第十話
人気のない路地。少し錆びついたガードレール。
コンビニの看板が、蛍光色のまま滲んで揺れる。
そんなどこにでもある夜道の風景。
風はないのに、空気がざらついていた。
夜の気配が、皮膚にまとわりつく。遠くで犬が吠える。くぐもったその音は、まるで地下から響いてくるようだった。
スーツ姿の男が歩いていた。
スマホを見ながらイヤホンで音楽を聴いている。手には暖を取るための缶コーヒー。
会社帰りの、どこにでもいるような人間。
――だから、気づかなかった。
カツ、カツ……と、すぐ背後から足音が追ってきていたことに。
「……すみません」
声は、異物だった。
くぐもっていて、濡れていて、体温がない。
男は足を止め、ぎこちなく振り返る。
そこに女が立っていた。
トレンチコートに、白いマスク。
整った黒髪が肩にかかり、街灯の光を吸い込むように鈍く光る。
しかし、どこか妙だ。
この時間に? この場所に? こんな距離で?
男の頭には疑問が浮かんでいた。
「……はい?」
男が問い返すと、女は顔を傾けた。
「私……キレイ?」
その声は低く、湿っていた。
底なし沼のように、どこまでも沈んでいくような声。
「……あ、はい。キレイ、だと思いますけど……」
女は動かない。
沈黙の中で、ゆっくりとマスクを外した。
「……これでも?」
マスクに隠されていた口は、ぱっくりと裂けていた。
左右の口元が、耳の端まで、深く赤く。
子どもが塗った口紅のように、乱雑に引き裂かれている。
歯がのぞく。
舌が、唇の裂け目から、ぬめるように蠢いていた。
「ひっ――」
男が後ずさると、ヒールの音が、ひとつ、路地に響いた。
女が一歩、踏み出していた。
「私、キレイ?」
裂けた口が、笑っているようだった。
その声は、もはや人間のものではなかった。
変声期のようにひび割れてざらついているが、しっかりと言葉が聞こえる。
喉が凍りつき、膝が崩れ、男はその場に尻を打ちつけた。
言葉も、声も、もう出てこなかった。
女はしばらく男を見下ろしていた。
そして――ひとつ頷くと、くるりと背を向けて、暗がりに消えた。
「……私、キレイ?」
声だけが、夜に残った。
翌日。
その路地に、ひとつだけ落ちていたものがある。
マスクだ。
赤黒く滲んだそれは、いつまでも誰にも拾われず、ただ風に転がっていき、やがて消えた。
そしてまた今夜も。
どこかの町の、誰もいない路地の暗がりで。
濡れた声がこう尋ねるという――
「私……キレイ?」
――きゃー!
というわざとらしい悲鳴とともに、マリ子はたかしに抱きついた。
「そんなに怖かった?」
たかしが肩を抱きながら言うと、マリ子はうずめていた胸元から顔を上げて、ムッとした表情を見せた。
「恋人が二人きり、ソファーに身を寄せてる。テレビにはこれ見よがしのホラー映画。普通抱き付くでしょう」
たかしは苦笑いを浮かべたまま、マリ子の頭をそっと撫でた。
「……いや、すごい嬉しいんだけど。マリ子さん、怖いの苦手だったっけ?」
「ううん、全然。でも、雰囲気ってあるでしょ?」
マリ子はにっこりと笑った。その笑顔だけ見れば、どこかの格式ばった喫茶店で紅茶を運んでくれそうな上品なそれだ。
しかし、彼女の指先は、さっきからたかしの肋骨あたりをやたらに撫でていて、集中がまるでできない。
「……ホラーより、そっちのほうが怖いんだけど」
たかしが小声でぼやくと、マリ子は耳元で暑い吐息混じりに囁いた。
「ふふ……だったら、もっと怖がらせてあげようか?」
たかしは思わず咳払いをして、視線をテレビに戻す。画面ではちょうど、裂けた口元の女が振り返るシーン。音響も演出も、恐怖のために用意されたものだが、隣の彼女が放つ色気のほうが、よほど心臓に悪かった。
「やっぱホラーって、デート向きじゃないと思うんだよなあ……」
「そう? 怖いフリして抱きつけるし、手も繋げるし……ホラーにはお決まりのベッドシーンもあるのに?」
たかしがふと見下ろすと、マリ子の手が彼の指に絡みついていた。
いつの間にか――しっかりと。
マニキュアも塗っていない素の指先が、温かくて、やわらかい。
「……それって、怖がってない人が言っちゃいけない台詞なんじゃ……」
「ばれた?」
マリ子はいたずらっぽく笑いながら、またたかしに身を寄せる。
ソファーに沈んだ二人の間には、もう何の距離もなかった。
「ねぇ……私キレイ?」
「それじゃあ、まるで口裂け女だよ」
たかしが苦笑してマリ子の髪をそっとかきあげようとしたそのとき――
「――どいたどいたー!」
不意にリビングの扉が開き、明夫が足をもつれさせながらソファーへと飛び込み、たかしの隣りに座った。
「お、ちょうど始まる。リアタイで見るの久々だよ」
当然のようにテレビのリモコンを取り上げると、ホラー映画の音声もろとも、画面が一瞬で切り替わる。
映ったのは、オープニングの曲が全力で流れる深夜アニメ。
魔法少女がキラキラのエフェクトをまき散らして変身していた。
「この女の子の魔法に、明夫を消すって魔法はないわけ?」
マリ子は手を握ったまま、まるで“討伐対象を見る目”で明夫を睨みつけた。
「うそ!? 向こうの世界から干渉されるの? そんな夢みたいなこと言ってもらったの初めてだよ。ありがとう」
明夫は本気で感動していた。やたら感情のこもった声でマリ子に礼を述べた。
「あーもう! せっかくのいい雰囲気が台無し。ホラー映画ってなんのために見るかわかってるの?」
マリ子がソファに戻りざま、苛立ちに任せてリモコンを取り返そうと手を伸ばす。
「倦怠期の恋人が前戯代わりに見るんだろう?」
明夫はあっさりとかわしつつ、画面に夢中のままさらりと返す。
「オタクのアンタに何がわかるのよ。」
マリ子がリモコンを奪えず、むくれて腕を組んだ。
「いいかい? ホラー映画を一緒に見るだなんて、美少女ゲームではさんざん使い古されてる手法だ」
明夫は鼻を鳴らしながら語り始める。いつもの早口モードだ。
「登場するヒロインと肝試しイベントから怖がる彼女。そこにあるのは不意のスキンシップ。つまりは照れ顔CG差分。この流れにどれだけのオタクが涙したか……!」
「別に明夫が好きなエッチなゲームに限った話じゃないでしょう。恋人持ち共通のイベントよ」
「ちがうね。ホラー×恋愛なんて公式が成り立つのは二次元だけだ。三次元で再現しようとしたら、今日みたいに台無しになるのさ」
「そっちが勝手に割り込んでおいて、よく言うわね!」
マリ子の目が据わる。その隣で、たかしはそっとクッションの陰に隠れようとしていた。
「……ねぇ、オレの居場所、ある?」
二人に挟まれたたかしの声はか細く、存在感も空気並みだった。
「ないわよ、今は」
「黙ってて」
二人の声がぴたりと重なる。
たかしはソファに沈んだまま、空を仰いだ。
翌日。夕暮れの街角にある、ボスのカードショップ内の一角。
雑然とした棚の間で、三人のオタク仲間がテーブルを囲んでいた。新作カードのパックが積まれ、ライトの淡い光がそれらを照らしている。
明夫はスマホをしまいながら、「昨日の深夜アニメ、すっごい良かったよ。あの変身シーンのCG、作画班が気合入れてたの丸わかりだった。彼らは時代を変えるつもりなのかも知れない……」と目を輝かせて言った。
青木も同調し、「あの魔法少女、超かわいかったし、EDの歌も頭から離れない」と笑顔を見せる。
赤沼は手元のカードデッキを整理しながら。「僕はそっちじゃなくて、昨日はホラー映画見てたんだよな。口裂け女の話、リアルにやるとちょっと寒かったけどさ」と少し苦笑した。
「見てないのか? 魔法少女が世界をすくったシーンを」
明夫は驚愕していた。まさか赤沼が深夜アニメを見ないことがあるだなんてと。
「だって……映画口裂け女はさ……。ほら、上映期間中ずっと話題になってただろう? 恋人同士で見る映画だって」
昨夜、深夜をまたいで放送された【都市伝説:口裂け女】は、赤沼が中学生の時に全国で上映されたものであり、その頃ホラー映画を恋人で見るのが流行っていたのだ。
「赤沼って恋人って言葉の意味を知らないの?」
青木が嫌味に口を挟むと、明夫は大きく頷いた。
「君にいるのは、恋人じゃなくて――妹だ」
「なんてうらやましい……」
青木が羨望の眼差しを送るが、赤沼はため息を落とした。
「いいシーンは全部。ものを取りに走らされたよ。紅茶が飲みたいといえば淹れ、濃すぎて苦いと言われればお菓子を取りに行く。口裂け女の映画を見て、『私、キレイ?』を一度も聞かないなんてありえるか?」
赤沼はどんなに大変だったかと伝えたかったのだが、明夫に伝わることはなかった。
「ほら、昔ネットで話題になったショートアニメがあるじゃん。都市伝説を美少女で、擬人化したやつ。あれは『私、キレイ?』って聞けない。引っ込み思案の口裂け女だった。あれは最高だった」
「本当だよね」
青木はたまらないと目を細めた。
「昨日の映画も見てない人がなにか言ってるよ」
呆れる赤沼だったが、青木はいつもどおりの反応した。
「口裂け女って三姉妹だって知らないの? 三姉妹ってことは、二人は妹だってこと。最高の都市伝説だ!!」
そのまましばらくカードゲームで対戦するのも忘れて、三人は口裂け女談義に花を咲かしていた。
三人がカードショップを出ると、そこはもう夕暮れの街角だった。
空は燃え盛るような茜色から、じわじわと焦がすように鈍い紫色へと染まり変わっていく。
錆びたガードレールの奥にある電信柱の陰に、耳まであるマスクと、薄いトレンチコートを羽織った女性がひとり立っていた。
肩にかかる黒髪は夜の光を吸い込んで鈍く光り、その姿は初秋にはまだ早く、違和感があった。
妙にぬるい風のせいで、ざらついた空気が肌にまとわりつく。
街灯はまだ灯らず、路地は闇に溶け込んでいく寸前だ。
明夫達は、カードショップを出てもまだ深夜アニメの話をしていた。
不意に「ねえ?」と声をかけられた。
低く湿ったその声は、夕闇に不思議と響いた。
明夫の目には、前方にトレンチコートを着た女性がひとり佇んでいるのが映っていた。
「ねえ?」
女性が再びぽつりと呼びかけた。
低く湿った声が冷え切った空気に溶け込んだ瞬間、明夫の表情が急に固まる。
その表情を見た女性は、マスクの下でいやらしくニヤリと笑った。
女性はそのまま一歩踏み出したのだが、「まさか本物!?」と明夫が嬉々とした瞳で一歩踏み出すと、様子が変わった。
それ見て、女性はふっと一歩後ずさる。
トレンチコートの裾が風にひらりと揺れ、肌が見える。
不自然なまでに静かな夜の風景に、異様な動きを添えた。
赤沼と青木が「まさか? 本当に?」と一歩ずつ近づくが、女性は三人の行動に何か違和感を感じ取り、そのまま振り返らず、さっと暗闇に向かって駆け出した。
「ちょっと待って! お願いだ! 僕も連れて行って!!」
明夫が慌てて声を張るも、女性はすでに視界から消えていた。
三人は思わず顔を見合わせた。
明夫は息を荒くしながら、「せっかく口裂け女に遭遇したと思ったのに……」と震え声を漏らす。
翌朝。明夫は昨夜のことを、たかしとマリ子に話していた。
「絶対に本物の口裂け女だったんだ!!」
「偽物に決まってるでしょう。本物なら、今頃明夫はここにいなくて、私は口裂け女にお礼のカタログギフトでも送ってるわよ」
「本物だから逃げたんだ。都市伝説が偶像化されるってことは、口裂け女に連れ去られれば二次元の世界へ行けるってことだぞ」
明夫とマリ子が朝から言い合う横で、たかしは朝食のトーストを食べながらテレビのニュース番組を見ていた。
「その口裂け女の格好ってどんなだった? 季節外れのトレンチコートにマスク?」
「そうだよ! たかし! ほら、見ろ、マリ子! たかしも正確に口裂け女の容姿を当てた。彼女は本物だ。ねぇって声をかけられた後は絶対に『私、キレイ?』って続くはずだった!!」
「私、キレそう……。またいつもの暴走ね……」と呆れるマリ子だった。
しかし、その向かいでは、聞こえないくらいつぶやきで、たかしが「本物だ……」と呟いた。
二人は喧嘩をしているので見ていないが、テレビ画面には昨夜裸にトレンチコートの姿の女性が、前を開けさせて街を走り回っていたとところ。現行犯逮捕されたというニュースが流れていた。
つまり、彼女は口裂け女ではなく、露出狂だったのだ。本物の変態だった。
たかしは嬉しそうに熱弁する明夫を見て、「真実は口が裂けても言えないな……」と口をつぐんだのだった。




