第七話
「死ぬ……。これは絶対誰かが呪をかけたのよ。白雪姫のお后みたいに、捻くれた承認欲求を持ってる女なんて腐るほどいるんだから」
マリ子はソファーに投げ捨てられたバスタオルのような格好で、酒臭い息を吐き出しては苦しそうにしていた。
「それは聞き捨てならない」
明夫は玄関に向かっていた足をピタッと止めると、踵を返してリビングへと戻った。
「はいはい……。どうせただの二日酔いですよ」
「お后様は白雪姫が可愛くて仕方ないんだ。だから、雪原に城を建てて白雪姫を閉じ込めた。あの城にいる限り、国で一番の美人は白雪姫になるからね」
「今度は何に影響されてるわけ?」
「【スノーホワイト雪原に咲く真紅の薔薇】だよ。今季のアニメを履修してないの? 今ならまだ間に合う。現作を読み、監督の前作品の【あの街の一番星】も見て、10月からのラッシュに控えよう」
「もう履修登録は済ませた。余計な単位を取るつもりはないのよ」
「君はオタクの学問でも赤点を取るつもりかい?」
「あんたは人間を落第するつもりでいるの? あー待った。頭痛い……」
マリ子はこめかみを押さえると、意味もなく何度も細く息を吐き出した。
「それって僕が待つ必要ある?」
「眼の前で女の子が苦しんでるのよ。そんな薄情なことを言う男がいる?」
「僕はアニメ鑑賞に行きたい。なんと今現在赤沼の家では、二日酔いで髪はボサボサ肌もボロボロな女の子じゃなくて、ハイセンスでロリロリな魔法少女が見られる。これはうんこを投げるゴリラを見に行くか、そらとぶペンギン水槽を見に行くか、至極簡単な選択肢だ」
「はい、フェイク。女はどんだけ酔ってても、なぜか化粧だけはしっかり落としてるもんなのよ」
「じゃあ普段から肌が荒れてるんだ」
「なんですって!」と、怒りに任せて体を起こしたマリ子だったが、起こし切る前に力尽きてソファーに突っ伏した。そして、その衝撃が余計に頭痛を誘発させた。
「今のロボットアニメでロボが倒れ込む瞬間そっくりだった。動画撮っていい?」
「アンタの命を取ってもいいなら好きにしなさい」
「言われなくても好きにするよ。僕はこれからアニメの鑑賞会があるって言っただろう」
「ちょっと……本当に見捨てていくつもり?」
「君は頼るべき相手が他にたくさんいるだろう。異世界に転生した秘密を分け合う仲を探すわけじゃないんだ。すぐに見つかるだろう」
「ダメよ。たかしは、私の代わりにザンギ屋のバイトに行ってる」
「他にも頼るべき相手はいるだろう。アニメから抜け出し損ねたような君の友人達が」
「そんなUMAは交友関係にいないわよ。まだエイリアンと友達って言ってたほうが人が離れていかないわ」
「男女と合法ロリのことだよ」
「今の時代。そんなこと言ってたら石を投げられるわよ」
「今の時代。皆気付き始めてる。じゃなければ、キャラクターメイキングで美男美女なんて作らないからね。男女も合法ロリも一緒。二次元の世界は現実とは違うんだ。引くに引けなくなった人は、いつだって弱者を担ぎ上げて神輿に乗せる。マリ子も考え足らずで石を投げて、バカのふりをするしかなくなるよりも、受け入れたほうがいい、アニメの世界を」
「もう……これ以上頭痛がひどくなる前に……さっさと行って」
「だからそうするって言ってるだろう。引き止めのは君だ」
秋は最後まで文句を言い切ると、楽しいアニメの時間だと下手くそなスキップを織り交ぜて家を出ていった。
一騒動あったせいか、妙に静けさを感じるリビングに一人でいると、どうしようもない寂しさに襲われた。
マリ子は誰か家に来てくれそうな人はいないかと、SNSでメッセージを送った。
その相手は、明夫が言い残していった相手だ。
しかし、公子からは社会人を舐めるなと至極当然なメッセージが返ってき、京からは大学後期に合わせてバイトのシフトを合わせているから無理だと返ってきた。
その他にもめぼしい相手にメッセージを送ったのだが、平日の昼間。社会人は論外だとして、大学生もその殆どが履修登録と後期の用意に追われる期間だ。
更にいえば、家へ呼べる人物など限られている。
そして、マリ子のスマホに新着メッセージで一番上に来る人物の名は、ここ最近では決まった相手だった。
「頼ってくれて嬉しいわ。これが恋人の絆よね」
満面の笑みで家へとやってきたアコは、早速マリ子の服を脱がそうと手をかけた。
「体が熱いっていうのは、興奮してるんじゃなくて、二日酔いでって意味よ」
「どっちにしたって汗で濡れてるでしょう。風邪引くわよ」
アコは手早くマリ子のブラを緩めると、絞ったタオルで体を拭き始めた。
「くすぐったい……」
「ご要望とあらば気持ちよくも出来るわ。ネットの体験談で勉強したの」
「くすぐったいのでいい」
「心配しなくても、病気の時に変なことはしないわ。弱ってる時に感じる孤独……理解してるつもりよ」
アコの真面目な声色に、マリ子は思わず「ありがと」と短く感謝した。
「いいのよ。話し合ってこそ通じることもあるんだから。言葉って素敵よね。同じ言葉でも、声色で感情が変わるんだもの。文字だけじゃ絶対に伝わらないものよ」
「そうね」とマリ子は頷いた後、汗を拭かれた体に爽快さを感じた。「ねね」
「大丈夫。しっかりブラはつけ直してあげるわ。大きいお胸が垂れたら大変。一緒に大切に育てましょう」
「違うわよ。アコのことあんまり知らないなーって思って。ほら、別の目的でやりとりしてたでしょう」
「そうかしら? 私としては同じ目的に向かってメッセージをやりとりしてたと思ったけれど?」
アコは冷却ジェルシートをマリ子の額に貼ると、いたずらが成功した子どものように笑った。
「病人は襲わないんじゃなかったの?」
「ふと思ったの。二日酔いは病人かって。冗談よ。気持ち悪そうにしてたから、話題を変えただけ」
「ありがと。楽にはなってないけど、少しは気が晴れたわ。それで、話してくれるの? アコのこと」
「私のこと……。そうね……病弱だったわ。兄も私も」
「お兄さんいるんだ。ねね、イケメン?」
「兄妹よ。身内びいき、その逆もまた然り。家族の顔の評価は正しくできない」
アコはおどけるように笑うと、続きを話し始めた。
父は仕事人間であり、家庭を顧みることなく、母はそんな父に愛想を尽かして家を出ていってしまった。
それから、父は前にも増して仕事へのめり込むようになった。
静まり返った家の中で、病弱な私と兄だけが残された。
冷蔵庫のモーター音が子守唄のような状態の家で、互いの存在だけが支えであり、冷えた空気の中でぬくもりを探し続けた。
世界がどれほど厳しくても、私たちは寄り添いながら日々を生き抜いていった。
「――だから、看病は得意なの」
「正直に言っていい? その父親を右手でぶん殴った後、左手で母親をぶん殴ってやりたいわ」
「それは無理よ」
「大丈夫。一歩踏み出せば、後は顎を砕いていてやるって気概だけよ。コツは拳はしっかり振り抜くことね」
「この世界にいないから」
「正直に言っていい? 茶化したこと、ものすごい後悔してる……」
「全く気にしなくていいのに」
「でも、ちょっとわかったわ。アコがなんでアコになったのか」
妄想癖とも言えるアコの癖。明夫は夢女子だと言っていたが、なにかに固執するのは過去のことが原因だとマリ子は思っていた。
少なくとも身の上話を聞いてから考えれば、ほとんどの人がそこへ行き着く。
マリ子は少しアコに優しくしようと思ったのだが、それより先にアコ優しさに触れてしまった。
「みぞれ雑炊よ。大根おろしたっぷりだから消化にもいいわ。その調子だと、何も食べてないんでしょう?」
アコはマリ子と話しながらも、看病するために手を動かしていたのだ。
ゆっくりと鍋の蓋を持ち上げると、白い湯気がふわりと立ち上り、まるで冬の湖に漂う気嵐のように空間を満たした。
大根おろしが出汁に溶け込み、淡雪のようにふんわりと広がっている。
アコがレンゲで大根おろしを崩すと、隠されていた具材たちが姿を現した。
黄金色の卵が優しく揺れ、米粒は出汁をたっぷり吸い込んで、レンゲに乗り切らない分はほろりとほどけて落ちていく。
落ちた米粒が雑炊の水面を揺らすと、鼻をくすぐる出汁の香りが強くなり、思わずマリ子の喉が鳴った。
眼の前に広がる誘惑と、マリ子の元来の性格から、甘えるのはすぐだった。
「あーん」と口を開けると、アコは適度に冷ました雑炊を食べさせた。
口に含むとほのかな甘みと旨味がじんわりと広がり、舌の上を大根おろしが滑り落ち、喉を通る頃には、じんわりと身体の芯まで染み渡っていた。
「幸せ」とマリ子が顔を緩ませると、アコも同じように顔を緩ませた。
「一言一句違わず。同じ気持ちよ」
「食べてないのに?」
「食べちゃいたいわ」
「でも、これは私のだからダメー」
雑炊を食べさせるふりをして、自分で食べるマリ子の姿を見て、アコは熱っぽいため息を吐いた。
「早く私のものにしたいわ……」
それから、雑炊を食べてお腹いっぱいになったマリ子が寝てしまったので、アコは濡れた肌着を洗濯した。
部外者の自分がいつまでもいるのも問題があるので帰ろうと思い、鍵をどうしようかと悩んでいると、たかしがちょうど早足で帰ってきた。
「あれ? アコさん?」
「遅れて登場ね。ライバル君」
「ここオレの家なんだけど……」
「スタートが家だとは限らない。手が触れ合った瞬間がスタートかもしれないし、目があった瞬間からスタートなのかもしれない。それが恋のレースよ」
「それならオレのほうが早くマリ子さんと出会ってる。だからこういう関係になってるんだ」
「知ってるかしら? スタートダッシュの成功は負けフラグだって、主人公はいつだって後ろからぶち抜くものよ」
「全部なんの漫画から引用してるのかわかる自分が悔しい……。とにかくマリ子さんの様子は?」
「寝てるわ。……いいえ、寝てたわ――私の隣でね」
「看病してくれたってことでいいんだよね?」
「そうね。服を脱がせて、汗だくになって、また服を着るのが看病なら、看病ってことにしておいたほうがいいわね。彼女の下乳に隠れて、星型のほくろがあるって知ってた?」
アコは不敵な笑みを残すと、軽やかな足取りで帰っていった。
残されたたかし「オレだって知ってるよ!」と大きな声で返すと、帰って来る時の早足よりも早い足取りでリビングに向かい、起きかけのマリ子の肩を揺さぶった。
「ちょっと!? なになに!?」
「マリ子さん……おっぱいを見せてほしい……」
「なに? 二日酔いってこじらせると、もっかい酔うわけ? アルコール依存症が治らない理由がよく分かるわ。彼氏がおかしなこと言ってる」
「おかしなことを言ってるのはよくわかってる……でも、おっぱいを見せてほしい。これは確認なんだ。星を確認したい」
「昭和の小学生だって知ってるわよ。エッチな画像にある大事な場所を隠す星は現実にはないって」
「これは大事なことなんだ」
たかしが馬鹿げたことをあまりに真剣にお願いするので、たまらず愛おしくなったマリ子は「わかったわよ……。ワンちゃん、ハウス!」とシャツを捲った。
たかしがその中に頭を突っ込んで、アコが言っていた星型のほくろが本当にあるのか確認していると、上機嫌の明夫が帰宅した。
「うわぁ……せっかく純愛もので癒やされてきたのに、バター犬とバターくらい脂肪分がある女に汚されたよ……」
「ワンちゃんは正解。甘えてきてるのよ、よちよちいい子ねー」
「ちょっと! マリ子さん! オレは真剣なんだ! 一番星を探してる!」
たかしはマリ子の胸とシャツに挟まれたまま言い放った。
「いい子ではないみたい……。特に頭の方は」
「だいたいさぁ、なんでたかしが帰ってきてるのさ。アコが面倒を見るって連絡きてたのに」
「それで思い出した! 二人とも、アコには優しくしないとダメよ。彼女には暗い過去があるんだから」
マリ子がするアコの身の上話を、明夫は真面目に聞いていた。
そして、すべて聞き終えると「なるほどね」と大きく頷いた。
「ね、可哀想でしょう」
「それ【あの街の一番星】っていうアニメ映画だよ」
「は?」
「だから、アニメの話。知らない? 女の子の中で話題になったんだけど。僕が出る前にちょっと話しただろう」
「アンタが知ってる女の子の中で話題になったものを、私が知ってるわけ無いでしょうが。アンタと会うまでオタク趣味とは無縁だったのよ」
「君もアコ付き合うつもりなら、少しは夢女子について履修しておいたほうがいいよ。オタクの形容詞には共通してることがある。どれも一つの定義では語れないんだ。アコはあの街の一番星の作品に対しては憑依型だってだけ。ちなみにこの作品の兄は死ぬ。彼女の傾向的に、好きになった相手はよく死ぬらしい」
「縁起でもないこと言わないでよね……」
マリ子がため息を付くのと同時に、たかしがマリ子のシャツから顔を出した。
「やっぱり! 一番星はなかったぞ!」
「あっそ……。私も男を履修し直したほうがいいかも……」