第六話
重く粘っこい残暑を運ぶ風と、早とちりに賑わう秋のフェアの香りが混ざる9月の半ばも過ぎた後半。
後期の履修登録期間の今となっては、夏休み中の独特の静けさも消え失せ、大学は賑やかさを徐々に取り戻していた。
大まかな履修の内容を決めておいたたかしは、合わせられる講義は合わせようと、いつもの学食で、いつもの友人達を待っていた。
早速現れた男の姿をした悟を見て、たかしは思わず片手を上げたままの格好で固まってしまった。
「どうしたのさ。僕がコーヒーを買って飲むのがそんなに珍しい」
悟は自動販売機で買った紙コップのコーヒーをテーブルに置くと、早速履修合わせをしようとスマホを取り出した。
「男の格好なんて久々に見たから。変な感じだよ。メイド仕様のエプロンドレスじゃない悟を見るのって」
「これから存分に見ることになるよ。ボスの店をクビになったからね。ほら、この時間なんてどう? ドイツ語の講師は半分遊び目的で日本きてるから、出席もゆるゆるだってさ」
「ちょっと待った! ボスの店をクビになったって?」
「そうだよ」
「なんでまた」
「なんでって、たかしの責任もあるんだけど。忘れたの? ボスが首ったけになった理由。それが僕がクビになった理由」
悟は中性的な顔をしており、それがお客のオタク達に受ける形となって、カードショップのバイトをしていた。
悟に不満はなく、エプロンドレスを着るだけで時給が上がるので、むしろ少ない時間で稼げる理想のバイトだった。
それも、ボスという木に恋という花が咲いていない状態の時だ。
主にマリ子の画策により、ボスとマリ子のバイト先の店長が恋仲一歩手前となった今。
ボスは少しでも相手に誤解を与えないように、中性的な悟を近くにおいておくのをやめたのだ。
「そのいかにも恋愛始めましたって感じの男特有のムーブ。中学とか高校を思い出すよ。男友達とは学校で遊んで、放課後は全部彼女と一緒ってならなければ大丈夫。まだ救いはある。手遅れなら、修学旅行は常に心に孤独が纏わりつく」
「言うことはそれだけ?」
「言い訳をしていいなら、九割はマリ子さんの暴走。でも、一人を不幸にした代わりに、二人を幸せにしたってことなら、そんなに悪い気もしない」
「大学生がちょうどいいバイトを見つける大変さを知ってるだろう」
「ちょうどいいバイトならあるぜ。空いてる時間に散歩して、よく吠える犬がいる家をチェックするバイトだ」
遅れて現れた芳樹は、適当な挨拶もしないまま、早速悟の履修を丸写しでアプリへ入力し始めた。
「それは闇バイトだろう」
「上手くいけばもう一生バイトしなくて済むし、上手くいかなくても一生バイトしなくて済むだろう。さあ、履修登録は終わりだ! 遊びに行こうぜ!」
芳樹がスマホを出していた時間は、連絡先でも交換するくらいの短さだ。
それはさすがにありえないと、たかしはもう一度椅子に座るよう促した。
「もう終わったって言っただろう。悟と同じのを履修しておけば、何一つ考える必要はない」
「人気講義の抽選に外れたらどうするんだ?」
「そん時は、たかし。オマエに合わせる。1番に選ばれなかったからって妬くなよ。悟の講義に合わせたほうが、女が寄ってくるんだ。オマエには寄ってこない。なぜなら嬢王蜂がオマエの彼女だからだ」
結局たかしも悟も、芳樹に押し負ける形で履修登録を終えると、僅かな履修登録期間を夏休みの延長で遊ぼうと遊びに行ってしまった。
夕方前。夕飯の材料を買ってから帰宅したたかしだが、その眼の前に広がる光景は、まるで昼のデジャブだった。
「たかし。いいところに帰ってきたよ」
心底助かったという表情をしたのは赤沼だった。
「君達三人がそう言うと、いつもオレは割りを食うことになる。これから夕食の準備なのに、お腹いっぱいになりたくない」
「履修登録の相談だよ」
「違う大学だろう? 悪いけど力になれないよ」
「僕苦手なんだよ。なんでもさ……。決めるっていうことが苦手なんだ」
「大学はどうやって決めたんだよ」
「青木が行くって言うからそこにしただけ」
「たまにする短期バイトは? あれだって自分で決めないと」
「アレは親に借金してるから、親が勝手にバイト先を決めるんだ。だから知り合いのとこの短期バイトしか出来ないの」
「まさかおしっこする時まで、誰かに決められてるわけじゃないだろう?」
「そうだけどさ。考えすぎちゃうの。この選択が最良かって。後悔しないかって。ゲームみたく選択肢から選ぶなら出来る。選択肢をひねり出すまで時間がかかるんだ」
「それがわかってるだけ。明夫よりマシだよ」
「なんで僕を例に出すわけさ」
明夫が不服だと唇を尖らせたが、そんなことで引くようなたかしではなかった。
「中学校一年の時に、眼の前に選択肢が浮かばないって眼科に行ったからだ」
「でも、あの眼科医は名医だよ。精神科へ行くことを勧めたからね。二次元への扉は精神とともにあるんだ。でも、今は名医の話よりも、カードショップで遊ぶ予定を、履修登録のせいで潰されたことが大事」
「二人はもう登録したの?」
たかしが聞くと、青木は当然だと頷いた。
「僕が悩むことといえば、妹っぽいと、妹キャラと、純粋な妹はしっかり線引してほしいってことくらいだよ。妹っぽいって言われない? って言葉がよくあるじゃん。僕は思うね。ぽいってなにさって。でも、妹っぽいキャラに食指が動くのも理解できる。履修登録なんかに、悩みのリソースを割いてるなんて容量がもったいないよ」
「だってさ。少しは青木とか芳樹を見習ったら? 完璧な履修登録だなんてもんは、ステータスになるほどの有名大学に入った人が考えればいい。先着順の講義なんて、悩んでたらあっという間に埋まっちゃうぞ」
「わかってるんだけどさ。もしも、行った先で知ってる人が一人もいなかったら? わかんないことをわからないって聞ける相手がいないと、僕は死んじゃう……。これ大げさじゃないよ。もしも、地球が半裸で多彩なカラーリングのエイリアンに侵略されて、人類がペットになった時は、飼育説明書にはこう書いてもらって。オタクと多頭飼育すること。交尾による繁殖は期待しないことって」
「履修登録を難しく考えるからだって。半年の目的を適当に決めちゃおうってもんなんだから、後悔したなら来年取り直せばいい。そのために高い授業料を払ってるんだから」
「でも、ボスも女性を履修してから変わった」
「まだ履修してないから変わったんだ。もしも、過去にしっかり女性を履修してたら、悟もクビになってない」
「あの魔女のせいだ!」
明夫はマリ子が女性と引き合わせたせいで、ボスが自分たちと遊ぶ時間をなくしたことを本気で怒っていた。
「ややこしくなるから……。邪魔するなら、代わりに夕食の下準備してくれよ」
「それでボスが戻ってくるならやるよ。その腑抜けをどうにかしておいてよね」
明夫は赤沼に喝を入れてくれと言い残すと、野菜の皮を剥く準備をするのにキッチンへと向かった。
「これで話を戻せる」たかしはため息を一つ挟んだ。「履修登録を推し活だと思えば?」
「どうやって」
「今ハマってるアニメが歴史ものなら、歴史系の講義を取ればいい。アイドルなら、音楽とか芸術に近い講義。うちの大学だと、感性を養うためって目的で文芸学と脚本論とかもあるぞ。地域の劇団の人が非常勤講師で来てるんだ」
「たかし、たかし……。それって――」
「二次元からは誰も来てない」
「なぁーんだ。たかしの大学も大したこと教えてないんだ」
口を挟んだ明夫だったが、期待外れの回答が返ってくると大人しく夕食の下準備へと戻った。
「いや、でも悪くない考えだ。かつて漫画でテニスが流行った時は、皆テニス部に入った。歴女が話題になった時は、歴史専攻が増えたしね。僕も考えてみよう」
赤沼はスマホで最近の自分の動向をチェックした。
明夫と青木と盛り上がった話題。直近で最もプレイしたゲーム。配信者が話題にしてメモしていた声優の名前など、自分が興味ありそうなことを熟考した結果。
「僕は異世界に行きたい」と明夫のようなことを言い出した。
「明夫が双子だったらって想像したことある?」
たかしのため息が聞こえると、赤沼は慌てて訂正した。
「別に本気で言ってるわけじゃないよ。でも、今の流行りなんだからしょうがない。異世界に行った時に役立つ知識や技術。それが僕の学びたいものなんだ」
「一歩進んでるのか、後退してるのか……微妙なところだけど、それで履修登録が出来るなら……いいんじゃない?」
たかしは自分の人生じゃないしと肩をすくめると、明夫に押し付けては悪いと本格的に夕食の準備を始めた。
「青木……なにが必要だと思う?」
「ドラゴンと巨大トカゲの見分け方」
「確かに……カッコつけて倒したドラゴンが巨大トカゲだったらカッコ悪いよ」
「僕が敬愛するシナリオライターが書いた設定によると、ドラゴンとトカゲは魔力コアの大きさが1番の違いらしい。魔力コアが大きいとそれだけ変異しやすい。トカゲは魔力コアが小さいから、巨大化しても空をべないし、属性ブレスも吐けない」
「生物学でも学べっていうの? 他の大学へ入学し直し?」
「なら伝説の刀鍛冶だ。今はサブスキル的なものがメインスキルになるのが流行ってるだろう?」
「それも大学を変えないと無理だ。そもそもひ弱な僕はガラス工場の見学でさえ、熱気にやられて倒れたんだ」
「赤沼は文句を言い過ぎだよ。妹がいるだけで勝ち組だっていうのに。異世界でも勝ち組になるつもりか?」
「妹がいるだけで勝ち組なら、僕は今ここにいない。今日は夏休み中に塾で仲良くなった子が家に来るんだってさ。僕は家にいちゃいけないらしい」
「転生モノにありそうな展開で羨ましいよ。一人っ子の僕は、妹に追い出されるイベントさえ起きないんだぞ」
「わかったよ……諦める。後期も僕は人に流されて生きていくんだ」
赤沼は明夫と青木の履修登録と全く同じものを、自分のアプリで登録して提出した。
「友人と同じ講義を受けるだなんて、全国どころか、全世界でも共通してるよ」
「だから僕らは新しい友達が出来ないんだ。明夫に彼女が出来たら、僕ら二人だぞ。そんなの耐えられるか?」
「そんなこと言ったら君には妹がいるけど、僕は一人だ。でも、将来赤沼が結婚して、子どもが出来る。最初の子はどうでもいいけど、二人目が女の子なら妹だ。僕は孤独じゃなくなる。その時になってから、改めてこの話をしよう」
「ありがとう僕が結婚できると思っててくれて。だからこそ言っておく……。娘が出来たら、絶対に近づけさせない」
「待った! これってすごいよ」
「なにが」
「だってさ、生まれるかわからない赤沼の子供のことを、こんなに本気で考えてるんだよ。これってあるかどうかわからない二次元の世界と同じだよ。つまり、君に子どもが生まれれば、二次元の世界があるって証明されるかもしれない」
馬鹿げたことを本気で言う青木の眼の前に、突然貯金箱が現れた。
夕食を食べていくなら食費を払えと言う代わりに、たかしが無言で振っているのだ。
「履修登録を済ませて大学を卒業しないと、これを本気で言ってると思われる人生が待ってると思えば。決定することなんて怖くないだろう」
「だね。とりあえずご飯は食べてくよ。家に帰ったら妹の冷たい視線付きだからね」
赤沼は財布を見て、ちょうどいい小銭がないのに気付くと、奮発だと言って500円玉を貯金箱へと入れた。
「そっちを決断してどうする……」
「今はたかしが選択肢を出したからね」
「友人だから言わせてもらうけどさ。同じ男として情けないよ」
たかしが眉を寄せるの同時に、明夫が口を挟んだ。
「たかしだって、同じじゃん。いちいちマリ子に許可取らないとベッドに誘えない。君だってマリ子に選択肢を出してもらってる」
「キミらは付き合ったことがないからわからないだろうけど、女の子が出す選択肢には裏面にも選択肢があるんだ。かと、思ったら薄いのが2枚重なってたり、それも両面に別の選択肢が書かれてたりするんだ……。赤沼の履修登録と一緒だ……。あとで一緒に考えるよ」
「僕も人のこと言えないけどさ。たかしも相当流されやすいよね」
「流れをせき止めるなら、手伝わないぞ」
「困るよ! 僕はもう大洪水。もう濡れ濡れだ。たかしがいないとどうにもならないよ。君がいて、僕はやっと立派に立つことが出来るんだ。穴があったら入りたい気持ちの僕だったけど、たかしがその僕の穴を埋めてくれたんだ。たかしのたくましさに僕は満たされてる」
「まずは何かしらの語学系は必修だな。そしたら、口に出したら紛らわしくなる言葉もわかるだろう……」