三話
滅亡の道を進む只人種を救う。
もし、詠士にそのような力量があれば目の前の少女の夢物語に頷いたかもしれない。
だが、生まれてから死んでまで何も為せなかった身だ。
そのような大事業には、もっと相応しい人がいるものだと詠士は信じていた。
そう自分に信じ込まなければならぬ人生だったのだ。
だからこそ、あくまでも善意での返答であった。
「っ、ひゅぅ……」
「うわっ――」
返事をした途端、突然カレンが白目になりながら前のめりになって倒れた。
そんなカレンを思わず抱いて受け止めた詠士だったが、何も出来ず慌てふためくだけ。
「あの~、だっ――」
『大丈夫ですか』と詠士は言いかけた。
だが、言い切る前にいきなり脇腹に強烈な熱を感じると同時に詠士が見ていた風景が大きく揺れた。
訳が分からないまま地面を三転。
仰向けになりながら青空を見ている自分に気づき、そこでようやく詠士は蹴られたのだと理解できた。
「んぐぅぅ、げほ、げほ……」
脇腹の方からじわじわと迫って来る鈍痛を抑え、それでも抑えきれない吐き気を催しながら詠士は首をさっきまで自分がいた方へと向ける。
「……」
そこには意識の無いカレンを抱え、機械ですら出せないほど冷たい視線を地面に這い蹲る詠士に向けているムメの姿があった。
その目を見た瞬間、詠士は体がまるで石にでもなったかのように錯覚した。
純粋な恐怖。
今まで感じてきた、遠くからじわりと来るような漠然とした恐怖ではない。
薄皮一枚で隔てられているような、すぐ近くにある“死”に対する恐怖を詠士は本能と理性ではっきり理解してしまった。
「……ぅ!!」
心臓を鷲づかみされるような恐怖に喉が痙攣を起こし、詠士は声を出すどころか呼吸すらままならなくなっていた。
「……フン」
詠士の醜態を一瞥したムメは、そのまま詠士を置いてどこかへ走り去っていった。
去ったムメに対し、詠士にまず沸きあがった感情は安堵。
訳も分からぬまま迫っていた死にから逃れた故の安堵。
ムメに見せた醜態を恥だと思う心すら芽生えないほど、詠士はムメに恐怖していたのだった。
いつの間にか不可視の拘束が解かれていた詠士は、急いでムメが去っていった方向に向かって立ち上がる。
呆然とムメが走り去るのを見ていたが、こんな所に置いて行かれても困る。
非常に困るのだ。
そもそもここは何処なのかさえ詠士にはさっぱり分からない。
世界の名前は教えてもらったが、そんなことよりも近くの人がいるような場所について教えてもらえば良かったと詠士は今更ながら後悔した。
もしかしたらカレンの誘いを断った詠士を置き去りにして、野垂れ死にでもさせる算段だったのかもしれない。
詠士は空を見上げ、眩い光を手で遮る。
もし詠士の死を望んでいないのであれば、こんなに強い日差しの中であのような話を進めるものだろうか。
今も詠士に襲いかかる光と熱。
こんな強烈な日差しの下では長い事耐えることができないぐらい、一度も外に出たことのない詠士でも分かった。
もしカレンが本当に女神なんて出鱈目な存在だと仮定するのであれば、詠士は考え始める。
ここに詠士を呼んだ理由が、本当にカレンの話した通りならば呼び寄せる人選を大きく間違えている。
目的が戦争で己の陣営を率いる人物の召喚ならば、貧弱な詠士よりも、争いごとに長けた人物が呼び寄せられるはずではないだろうか。
……そう、詠士が呼ばれる理由がどこにも見つからないのだ。
では、考えうる限りの仮定を考えてみるのはどうだろうか。
突拍子もない考えでも、詠士自身が体験した出来事を踏まえるならば、考える利は十分にある。
まず、あり得るのはこれが夢だという、夢も希望も面白味もない現実である。
夢ならば、そのうち醒めるかもしれない。
(だけど、夢にしては……ね)
詠士は再び空を見上げる。
この熱気を夢だと思うには、今まで経験したことのないほど現実味が在りすぎた。
夢だとしても行動しない訳にはいかないだろう。
次の仮定として、カレンが他の世界から人を呼び寄せるのに限界があるという仮定である。
力を失ったとか言っていたが、あれが小芝居ではないという保障はない。
もしも無限に、それかある程度の回数出来るならば、気に入る者が呼べるまで何度も試してみるものではないだろうか。
つまり、詠士を呼び寄せた事は彼女たちにすれば失敗の一つだと考えられるはず。
そこで問題は詠士の処遇である。
例えば、カレンが誰かを呼び寄せる事が出来る人数は一度に一人だけならば。
そして呼び出した者が、この世界にいる限り他の者は呼び出せないのであれば。
それなら、詠士をこんな所に置き去りにしていったのも納得出来てしまう。
詠士がこんな所で長生き出来そうにないのは、傍から見ても分かることではないだろうか。
詠士自身、生きていけるとは思えない。
次に期待出来るならば、わざわざ呼び出した詠士を置き去りにするのは……理に適っているのかもしれない
自分を捨てていった理由を、詠士は一人模索し結論を出してみた。
しかし、詠士自身それが被害妄想でしかないことを分かっていた。
殺すのであれば直接した方が早い。特にムメであれば容易いことだろう。
ならば、何故蹴りつけただけで見逃してくれたのか。
自身の仮説が間違っているからではないのか。
今の状況があまりにも非現実かつ情報があまりにも足りなすぎる。
そのため悲観的になってしまったのかもしれない。
霊なんて非科学的なものになった詠士が言うものではないか、と思わず詠士は自虐を込めて笑ってしまった。
だが、本当に自分の考えが間違っているのだろうか?
カレンの願いを断ったからといって、あんなに簡単に気絶なんてするものだろうか。
詠士が動揺して、動けなくなるのを見越した芝居だったと考えられないだろうか。
それとも――
再び、空を見上げてみる。
白い天井ではない、どこまでも広がり続けている青空だ。
そして、容赦ないほどの陽光を浴びせてくる太陽。
(もしかして、熱中症で倒れた?)
いや、それこそありえない。
詠士でさえ何事もなく、立っていられているのだ。
そう、立って――いや、そもそも何で立っていられるのか。
今の詠士の体は、以前のような脆弱なものではないのだろう。
この体がどれほどの物か分からない以上、今の詠士とカレンを比較する事は出来なかった。
詠士は今更ながらにして重要なことに気づいた。
今の詠士は、自分の足で歩くことが出来る。
今までまともに歩くことなんて一度も出来なかった詠士が、だ。
もしかしたらあと数分で崩れ落ちる体なのかもしれないが、それでも今は歩く事が出来る。
「……歩く、か」
言葉で自分を奮い立たせる詠士。
目的も当ても、目指す場所もない。
しかし、せっかくの健康な体である。
一度は簡単に散っていった命だ。
それなら気の済むまで歩こう、と詠士は自分に誓った。
周りは誰もいない広大な大地。
この景色が少しでも変わる場所まで歩けたら、それは今まで経験したことが無いほど素晴らしいことではないだろうか。
歩き出そうとした詠士に、早速新たな選択が迫ってきた。
どの方向に向かって歩き出すか、である。
詠士から向かって右の方向は、先程ムメが去っていった方向である。
ムメたちはこの世界の住人のようであるし、当てもなく去っていったわけではないはずだと詠士は考えていた。
こっちに向かって歩けば、人里を見つける可能性は高いだろう。
しかし、それは再びムメたちに出会う可能性も高くなることを意味する。
ムメの去り際の目付きを思い出した詠士は頭を横に振ると、そんな選択を選ぼうとする自分をすぐに否定した。
歩き続けることだけが今の目標なのだ。
最期は何も考えずにクタクタになるまで歩いて死ぬのも悪く無いだろうと思うほど、詠士は歩く事にワクワクしていたのだ。
白の世界で感じていたあの空虚感を、今は全く感じていない。
再びムメ達に出会えば、そんな気分は台無しになるのは明白である。
それならば、選ぶ道は――。
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「気がついたか」
詠士がかすかに目を開くと、電源が入っていないテレビ画面のように空が真っ黒に染まっていた。
いつの間にか仰向けになって倒れていたろうだ。
しかし、何故倒れているのか、いつ倒れたのか思い出せない。
しかも体を動かそうにも体と地面が一体化したかのように重く動かすことが出来ない。
「起きたのなら、さっさと起き上がって礼の一つでも言いな」
詠士は下がり落ちてくる瞼を必死に持ち上げ、声が聞こえてきた方へと首を傾ける。
そこには、暗闇の中で人らしき影がぼんやりと佇んでいた。
「……ぁ……」
詠士が声を出そうとしたが、結局何も出てこなかった。
黒が一段と濃くなる。
「ちっ、また寝ちまいやがったか」
誰かの不貞腐れる声だけが、詠士の耳に届いた。
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目を開けた時、辺り一面は薄暗さに覆われていた。
地平線から漏れる微かな陽光だけが、唯一の光源である。
地球ならば月の光も見えるはずだが、新月なのかその姿は見えない。
そもそもこの世界に月があるかどうかさえ怪しいものだ、と詠士は苦笑した。
先程までの気怠るい感じは消えてなくなっており、体がとても軽く感じられる。
先程、と思わず出てきた記憶に詠士は首を捻った。
しかし、今に至るまでの記憶がない。
どうしてここで寝ていたのか。
目覚めてから自分を凝視してくる白髪の老爺は誰なのか。
詠士には全く分からなかった。
人がいる。
それは、一人荒野に放置された身としてはとてもありがたいことなのだろう。
しかし、先ほどからなけなしの勇気をフル動員して話しかけても詠士を見るばかりで何も返事がない。
詠士が動くと、それに合わせて老爺も顔を動かすので死んではいないらしい。
仕方ないので詠士は周りの景色を見渡したり、老爺を見つめ返したりして時間を潰すことにした。
老爺の背丈は、詠士の腰程度の高さしかない。
これが小人種なのだろうと詠士は軽く当たりをつけていた。
詠士がそれとなく聞いてみても、返事がないため確かめる術はなかったが。
しかし、背丈よりも目を引くものを老爺は持っていた。
筋肉だ。
背は低くとも、その体は筋骨隆々である。
はち切れんばかりの筋肉には、まるで化粧を施しましたとばかりに傷だらけである。
見た目だけで判断するのなら、非常に怖い老爺だ。
しかし、詠士を見ているその目は穏やかなもので、優しさを感じさせてくれる。
会話には応じてくれないが、詠士の居心地は決して悪くなかった。
薄暗かった空が明るくなり始めた頃、ようやく目的の人物が目を覚ました。
その人が起きるのを待つためだけの時間潰しも、そろそろ限界が来ようとしていた時である。
「おはようございます。あの――」
「んー、ふぅ。やっと目覚めたのか、坊主」
女は一度背伸びすると、起き抜けに長い髪が乱れるのも構わず頭を掻き毟りながら詠士に言った。
赤い髪の女である。
こちらの女にも浅黒い肌の中に傷が見られるのは、戦いを生業とするような肉体を酷使する仕事でもしているからかもしれない。
女の横に置いてある斧の存在が、その推測を正しいもののように思わせる。
「はい。お陰様……なのかは申し訳ないのですが覚えていなくて。ですが、それでもお礼を言わせてください。ありがとうございました」
「はーん。ちゃんと礼は言えんじゃねえか。まぁいい、にしても何であんな所で寝てたんだよ、坊主。あっ、師匠。食事の用意はアタシがやりますから」
詠士が女と会話をしている間に、老爺が巨大な皮袋を漁っていた。
それを女が制すと、詠士との会話を中断してすぐさま老爺の代わりに働き出す。
巨大な皮袋の中から、詠士にはそれが何なのかさえ分からない物が次々と出てくる。
「かぁ~、これも腐ってやがる。師匠、そろそろ街に戻らんと食いもんも底を突きかけてますし、何も食えなくなってしまいますよ」
「……(コクリ)」
女の言葉に無言で頷く老爺の隣で、詠士は所在無さげに立っていた。
詠士は女の手伝いをしようにも勝手が分からず、邪魔にならないようにだけ気をつけることにした結果である。
老爺はというと、女が放り出した砥石を拾って傍らに置いてある大きな斧の手入れをし始めていた。
先程の試みでこの老爺との対話は望めないことは分かっていた詠士は、持て余した暇を潰そうとその様子を観察する事に決めた。
それにしても大きな斧である。
老爺の背丈と同じか、それ以上の大きさだ。
その中央には見慣れない生き物の刻印が刻まれている。
皮袋も大きな物であったこの世界では特に大きいものでも好まれるのか、と詠士は思わずにはいられなかった。
老爺が黙々と斧の手入れを行う姿を見ていた詠士は、皮袋から何か取り出してこちらへ向かう女の姿に気づいた。
「食えそうなモンがコレだけしかないっす、師匠」
女があれだけ漁って、出てきた物は数切れの干し肉だけだった。
老爺は女が差し出した干し肉を貰うと、口に咥えてふやかし始める。
「ほら、坊主も」
女はぶっきらぼうにそう言うと、詠士にも一枚投げてくれた。
礼を言い、詠士も老爺のように干し肉を咥えてみる。
(辛っ!!)
味はただただ塩辛い。
味わった事がないほどの塩辛さに、詠士は顔を顰めた。
当然ながら今まで干し肉を食べる機会に恵まれなかったため、この味がどれほどのものか分からない。
不味くはないが、別段美味しくもない。
特長といえば、しょっぱい事と固い事だけであろうか。
詠士が今まで食べてきた物は出来るだけ柔らかくした物ばかりで、このような固いものを食べた事は無かった。
そういった意味ではいい経験ではある、と詠士は額に皺を寄せながら無理矢理でも思うことにした。
「んっ、でだ、坊主。アタシの質問に答えてもらおうか。もう一度聞くぞ、あんなところで何をしてたんだ」
「えーと、それがですね。全く覚えていないんです。歩いていたはずなんですが、気づいたらここに」
「どういうことだ? そもそも何処を目指してたんだ、坊主は」
「何処、と言われましても。実は僕、この辺りの事を全く知らない者でして。当てもなく彷徨っていました」
女は怪訝そうな顔をして、詠士を見てくる。
だが、それも当然だ。
行き倒れていた人物を怪しむことは、別に悪い事でもおかしいことでもない。
少なくとも、その命を助けただけでも十分な善行である。
女がこの後、詠士に対してどんな態度で接してこようとも感謝の念は忘れないようにしようと詠士は既に決めていた。
端から見て、ちょっとした自殺を試みた身としては奇妙な考えかもしれないが。
「その物言いといい、坊主は貴族の坊ちゃんなのか?」
「いえ、むしろ身寄りのない独り者ですね。身寄りだけではなく、他に何も持っていませんけど」
自嘲気味に言ってしまった詠士ではあるが、事実そうである。
持っているとすれば、己の命だけである。
しかし、それを聞いた女は怒気を孕んだ言葉で詠士に問うた。
「はあ? おいおい、あたしらが助けた『命』もない物扱いかい。それだけあれば十分だろうに」
「そう……ですよね。ええ、あなたの言う通りです。すいません」
「別に謝らなくてもいいだろうに。ん、じゃあ何か礼として貰えるもんは無い訳だね」
「はい、申し訳ありませんが」
「じゃあ、坊主は今日から荷物持ち決定だな」
「……は?」
いきなり話が飛び、詠士は混乱した。
しかし、女は呆気に取られている詠士を前にして当然といった様子で続けた。
「街の外で助けられて、金貨一枚払えないっていうなら働いて返すしかないだろ。他なら話は違うかもしれないが、ここは何にも属さない自由都市の領域だ。まあ諦めな」
「え!? 自由都市? 何ですか、それ?」
カレンたちの説明だと、種族ごとはっきりとした境界線があるようであった。
しかし女が言うにはその『自由都市』とやらは、何にも属さない場所のようである。
「常識ってものを知らないのか、坊主は」
「え、ええ。あの、出来れば色々教えて頂きたいのですが」
「別にいいぜ。アタシも坊主に聞きたいことがあるし。だが、移動の時間だ。話は歩きながらだな」
女が地平線へと視線を向けた。
もう太陽ははっきりと顔を見せている。
動き出す頃合としては悪くない。
詠士は頷いた。
しかし、つい頷いてしまった詠士は荷物持ちにさっきになったばかりであった。
あの、巨大な皮袋を担がなければならないのだ。
詠士たちが話していた間、女によって散らかされていた荷物は老爺によっていつの間にか片付けられていた。
他にも詠士たちが使っていた毛布も、既に皮袋に括りつけられている。
いつでも出発出来るように、老爺が既に準備し終えていたのだ。
他に行く当てもなく、何か為すべきことが有る訳でもない。
覚悟を決めた詠士は、立ち上がると皮袋の口を締めている一本の太い縄を両手で持ち、一本背負いでもするように一気に背負ってみた。
「重いぃ」
想像を超えた皮袋の重量感に、つい詠士の口から本音が漏れ出す。
しかし持てないというわけでは無い。
詠士の足が震え、千鳥足で歩いてしまう程度である。
「これでアタシも楽になるな」
女はだらしなくにやつきながら、震えながらも荷物を背負う詠士を見ている。
老爺はというとあの大きな斧を難なく担ぐと、何処か遠い場所を見つめていた。
おそらく老爺の視線の先が、今日向かう方向なのだろう。
何も言わずに老爺が歩き始め、女もその後ろについていく。
置いていかれるのは困る。
何が何だかよく分からない状況に置かれていることだけは詠士も分かった。
そして生きるにはあの二人について行くことが唯一の道である事も、何となく理解していた。
人に会い、助けられた事で自殺の真似事をしようとする自暴自棄な考えは無くなっていた。
とりあえず、あの人達について行ってみる。
そう決めた詠士はおぼつかない足取りではあるものの、二人の背中目指して歩き始めた。
♢♢♢♢♢
歩き出した詠士は、まず自分の体の頑丈さに驚いていた。
自らの足で大地に立っていたこともだが、何より鍛えた事のない体で重荷を背負いながら歩き続けられているのだ。
(やっぱり、あの時にこの体について聞けなかったのは痛かったなぁ。これで、いきなり体が崩れ初めでもしたら発狂するたろうなぁ)
一度与えられた希望を奪われる恐怖に、詠士は身震いする。
やはりカレンの問いに答えるより前に、この体について聞くべきだったと詠士は今更ながら後悔せざるを得なかった。
一行が歩き出すと、先ほどの約束を守るように女が口を開く。
「さて、坊主。まずは坊主の名前が聞きてえ」
「はい。僕の名前は仙石 詠士です。エイジとでも呼んでください」
「苗字持ちなのか? ……ま、別にいいか。種族は只人種だよな?」
「えっと、おそらくは……」
詠士が口ごもりながら言う。
自分の体がどうなっているのか分からない詠士には、自分の種族すら分からないのも無理はない。
しかし、女は詠士のそんな返事を不思議には思わなかったようだ。
特に気にする様子は見せず、そのまま自分たちの紹介をし始めた。
「そうかい。じゃあ、次はアタシたちの名前を教えてやろう。アタシの名前は、アリサだ。んで、師匠の名前は……あー、何でしたっけ。師匠?」
「……ガーラドダイヤグラメッシュ=ウン=ザイーツェデルファージ」
「あー、師匠は師匠だ。坊主もそう呼べ、いいな」
「分かりました。アリサさんは只人種で、師匠は小人種ですよね?」
「……まあいい。師匠は小人種だが、アタシは本当にそうなのか分からん。アタシは小人種の領土で拾われた捨て子だったからね」
アリサは朗らかに笑いながら言った。
拾ってくれたのが師匠なのさ、と誇らしげに胸を張りながら。
「だから、師匠は親父殿みたいなもんさ。まあ、斧の扱い方とかをアタシに教えてくれたから師匠なんだがな」
「そうですか。だから斧もお揃いの物を?」
詠士は先程見た師匠の斧にある刻印が、アリサが肩に担いでいる斧にも刻まれているのを見た。
「ああ、これかい。これは師匠が作ってくれたんだよ。アタシが一人前になった証拠としてな」
そう言うと、アリサはその場で軽くその斧を振る。
その姿は堂々としたものだった。
普段からこの大きな斧を扱っている証拠である。
「なるほど。では、次は僕が聞いてもいいでしょうか?」
「いいぜ、何が聞きたいんだ?」
「ではまずここが何処なのか……を聞いても僕には分からないので、まず先程仰った『自由都市』について教えて下さい」
「おう。常識が無さそうな坊主の為に詳しく教えてやるよ。そうだな、まずこの世ってのは種族ごとにその領域がしっかりと決められてるだろう」
「へー、やっぱりそうなんですか」
詠士の何気ない言葉にアリサは歩くのを止め、後ろにいる詠士の顔をまじまじと見つめた。
まるで現実にはいない者でも目の前にいるかのように驚いた顔をして、アリサは詠士を見つめた。
「坊主……いや、よそう。だが、こんな事も知らないのか。それなら坊主はまず何を知っているんだ?」
「えっと、八大種族とやらについて少しだけ知っている程度です」
「まさかそれだけか?」
アリサの問いに詠士は首を縦に振って答えた。
嘆息したアリサは詠士の耳には届かないぐらい小さく何か呟いた後、先を進んでいた師匠の背を追おうと再び歩き出した。
「正直、今の坊主にどう説明すればいいか分からん。だから何か分からねえことがあったら言えよ。アタシの知っていることなら答えてやる。じゃあ、話は戻すぜ。さっき言ったようにそれぞれの種族にはそれぞれの領域ってのが決められるんだ。ただ例外ってのはどこにでもあるからな。その例外が自由都市ってことだ。世界には……まあ、幾つかはあるんじゃねえか?」
頬を掻きながらアリサが言う。
適当な事を言っているように詠士には聞こえたが、何も言わずアリサの後を追った。
「その内の一つが近くにあってな。それがアタシたちの拠点さ。多種族が入り混じる光景は圧巻だぜ」
「その自由都市には只人種以外の種族もいるんですか!あとアリサさん、その自由都市を例外にしている要因は何でしょうか? 種族間の貿易の中間を担っているとか、それとも種族の領土から追い出されたアウトローが築いたとかですか?」
詠士が少し興奮気味にアリサに尋ねる。
他の世界から来た半端者の行き先として、自由都市の存在は詠士にとって魅力的に見えたのだろう。
しかしアリサは質問には答えず、そんな詠士を一瞥すると鼻を鳴らして言った。
「坊主。その丁寧な口調が坊主にとっては当たり前なのかも知れねえが、アタシたちといる時はそんな風に話すな。特に、アタシを呼ぶ時に『さん』なんて付けるな。アタシを呼ぶ時は呼び捨てにしときな」
詠士はアリサの言葉に対してすぐに返事を返せなかった。
詠士が今までに会話を交わした相手は少ない。
更にその少ない数の中で、詠士が気安く話せるような人物は皆無であったのだ。
今の喋り方もいつの間にか自然に身に付いていたものである。
それを直せと言われても、今の詠士には無理な注文と言わざるをえなかった。
「すぐには……その内に何とかしてみます」
詠士が苦し紛れに言う。
アリサも詠士の顔を一目見ると、それ以上は何も言うことはなかった。
♢♢♢♢♢
「見ろ、水場が見えてきた」
あれから続いていた無言を貫き、アリサが言った。
詠士が顔を上げると、確かに水溜りがある。
その水溜りの中心をよく見ると、地面から水が噴出しているのが見える。
「一旦、ここで休憩だな。しっかし、何事もなくここまで来られるとはな」
休憩と聞くやいなや、詠士は崩れ落ちるようにその場に倒れこんだ。
あれから静かだったのは限界に近かったからか、とアリサは一人納得しながら皮袋ごと詠士を水場の近くまで引きずっていった。
「うぅ……すいません」
「気にすんな」
引きずられている詠士が申し訳なさそうに言う。
そんな詠士の言葉にアリサは軽く答えると、既に水溜りに顔を突っ込んでいる師匠の隣に詠士を放り、そのすぐ隣に腰を下ろすと革で出来た水筒に水を入れ始めた。
「にしても何にもなかったすね、師匠」
「……(コクリ)」
師匠は顔を上げ、一度頷くと再び元の位置に顔を戻す。
アリサにとって師匠の無愛想さはいつもの事らしく、特に気にせず水筒の中の水を詠士にかけていた。
「うばぁー……す、すいません」
「だから気にすんなって」
アリサは水筒の中身を全て詠士の顔にかけ終えると、再び水を汲み、美味そうに飲み始めた。
その横では顔をびっしょりと濡らした詠士がゆっくりと起き上がる。
「んっ」
「あ、はい」
アリサはそんな詠士にさっきまで自分が使っていた水筒を差し出す。
詠士もそれを受け取ると、躊躇なく水を飲み始めた。
「ん、ん、んぅはぁぁ……はぁ~」
「あまり飲み過ぎるなよ。ここいらの水は一度に飲みすぎると腹壊すからな」
「分かりました。あれ? でも――」
詠士はそう言うと、近くの水溜りに頭ごと入れてまで水をがぶ飲みしている師匠へ視線を向けた。
「師匠は別だな。と、いうよりも小人種はだな。ここいらの水は只人種とかには良くないもんが混じってる。だが、小人種である師匠にはその良くないもんは効かないのさ」
「……ここって自由都市の近くなんですよね。元々は小人種の領土だったのですか?」
「いや、元々はどこにも手を出されていない土地だったが。ああ、師匠がここの水を問題なく飲めるからそれを聞いたのか。小人種は『旅をする者』だからな。どこでだって生きていけるってだけさ」
「旅をする者?」
「小人種の異名だよ。世界中のどんな場所でさえ生きていける。なのにフラフラと住む所を変えるからね。まるで旅をするためだけに生まれてきたかの様な種族。それが小人種さ」
羨ましいもんだ、と何処か遠くを見る様な目でアリサは呟いた。