520個、醤油ザンギ280個」
マリ子は現実に崩れ落ちた。
お客に媚に媚びて、そのクセがついて、間違って家でまで明夫に媚びたのに負けたショックは大きかった。
「嘘でしょ……」
「でも、リピーターの数を見ると、意外な結果が……」
「どういうこと?」
朱美が追加で説明する。
「塩ザンギは初回購入が多いけど、醤油ザンギの方がリピート率が高いの。『また食べたい』『やっぱりこっちが好き』っていう声が多くて」
悟が苦笑いする。
「結局、僕はメイド服効果だけってことですね」
「そういうことじゃないわ」朱美が慌てて言葉を付け足した。「どちらも美味しいから、お客さんは両方楽しんでくれてる。だからお弁当屋さんって色んなメニューがあるのよ。ね?」
朱美に優しく諭された二人は、納得するしかなった。
その夜、アパートのリビングで三人がザンギ対決を振り返っていた。
「でもやっぱり……結局、メイド服に負けただけじゃないって思うの。着慣れてるほうが有利だと思わない?」マリ子がソファに座り込んで言う。
「でも、醤油ザンギの方がリピート率高かったって」たかしが答える。
「それも慰めにならないわ。男に見た目で負けるなんて……」
「ちょっと待って。もう一つ敗北を忘れてない?」
たかしは意地悪に口の端を吊り上げた。
「悟に惚れたっていうなら、このおっぱいに手を触れる機会は二度と訪れないわよ」
「違うよ。目玉焼きの話だよ。塩が一番。オレが正しい」
「あーら……傷心の恋人に掛ける言葉がそれなわけ。このおっぱいに手を触れる機会は2週間は訪れないわよ」
「冗談だよぉ!」とたかしが慌てると、マリ子は笑った。
翌日、朱美は悟とマリ子の両方に感謝していた。
「おかげで、お客さんが増えました」
「でも、メイド服効果だけじゃない」マリ子が素直に認める。「悟の接客、私より丁寧だったもの」
「マリ子の熱意も素晴らしかったよ。まさかザンギ屋でボトルキープの話が出るとは思わなかった……」
悟はバイトの初日から忙しい日々が続いたと、ため息を付いた。
「対決って言ったけど、本当はみんなで協力してたのね」
朱美がそう呟いた時、マリ子は静かに微笑んだ。
時には、一番シンプルな答えが、一番正しい答えなのかもしれない。