第五話
「なんで帰るの! 悪いところがあったなら直すから! 捨てないで!」
暑さが少し和らいだ夕方。換気のために開けた窓から響く悲痛な叫びはマリ子のものだ。
「元から長くいるつもりはなかったのよ。それに、前から少しずつ荷物は運んでたの」
胸に抱きついて泣くマリ子の頭を、京は優しく撫でた。
途中からルームシェアハウスに住んでいた京だが、マリ子とたかしと明夫の三人の関係を十分観察し終えたので、実家へ帰ることを決めたのだ。
実際の理由はそれだけではない。
新しい友人であるアコと二人で話すうちに、明夫との関係も気になり始めてきたので、二人を新たに観察するには一旦外から眺めるほうがいいと判断したのだ。
元から男二人、女一人で住んでいたのだが、急に同性がいなくなるので、マリ子は寂しさに襲われたのだった。
そして、その数日後。京はその香りだけを残して帰っていった。
「これが失恋ってやつなのかしら……」
マリ子は熱っぽく憂いを乗せたため息を落とした。
「心中お察しするよ」
明夫は淹れたてのコーヒーを出すが、マリ子が口をつけることはなかった。
「誰がブラックコーヒーなんて飲むのよ。気が利かない男ね。だからモテないのよ」
「現実でモテるってどういう意味かわかる? 異世界に行く資格なし。異世界の神様に見放されたってことさ。慈悲の心だよ。この辛い世の中で寿命をまっとうするなら、仮初の愛くらいないとね」
「物は言いようね……。そうだ! 私事実を捻じ曲げればいいんだ! 京は帰ったんじゃなくて、より良い私好みの女になるために出かけたの」
「もしくはマリ子が嫌になって逃げたか」
「喧嘩を売るなら、ネットのフリマで売って。こっちはいちいち構っていられないわよ。失恋した女の意味がわかる? 手負いのライオンってことよ」
マリ子はため息を挟むと、コーヒーにたっぷりの牛乳とガムシロップを一つ入れてから、カップに手を付けた。
頭では理解できているが納得はできない。
毎日がパジャマパーティみたいで楽しかった日々が突然終わりを告げたのもあるが、親友の自分に何も相談せずに京が帰ったせいもある。
京としては元から決めていて、引っ越し用の軽トラックの手配が済めばいつでも出ていく予定だったのだ。
「もうすぐ大学が始まるだろう」と明夫が言った。
京はこのことも考えていた。
大学生の本文は勉強であり、集中力のないマリ子の近くに恋人も親友もいる状況は、堕落の途道へ一直線なのは明らかだ。
「だからなによ」
「彼女の身になって考えてごらんよ」
「うそ!?」とマリ子は驚愕した。
「ほら見ろ。思い当たる節があるんだろう」
「アンタ女装したの? 知ってるわ。男の娘ってやつでしょう。アンタには無理よ」
「真の男の娘とは、2.75次元の存在だ。意味わかる? 存在してるようでしていない。でも、どこかにいるかも? ネットに存在してるのかな? それが男の娘だ」
「現代のツチノコみたいなこと言ってるんじゃないわよ」
「マリ子こそなにを言ってるんだ。男の娘がみんなツチノコだと思うな。しめじサイズももいればパームツリー並みまで、実に様々な大きさと形状がある。とっくのまに多様性を取り入れてるんだ」
「アンタがなに言ってるのよ……」
「男の娘博士の言うことは、君には少し難しかったようだね」
「アンタが偉そうに離してる内容は男性器博士よ。こうなったらやるしかないわね!」
マリ子は叩きつけるようにカップをテーブルに置くと、コーヒーがこぼれるのも気にせず、胸元で気合の拳を作った。
「女性器の授業はいらないよ。小学校時代に質の低いイラストで勉強させられたからね。でも、おかしな話だよ。イラストで性教育をするってことは、文部科学省が2次元に興奮するよう仕向けてるってことだ。これは日本政府が2次元という知的生命体の存在を認めたと言ってもいい。奴らは隠してるんだ。掲げられたムーンショット目標は、そのための第一歩。UFOの存在も公式に認めれられだろう? なんでかわかる? 隠す必要がなくなったからだ。それは2次元の扉から注意をそらすため。いきなり理想郷があるなんて知ったら、みんな心臓が止まっちゃう」
「京に戻ってきてもらうために私の悪いところを直すって話よ。勘違いして、勝手に話を広げないで」
「そんな変わんないよ。現実は最悪。2次元最高!」
「私に死ねって言ってるわけ?」
「死んで2次元に行けるなら、今頃この世はネズミとゴキブリで溢れかえってる。そうして人間の代わりに、新たな生命が支配するんだ。それが対ゴキブリとネズミ用に進化した獣耳生命体だったらどうしよう……。戻りたくなっちゃうよ。人間って愚かでいることも許されないんだ。なんて生きにくいんだ。今すぐ天然記念物に指定して大事にされたいくらいだよ」
「意味わかんない」
「2次元への扉が死なら、僕はとっくにこの世にいないってこと。わかった? トラックに秘密があるはずなんだ。そこまでは気付いてる。だから最近宅配のトラックも減っただろう?」
「わかった。異世界も悪魔はお断りだってこと。アンタが現実世界にいるもの」
「それは面白い考察だ。評価に値する。僕も本来なら悪魔式に異世界へ召喚されたいと思っていた。でも、それは無理だと気付いた。なぜならそのネタはもう使われなくなったからだ。これは先人のサインだ。召喚はされないって」
「そうでしょうね。だから現実の世界で漫画を書いてるんだから」
「そこで、先人は新たに学びを得た。一度無にならなければ異世界は行けない。これは理に適っている。だって異世界転生した人たちは一様に現実とは違う思考回路になる。これはなぜか、無になり新たに構成された生命だからだ。そのためには体が邪魔になる」
「明夫……アンタねぇ……。死んだら、こっちに戻ってこられないんだからわかるわけないでしょう」
「そうだ。まさか僕が自殺するとでも思ってる? さっきトラックに秘密があるって言ったばかりだ」
「言うべきじゃない単語一番祭に浮かんできたけど……。これは言わないでおいてあげる。結局正解はないってことでしょ」
「だから宇宙と一緒なんだ。正解がないものを、どうにかこじつけてでも正解にする。これがエイリアンの存在を認めたことと繋がる」
「誰がアンタの突拍子もない妄想を砕いて説明しろって言ったのよ」
「ここからが面白いのに。人間は2つの扉を求めたんだ。転生とネットの世界だ。だからこそ今の主流はこの二つだろう?」
「アニメの流行りなんてどうでもいいの。まずは部屋の掃除。完璧にキレイにして、出来る女ってところを見せつける」
「それはいい心がけだ。でも、掴むべきものは掃除道具であって、僕の胸ぐらじゃない」
「私が一人で掃除できると思ってるの?」
「まさか僕を掃除道具だと思ってるの?」
「今から思い込ませるの。ほら、アンタの変な趣味があったじゃない」
「小学校の掃除当番を押し付けられるのが趣味だとでも思った? それも君みたいな女子に」
「おバカ……催眠音声よ。それに、私は掃除当番を守ってた。なぜなら義務教育で一番男子と仲良く出来るのが掃除中だから。それを知らない女って、したり顔で掃除サボるのよね。負け組への第一歩よ。なぜなら、そういう女は適当に自分で髪を染めて傷めるくらい考えなしなんだから。男子は女が思うほどに髪の毛を見てる。授業中なんか、すぐ後ろが男子の時もあるのよ。初心者のカラーリングの髪の痛みは目立つ。義務教育の男子なんて、性欲と子供がまざった妖怪みたいな存在なんだから。髪が傷んだ女なんてあっという間に噂になるわ。やりたい盛りになってから褒めて遅いのよ。はい、オマエの童貞の寿命延びた! 長寿全うしろ! ……ってなんの話よ」
「少なくとも、2次元への新しい扉の場所を記すメッセージではなかったね。君はゲームのモブキャラにはなれないよ。マリ子みたいのがモブキャラだったら、みんな始まりの街から出られない」
「私が美人すぎるからよ。アンタも始まりの街から出たかったら手伝いなさい」
「ゴミ拾いクエストなんて、何年も昔のMMORPGだよ……」
明夫は文句を言いながらも、マリ子の部屋の掃除を手伝った。
しかし、その苦労もマリ子にとっては無駄になってしまった。
キレイになった部屋の写真を送ったところ、一人で部屋を片付けられるなら大丈夫だと京に安心されたのだ。
明夫が部屋の掃除を手伝った理由。
そして、明夫にとって無駄にならなかった理由は同じだ。
明夫が京を追い出したからであり、その目的は京とも一致していた。
明夫がマリ子にブラックコーヒーを淹れたのも、コーヒー好きな京と話し合いを重ねるうちについた癖だった。
間違えることなく引っ越すよう京の機嫌を取っていたのだ。
二人の目的とはアコだ。
明夫はアコとマリ子が恋人になり、たかしが自分達のオタクコミュニティーに一番近い存在に戻ってほしいと思っている。
そのためには、四六時中親友の京とマリ子が一緒にいられては困るのだ。
京がルームシェアをやめた理由は、アコに入り込む隙を与えるためだ。
趣味の人間観察が大前提なのはもちろんのこと、自分が近くにいることでマリ子の視野が狭まることを知っているのも理由の一つだ。
もしかしたらアコと良い友人になれるかも知れないのに、自分がいることで遮断してしまってはマリ子のためにもならないからだ。
そんなことはつゆ知らず。
マリ子は明夫に作らせた料理を自分で作ったと言い張ってみたり、たかしに後ろで軽く支えてもらいながら小細工した体重計の数字を見せてダイエット成功と送ってみたり、京と一緒にいても堕落しない自分を演じて見せたが、京が戻ってくることはなかった。
「マリ子ったら本当におバカさんね」
京はマリ子から送られた写真を見て、愛おしそうに目を細めた。
「本当にバカだよ。たった3日で3キロも体重が落ちるなら、病気だって言ったほうが心配して帰ってきてくれる可能性が高いのにさ」
明夫は缶のコーラにストローをさしてぶくぶくと不満をあらわにした。
「バカなのはオマエだ。女を連れてくるな」
今明夫と京がいるのはボスのカードショップであり、明夫を怒ったのはボスだった。
「カードショップなんてさ、今どきは女も来るだろう。残念ながらね」
「違う。テンチョーさんが気を悪くしたらどうする」
「なら、今すぐ女人禁制の張り紙をはろう。僕は賛成」
ボスのため息が聞こえると、京が話しかけた。
「マリ子から話は聞いてるわ。上手くやってるようね」
「上手くやってるだって? 上手くいきすぎだ……。今でも彼女の闇バイトを疑ってるくらいだ」
「カードショップの店長が?」
「カードの希少価値は宝石と一緒だ。そして、伝説もまた一緒だ。よくあるだろう? 宝石によって呪われたり、幸せになったり。見ろ、この初期ロットの【クイーン・エルフ】のカードを。こいつはな結婚指輪を買うために売られてきたんだ」
「素敵な話ね」
「ところがそいつは離婚した。こいつを再び買い取る資金はねぇ。奴はどうしたか……復刻版を手に入れたよ。真実の愛を見抜けなかったオレにはお似合いだって言ってた。オレはいつか奴が真実の愛を見つけた時のために、こいつを売らないで保管しておいてやってるんだ」
「素敵な話だね」
明夫がうんうんと頷くと、京は眉間にシワを寄せた。
「どこが? 買い戻したってことは、またオタクに戻ったってことでしょう?」
「真実の愛って言ったのに、わざわざ言葉を長くする必要がある?」
明夫がわかってることをいちいち聞き返すなと呆れると、ボスはそれに対して肩をすくめた。
「オレは愛を預かってるだけ。真実の愛はザンギとともにギトギトに燃え上がる」
「ここにマリ子がいたら言ってやりたいよ。現実の世界の愛は金だってね。カードショップっていうのは、オタクの銀行みたいなものだよ」
「本当そうね。マリ子がいて、アコがいたら面白そう。これからの作戦会議は全部ここで行いましょう」
京はルームシェアハウスを出たかいがあったと、大学始まる前に変化する交友関係にワクワクしていた。