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 いくつもの歯車と歯車とが噛み合い絡み合う低い轟音が響き、書庫の扉は重々しく口を開けました。

 部屋の中は真っ暗で、何も見えません。

 部屋の扉を開けて入って来た者のコツコツと地面を叩くヒールらしき音だけが甲高く響きます。

 ゴンと完全に扉が閉まる音がすると、同時にぱっと、掠れた橙色の蛍光灯が点きました。それによって、部屋の内部も入って来た者のシルエットも一気に映し出します。


 入って来たのは、黒装束に花の装飾が施されたレースの帽子を身にまとったご夫人。

 橙色の明かりが書庫の中から出られずに彷徨い漂った埃を反射させて、肉眼でも捉えられるほどになったソレらを、ご夫人は鼻と口元を手で覆い隠しながら書庫の中心部へと近寄っていきます。

 顔の前に掛かったレースを上げて、その深いクマとやつれたような目でご夫人は目の前のソレを睨むように見上げました。


 そこには、文字通りいくつもの本が積まれて山になっており、その頂上には十歳そこらと言った感じの風貌をした小さな女の子を形作ったドールがちょこんと座って目を閉じていました。


「……お迎えに来たわよ」


 その今までのやつれた風貌からは想像もつかなかいふわりと優し気な笑みを浮かべてそう言い、肩に掛けていたチェロ用のケースを地面に置いて開け、その中から一冊の分厚い本を取り出しました。

 チェロのケースをそのままに、ご夫人は大切そうにその本を胸に抱きながら本の山を登ってドールの前まで寄ると、本を開いてドールの膝の上に乗せました。


「さあ、動いてちょうだい」


 そのご夫人の囁きに呼応するように、ドールは瞑っていた瞼をゆっくりと開いて顔を上げると、膝に置かれたソレを手に取って、まるで本を読む人間かのようにページを捲り始めました。その優雅な仕草でページを捲る姿は、まるで育ちの良いお嬢様の様。

 見惚れる程のブロンドヘア―と深紅のドレスの姿が更にそう思わせます。


 その姿に意識が釘付けになっていた様子のご夫人は、はっと意識を戻すと、口の両端を裂いて笑みを作っては、ずいっとドールに身を覗き込むように詰めました。

「ねえ、どうかしら、素晴らしいでしょう? 読めば分かると思うけど、それはね、私の人事目録じゃなくて、ハネルっていう私の息子のものなの!」

 喜々としてドールに話しかけるご夫人でしたが、ドールは集中していますと言わんばかりにご夫人を無視しました。

 それでも特に癇に障った様子もなく、むしろエンジンが掛かったかのようにご夫人の舌は回り続けます。


「私の息子は本当に昔からずっと愛しい息子だったわ! お母さんお母さんって私の脚にいつもしがみついてきてね、もう可愛いったら無かったわ! どこに行っても私が居ないとなんにも出来なくて…………大きくなってからはお母さんを鬱陶しがるようになってしまったけれど、そういう年頃だから仕方無いわね……」

 でもね! と迫るように言葉を接ぐご夫人は瞳孔を限界まで開き、その笑みは狂気に満ちているとも見えます。

「ハネルは誰よりも優しい子なの。主人、ハネルの父親が家を出て行ってしまった時、ハネルは私の所に残ってくれた。私を一人にしておけないからって……あの時は本当に嬉しかったわ」


 もうご夫人はドールに話しかけてはいません。神に祈るように両手を組んで書庫の天井を尊いものを見るように細い目つきをさせて酔いしれるように美談を語ります。


「だからより一層、私はあの子を愛そうと全力を尽くした。あの子が食べたいものを食べさせて、あの子がやりたいことを全力でやらせる、あの子が欲しいと言ったものはいくらでも与えた、職をハネルが探していた時には、ハネルを落とした場所に行って文句を言ってやったし、ありとあらゆる場所にハネルの人事目録を見せてあの子の素晴らしさを説いてって……そうやって私は今まであの子の為に尽くしに尽くしてきた」


 感極まっているのか、ご夫人は語りながら踊るように本の山を駆け下り、地に足を付けては、ドールを見上げるようにしながら両手を大きく広げて見せました。

「その私の努力と愛情がやっと我らが主にも届いたのか、ハネルはとうとう仕事が決まったのよ!」

 きゃはは! と笑って天を仰ぐ姿は無垢な少女にも見えました。

 一方のドールは、そもそも話を聞いているのか、眉一つ動かさずに渡された人事目録のページを黙々と捲っています。

「………………」

 その一人と一体の空気の温度差を感じたのか、ご夫人はすっと、表情を無のものにすると、また睨むような目つきになりました。



「そのハネルだけどね、ついこの間死んじゃった。自分で自分の首を吊って」



 唐突にそんな事をなんの脈絡もなく切り出したのは、一向に反応を寄越さないドールに不意を突いてやろうと思ったからでしょうか。

「………………」

 ドールは人間ではありません。物がそんなことで目を見開いてあからさまに動揺するようなことはないでしょう。


「なんで死んだか教えてあげましょうか」


 ドールは相変わらずでしたが、構わずご夫人は続けます。


「クビにされたからよ! ハネルが折角苦労して手にした職を、失ってしまったの! なんで? なんでそんな扱いをハネルがされなくてはならないの? あの子はなんも悪い事なんてしないのに、あの子以上にいい子なんてこの世に一人だって存在しないというのにっ!」

 喉が潰れてしまうのではないかと心配になるほどの金切り声を上げながら、レースの帽子の上から頭を乱暴に掻きむしりました。


「なんでなんでなんでなんでなんでなのよ! 意味が分からないわ! 絶対にクビにしたやつを許さない! 絶対に乗り込んで聞き出してやる! そして裁判にかけてやるッ! 絶対許さない! 許さない許さない許さない許さない許さないッ!」

 散々喚き散らして、泣き叫んで、途端に。


 ――ピタ。


 頭を両手で抱えたまま俯いて動かなくなってしまいました。

 密閉された箱の中で彼女の声が反響し、やがて静寂が戻ります。


「…………でね、そう思ったから聞いてきたの。ハネルを無職にしやがったやつらに。『なんでうちの息子がクビにされなくてはならないんですか』って」


 その時の事でも思い出したのでしょうか、身体を小刻みに震わせながらゆっくりと顔を上げて点となった目でドールを見上げました。


「そしたら、『あなたのお子さん、過去にずっと家に引きこもって学校に行かなかったそうじゃないですか』ですって」


 その縋るような眼は、どこか目の前のドールに絡みつこうとしているような感じです。

 ドールの捲る人事目録のページはもう最後の方まで来ていました。


「なんで? …………なんでそんなことでクビにされなくてはならないの? 確かにそんな時期もあったけれど、あの子は外でいじめられていたからしょうがないじゃない……なんで誰もあの子の事を分かってあげないの? なんで過去の事で人を判断されなくてはならないの? なんであの子が死ななくてはいけないの? …………」

 声がどんどん小さなものになっていくご夫人はやがて両手で顔を覆い隠しながらその場に屈み込んで、身体までもを小さくさせました。

「私にはあの子しかいなかったのに…………なんてこの世は理不尽で残酷なのでしょう」

 ご夫人が弱々しく呟くと、パン、と。

 唐突にドールが今まで開いていた本を音を立てて閉じました。


『母さん』


「――ッ!」


 本の山の上から突然ご夫人のものではない声が飛んで来て、驚いたご夫人は驚いて顔を上げます。

 今まで座っていたドールはいつの間にか頂上に二本足で立っていて、彼女を見下ろしていました。

『母さん、元気出してくれ。俺は居なくなっちゃいねえよ』

 その姿、声はどこからどう見ても女の子のものにしか見えませんが、


「ハネル、ハネルなの!?」


「もちろん」そう微笑み言いながら、ドールは本の山の上を歩き、ご夫人に近寄っていきます。

 その山を下ってくる荒々しい足取りと、手に持った人事目録を肩に乗せる仕草は男性の大柄な態度そのもので、それがもしかしたらかつてのハネルを彷彿とさせるのかもしれません。


『母さん、自分にはハネルしかいない、なんて言わないでくれよ。母さんには幸せになってほしいんだ。たとえ俺が居なくなって母さんが一人になってしまっても』


 ご夫人の肩にドールが手を置くと、塞いでいたものが一気に外れたみたいに、ご夫人の目から大粒の涙の雨と嗚咽があふれ出てきました。

「ハネルを忘れるなんて無理に決まっているでしょう! だって、私の幸せはあなただったんだから……あなたが居なくなったら私にはもう何も……」

 ドールは柔らかく微笑んで、振り解くようにゆっくりとかぶりを振ります。


『俺は居なくなっちゃいねえよ』


「え? …………」

『俺は母さんをいつも近くで見守ってる。母さんが俺を忘れない限りずっとそばに居るよ』

「忘れない! 忘れるわけないじゃない! だってあなたは、私の大事な、たった一人の息子だもの……」

『そうか、それなら良かったよ』


 微笑んで、しかし、ドールはその表情を機械的に動かし、困った顔をさせました。


『でも、ごめん。こんな大層な事言ってるけど、そもそも俺が死ななきゃ母さんをこんなに困らせることも無かった。あの時は精神が追い詰められて結局逃げちまったんだ』

「なんで相談してくれなかったの?」


 その問いかけに、ドールは一瞬言葉を詰まらせました。


『…………母さんに、心配、掛けたくなかったんだよ』

「………………」

『本当にごめんなさい。勝手に一人で死んでごめんなさい。母さんを一人寂しい思いをさせて本当にごめんなさい』

 ドール、ハネルの言葉にご夫人は嗚咽の声をより一層大きくさせて、顔を俯かせてしまいました。そして何度も「いいの、いいの……」と呟きます。


「いいの、いいのよハネル。謝らないで、お願いだから……。ハネルは悪くないわ決して。だって――――」


 だって、という言葉のトーンが下がった気がしました。それにドールも気づいたのか、眉をひそめさせて、ご夫人の表情を下から伺おうとした時でした。


 ドールの小さな腹にご夫人のヒールを履いた足が押し付けられているとドールが目視したのと同時に、押し出すようにご夫人はドールのその小さな体躯を蹴り飛ばしました。

 勢いで後ろに飛んだドールの身体は、積まれた本の山の傾斜に叩きつけられます。

『母…………さん?』

 困惑した様子で顔を上げると、正面には、なぜか銃身の長い猟銃の銃口をドールの顔に押し付け構えたご夫人がありました。

 ご夫人の傍らにはチェロ用のケースが口を開けて横たわっており、中は空洞になっています。


「だって、ハネルが死んだのも、中々職が決まらなかったのも、全部全部元はと言えば貴女のせいだもの!」

『何を……急にどうしたんだよ、母さん――――』


「その下手くそな物まねをやめて!」


 両目の間に皺を寄せて睨む夫人は、声を荒げながら銃口でドールの額を突きます。

「知ってるわ! 人事目録なんてものが出来たのは、貴女みたいな気色悪い人形が作られたからだって! ハネルは人事目録によって殺された! それはつまり、貴女に殺されたってこと!」

『…………違う、違うんだ。俺が死んだ本当の理由はさ――――』


「やめてって言ってるでしょ!」


 ご夫人は構えた銃身の脇でドールの頬を叩いて黙らせると、再びドールの顔に銃口を向けました。

「これはね、復讐なの。いくら貴女がハネルの物まねをして命乞いをしたって無駄。あなたを壊せば、ハネルも浮かばれるわ」

『……そう…………』

 諦めたように言って、目を細めさせるドールに、ご夫人は興奮で息を荒げながら震える指をそっと引き金に掛け、力を加えていきます。


 瞬間。


 銃の真横からドールの手が伸び、銃身を鷲掴むなり、その弾道を逸らすために自分の真横に力ずくでずらしました。

 いきなりの展開についていけない様子のご夫人は反射的に引き金を引いてしまいますが、乾いた発砲音と共に発射された弾丸は、ドールのすぐ脇の本に命中し、穴を開けていました。


『母さん、俺が自殺した本当の理由、教えてやるよ』

 銃を発砲した衝撃か、身体を小刻みに震わせているご夫人を置いて、ドールは淡々と続けます。


『母さんが要らないことをべらべらと話したからだよ』


「…………え?」

『俺が隠していたかった事を全部他人に話したからだ。俺が引きこもって学校に行かなかったこともそう。だって、そんな事俺は人事目録に書いてなんかいなかったんだから!』


「………………」


『母さんが余計な事言いふらしたせいで、俺は陰で悪口を言われるようになって、肩身が狭くなって、生きていけなくなるくらい辛くなったんだ』

 そんな、と力なく呟いたご夫人は身体からも力が抜けたようで、ドールが銃身を引っ張ると、するりとドールの手に猟銃が収まりました。


『俺は、目録に殺されたんじゃない。母さんに殺されたんだ』


 ドールが銃を持ち変えて銃口をご夫人に向けると、ひっと小さな悲鳴を漏らして尻もちを着きました。

 その悲鳴は銃口を向けられていることに対してなのか、ドールの吐く言葉にか。


「わた、私はハネル、あなたの為に、あなたを思ってやったことなのよ! なんで分かってくれないの!」

『……分かってる、母さんに悪気が無いってことは。だから俺はあの時母さんを責めることは出来なかった…………』

 でも、とドールは続けます。


『母さんは、“また”俺を殺そうとしたよね』


「ち、ちがっ! 私が殺そうとしたのは、あなた……ハネル、じゃなくて、気色の悪いアンティークドールを殺そうとしたのよ!」

 だから……と、ご夫人は涙で顔面をぐしゃぐしゃにしながら地面を擦るように後退し距離を離そうとします。


『違くないだろ。だって、こうして会話して、必死に弁明して……説得力ないよ、母さん』

「ごめ…………ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、だからお願い――――」


『母さん、あんたは結局、自分しか見てないんだな』


 ドールが引き金を絞りました。乾いた発砲音が響きます。

 額に銃弾を受けたご夫人は、勢い付けて背後に倒れこみ、動かなくなりました。

 それを見下ろしながら、ドールは自分の頭に猟銃の銃口をあてがい、


『俺もすぐにそっちに行くよ。一人は寂しいだろうからさ』


 言って、くぐもった破裂音が鳴りました。

 横に倒れたドールは、目を見開きながらそれ以降動くことはありませんでした。

 ご夫人の後頭部からは赤い水溜まりが出来上がっていて、その上には、ご夫人の被っていたレースの帽子の装飾用の花が外れて踊るように浮かび漂うのでした。


 暗転。


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