1.蠅
昨夜は疲れ果ててしまっていて、殆ど気絶するように眠ってしまった。
そのせいか目覚めは良かった。障子の隙間から入り込んだ朝日で自然に目が覚めた。
隣に敷かれた布団で、鈴はまだ眠っていた。うつ伏せになって、頭まで被った毛布から、漆黒の獣耳が飛び出ている。あの獣耳を見る度に僕は、どれだけ人間臭く振舞おうと、やはり鈴は人間ではないのだと、しみじみと実感するのだ。
僕は、起き上がり縁側に向かう。寝室から縁側までの距離は10尺。許容範囲には少し余裕がある。この屋敷はそういう風に設計されていた。これ以上宿主と付喪神が離れると、内側から針を刺されるような鋭い痛みが双方の全身に走る。
さらに離れれば、気を失い。そこからさらに離れれば死に至る。
ずいぶん昔の話で、細かいことは忘れてしまったけれど。
喧嘩でもしたのか、ただ興味をひかれるものでもあったのか、鈴と離れてしまったことがあって、その時に走った激痛だけが未だに僕の記憶に鮮明に残っている。
それ以降試す気にはならない。
全知全能の鈴でも覆えせない、朝が終われば夜が来るような、そんな理の話だ。
人は空を飛べないし、魚は陸を泳げない。それと同様に、付喪神は宿主から離れることは出来なかった。
僕は縁側に腰かける。
庭の松。それから昇りかけの太陽を眺めていると、妙な哀愁に襲われる。叫びだしたくなるような、拳で地面を叩きつけたくなるようなそんな気分になった。
まさか隣で鈴が寝ているのに、大きな音を立てるわけにもいかず、結局、僕は「あー」と小さくうわごとのように吐き出しただけだ。
「オハヨウゴザイマス。一月様」
いつの間にやって来たのか、詩音さんが僕の隣にしゃがみ込んでいた。何故か大型の犬にでも触るような感じで頭を強めに撫でられる。
「.......おはようございます。詩音さん」
「詩音ちゃんと呼んで欲しいです」
僕より5つも年上の詩音さんはそんなことを言った。
ようやく僕が追い抜いた背丈。短めの髪。
詩音さんはいつでも無表情で本当に何を考えているのかよく分からなかった。
詩音さんは、涼やかな無表情で、まだ僕の頭を撫でていた。僕は少しだけ鬱陶しくなってきて、首を傾ける。詩音さんは僕を解放してくれた。付き合いが長いだけ、こういう察しの良さは有難かった。
両親は僕が物心つく前に、いなくなってしまっていた。僕が10の頃に、親代わりをしていた人もいなくなってしまった。この屋敷には僕と鈴しかいなくなった。
教育係兼相談役兼許嫁である詩音さんがやってきたのは、その日からだった。
きっと何かしらの話し合いはあったんだろうけど、詳しい内容を僕は知らない。ともかく、その日から今日まで、この屋敷では三人暮らしだった。
詩音さんは、僕の隣に座った。縁側には4本の裸足の足が投げ出されていて、そのうち二本はゆっくりと前後に揺れていた。無表情で詩音さんはそういうこともする。
「一月様」
「はい」
「今日から当主ですか」
「肩書だけです」
「肩書だけですか?」
「…年に何度か面倒な儀式があって、その時に偉そうな顔をするだけです」
「面倒な、ですか。まぁそうですね」
呟くように詩音さんは言った。ため息みたいで、夏真っ盛りの空にいつまでも残る響きだった。
「今更、口うるさく言われるまでもないかもしれませんが」
「はい」
「面倒な、時はもちろんですが、平時より一月様は今日から当主であることをお忘れなきように、さもないと」
「さもないと?」
「詩音ちゃんは一月様にお小言を差し上げなければなりません」
僕は顔を詩音さんの方に向けた。詩音さんも、やはり読めない無表情で僕を見ていた。
「詩音さん」
「詩音ちゃんです」
「…急にどうしたんですか?」
詩音さんは一度瞬きをした。取り立てて意味のない、ごく自然な瞬きだった。
「いえ、次の面倒なのに向けて、出来れば馴らしておきたいなと」
「次の? 冬至の儀ですか?」
「もう少し早い方がよろしいかと」
「えっと」
何か他にあっただろうかと、考えて数秒。詩音さんは僕に答えを出した。
「結納の儀です」
「…ああ」
僕は詩音さんから顔を背けて、ぼんやりと庭を眺めた。そういえば、この人はそういう理由でここに住んでいるのだと、今更ながらに思った。
「私も役目を果たさないといけませんから」
「役目ですか」
「はい、当主になられた一月様の伴侶となり、その子を成す。私に与えられているのは、そういう役目です」
「役目を果たさなければ?」
「さぁ、私もきっと誰かからお小言を賜るのでしょう。もっとも私の場合は、たぶんお小言では済みませんが」
まぁ、少なくともここには居ることが出来なくなって、それからは碌な目には合わないんだろうなと僕は思う。
深くため息を吐く。けれど、本当にため息を吐きたいのは詩音さんのほうに違いないのだ。
「一月様、これは確認なのですが」
「なんですか?」
「確かに、いまさら一月様と、伴侶どうこうといった関係になるのは、違和感がありますが」
「はい」
「べつに嫌ではないですよね?」
僕は肩を竦めた。
「嫌じゃないですよ」
「憂鬱そうなお顔ですが」
「そういう詩音さんは、いつも通りの無表情ですね」
詩音さんはぴくりと眉を動かした。それから口を閉じたまま、にこりと口角を上げて見せた。口元だけが笑っていた。
「私は表情を変えるのが不得手なだけです」
「はい、分かってますよ。僕だって本当に嫌じゃないです。ただ、なんというか昨夜から無性に憂鬱な気分で、そういう時ってありませんか?」
詩音さんは、とっくに笑顔をつくるのを止めていた。ぺしり、と軽く頭を叩かれたと思ったら、また乱暴に撫でられていた。
「しっかりしてください。当主なんですから」
「…そうですね」
「それと、今日から私のことは、やはり詩音ちゃんとお呼びください」
「はい?」
「そういう雰囲気をつくりましょう。恋仲ですから」
「拘りますね」
僕は苦笑いする。そういうことじゃないと思うし、どう呼んでみたって詩音さんは詩音さんに変わりないと思った。
「どうぞ」
「詩音さん」
ぺしり、また頭を叩かれる。やはり詩音さんは、無表情で何を考えているのか分からなかった。
「朝ごはんにしましょうか」
「今日は要らないです」
「はい?なぜ?」
「鈴が起きそうにない」
僕は斜め後ろ。寝息をたてる鈴の布団に目をやった。ここから食卓までの距離は僕たちの致死量を優に超えていて、でも今日の僕は鈴の睡眠を妨げる気分にはならなかった。
詩音さんは、ため息を吐いた。
「今日は随分と甘いですね」
「そうですか?」
「はい、いつもなら無理にでも叩き起こすところです」
「まぁ、こういう日もあります」
詩音さんも鈴の方を見た。それから仕方ないなという風に肩を竦めた。
「でしたら、ここに何か持ってまいります」
そう言って詩音さんは背を向けた。僕はまた庭を眺めた。不思議ともう叫びたいとは、思っていなかった。けれどもやはり憂鬱なのには変わりはなかった。