2.夏至の日
鈴は、付喪神だ。
物ではなく人間に憑いた神を付喪神と呼称するのかどうか、はたして鈴が本当に神なのかどうかはともかく、僕たち氏神家の血を引く人間は、自分たちに憑いた何かのことをそう呼称している。
氏神一族に生まれた時から、憑く何か。
その何かは宿主である人間が常世を去ると同時に、消えてなくなるのだ。
まるで付喪神みたいだと誰かが言ったんだろう。
どうせ思い付きだ。
言葉なんてものは、得てして不完全だ。付喪神という言葉が現象を綺麗に形容出来ているとは僕は思わない。
とにかく、僕には生まれた時から鈴が憑いていた。
氏神家に憑いた付喪神たち。
力を持った付喪神ほど、人型に近づいた。
鈴は獣耳と尻尾以外は完全に人間の姿をしていた。
そのくせ人間扱いは誰にもされなかった。
神様のようにも扱われるか、化け物扱いされるか。
姿形が人間に近づくほど人間から離れていくなんて、皮肉なものだと僕は思っていた。
「そろそろお開きにしようか」
すだれの反対側から、綺麗な声がした。
鈴が眠ってしまってから、一時間ほど経った頃だった。白蓮さんが、すだれを上げて切れ長な目で僕を見ていた。
それから白蓮さんは、僕の膝で、口を開けて、涎を垂らしながら、完全に眠ってしまった鈴をみて、くすりと笑った。
「鈴ちゃんも、お疲れみたいだし」
「はい、ええと。こいつはすぐ起こします」
「いやいや、いいよ。この儀は私が締めるから。休ませてあげなよ」
白蓮さんは細長い腕をはらはらと振った。白い着物装束があでやかに揺れる。細い体躯、細い髪、何もかも細くて長いこの人は、先代当主、つまりは僕の前任。
氏神白蓮。女性。年は僕の10つ上。26歳。
いつも上品に笑っている人だった。
鈴を揺り起こしかけた僕の右手は行き場を失って、寝息に合わせて、ぴくぴくと引くつく、鈴の獣耳を意味もなくなぞった。
鈴は一度薄く目を開けた後、煩わしそうにこちらを見やると、くぐもったうめき声をあげて、また目を閉じた。
「はん、呑気なもんだな」
白蓮さんの付喪神、夕が言う。
鈴と同様に獣耳と尻尾を生やした人型の付喪神。それから、深い毛に覆われた両の手足。少年の姿をして、白蓮さんと同様に白い着物をまとった彼は、苛立った視線で鈴を見ていた。
白蓮さんの傍にいつもいて、見境なく威嚇するその姿は神というよりは、彼女の飼い犬のようだった。
夕が鈴に喧嘩腰なのはいつもの事なので、これぐらいなら僕も白蓮さんも反応しない。
何を言っても聞きはしないし、無視するのが一番だとお互いに気づいている。
「やっぱり鈴、起きそうにないです。このまま頼めますか?」
「承ったよ」
白蓮さんはにこりと笑う。
それから白蓮さんはすだれを下げた。すだれを挟んで、白蓮さんと夕の影だけが僕には見えた。
「しかしまぁ、問題なく終わったね。先代の私としても、一先ず安心だ」
「ええ、はい」
「もっと嬉しそうにしなよ」
「いえ、白蓮さんが当主を続けてくれれば良かったのにと、僕はどうしても考えてしまって」
「その通りだぜ」とは彼女の付喪神。
白蓮さんはため息を吐く。
ゆっくりと、夕の頭を撫でた。
本当に犬みたいだなと僕は思う。
「そうは言っても、夕が鈴ちゃんより弱っちいからね」
彼女の付喪、夕は舌打ちをする。
ちくりと首筋を刺されるような感覚がした。まぎれもなく夕の憎悪の対象は僕だった。僕の膝で眠っている鈴が、護ってくれている。多分そうじゃなきゃ、もう首が飛んでいた。
「けどよ。鈴が寝てる今なら、あの馬鹿殺れるぜ?白蓮。そうすりゃ俺は最強だ」
「夕」
「このぽんこつより、お前の方が当主であるべきだと俺は思うよ」
「そろそろ黙らないと怒るよ」
白蓮さんは呆れたように言う。
投げやりで怒っているようには思えない言い方だったけど、夕はそれきりで黙った。
しょげたように下を向いた。首筋が、さらにちくちくする。
白蓮さんはまた夕を撫でた。それで首筋の違和感は少し収まった。
「さてと」
誰も喋らなくなってしまってから、白蓮さんは言った。
「この会食は私が締めて終わりだけれども、まさか君はこれでお役御免だなんて思っていないよね。氏神家当主の一月くん」
「え?」
「え、じゃない」
すだれの反対側、彼女は首を傾ける。
僕は、頬を掻く。一体何をすべきかなんて僕には想像もついていないし、もう僕は家に帰って眠ってしまいたかった。
やっぱり、白蓮さんが当主を続けてくれれば良かったのに。
いくら、夕より鈴の方が強いからって、僕は間違っても白蓮さんに逆らいはしないのに。
何度言っても、どう主張しても、だれも聞き入れてくれなかったことを、僕は思いだしていた。
♢
「ふぁれ?終わったの?」
すやすやと眠る、鈴の口を塞いで、鼻をつまんで三秒。鈴は目を開けた。
気道は完全に塞がれているというのに、呼吸に困った様子は全くない。発声にも苦労していないようだ。
白蓮さんに貰った助言。当主として行うべきこと。
理解も納得も出来ても気乗りはしない。
僕はこうやって無意味に鈴にちょっかいを出して、動き出すのを少しでも先送りにしているのだ。
鈴はそんな僕を不思議そうに見つめている。
というか。
「鈴、お前どこで呼吸してるんだ?」
「え?さぁ?普通に口と鼻じゃない?」
「……」
「まぁ、その気になれば爪からだって出来るし、そもそも空気なんて吸わなくてもいいんだけど」
「ふぅん」
口を塞がれたまま、当たり前のように鈴は喋っていた。
別段、どうでもよかった。
今更、驚きはしない。鈴がどんな超常現象を起こそうが、僕はもう多分驚かないし、感動もしない。
呼吸しなくていい生物なんているんだな。
ああ、こいつ一応、神様なんだっけ。
生物じゃないんだよな。
ともあれ、漸く僕にも白蓮さんのお膳立てに従う気力が湧いてきていた。
僕は、鈴の鼻と口から手を離した。
「まだ、やることが残っているみたいだ」
「ふーん」
鈴は間延びた声を出して欠伸をした。ずっと僕の膝に居座らせていた頭を、ゆっくりと持ち上げる。
「何をするの?」
「さっきの二人、いたろ」
「うん」
鈴はこくりと生返事をした。忘れてるな。と僕は思う。
「僕が憑り殺されるとか言ってた二人」
「ああ、うん。覚えてる。思い出した」
「白蓮さんが、対処をしておいた方がいいって」
「殺すの?」
「違う、寧ろ媚を売るんだ」
ため息交じりに僕がそう答えた瞬間。
鈴の瞳孔が僅かに開いた。それから僕はまるで生暖かい空気に全身を包まれたような、得体の知れない何かが身体中に纏わりついているみたいな感覚に襲われた。
ああ、覗かれているなと思った。
あまり良い気分はしないけれど、これで一応、説明する手間は省けたわけだった。
「嫌」
そう説明する手間だけは。
鈴は尻尾と耳を逆立てて全身で拒否の意を示している。どうやって説得しようかと僕は一瞬考えたけれど、諦めることにした。
「別に鈴は視ているだけで構わない」
それだけ言って、僕は立ち上がった。
鈴は獣というか、むしろ駄々っ子のように、むぅーと唸り声を上げていたけれど、僕が歩き始めてしまうと、慌てたように僕の後についてきた。
付喪神だから。
付喪神だから、鈴は宿主である僕の傍を離れることはできない。具体的には15尺程度。それを利用して、僕は無理矢理に主導権を握ったわけだった。
あんまり褒められた手段じゃないと思う。
それでも僕に駆け寄った鈴は、僕の左手を大切そうに握り、隣を歩いてくれている
鈴は本当に神なのだろうか。
確かに鈴は人間離れした力を持っているけれど。
こんな風に可愛らしく、感情に素直で、僕みたいなただの人間に逆らえない神なんて存在するんだろうか。
もっと別の何かのようにしか僕には思えない。
ごめんな、と呟こうとしたけれど、僕は結局何も言わなかった。
結局それは自己満足だ。悪いと思うなら、こんな真似しなければ良い。