2002~2015 其2『AA』
「自覚症状の方はどうかな?」
「いたって健康です。調子がいいってほどじゃないですが」
入院してから一週間が経過した。最初は完全防護服で姿を見せていた主治医の先生も、今では普通の白衣で検診に来ている。血液採取を繰り返し、様々な検査が済んだらしい。結局ウイルスの詳細は分からず仕舞いだが、少なくとも俺の体の中にあるウイルスは危険性や他人に感染するリスクは極めて低いとのこと。
今のところハッキリと判明しているのは、このウイルスは俺の体の中でしか生きられず、体内から離れると半日で死滅する。マウスなどの哺乳類への投与も試みたが変化はない。今でもそのマウス君は元気に生きているとのこと。
「流石に退院許可は出せないからね。運動不足は室内での運動器具で我慢してもらうほかないだろう」
「無害って分かってもです?」
「今のところは無害でも、突然変異を起こして人体に悪影響を及ぼし、他者への感染力を得る可能性もあるからね。私としては大丈夫だとの見解だが、他の上役が許可しないことにはなんともね」
「先生しか検診に来ませんものね。その辺は察してます」
将来的に危険性を持つかもしれない、そんな異端審問みたいな感じはなかなかにもんにょりする。一体いつになったら我が家に帰れるのやら……まあ、ベッドやトイレ、お風呂もこっちの方が広いし清潔なんでそこまで悪いって気はしないんだけども。先生が色々気を遣ってくれて、自宅から検査のために回収した私物をこの病室に持ち込んでくれたおかげでわりと居心地は良くなっている。秘蔵の本やDVDは監視カメラの下で使うわけにもいかないので自宅に送り返してもらったが。
「何か欲しいものがあれば言ってくれ。極力用意しよう」
「パソコンやゲーム機はダメですよね?」
「あまり患者を特別視するわけにもいかないのでね。ただ病人というわけでもないから食事は近くの弁当屋などから届けさせよう」
「味気ない食事ばかりだと、かえって気が滅入りますからね。弁当屋のチラシがあれば一枚ください。あとは適当にオススメの本とか」
病院食は正直美味しくない。栄養管理などはしっかりしていても塩味があまりにも効いていない。カップラーメンが恋しくなる日が来るとは思いもしなかったもんだ。
「本なら任せたまえ、人間誰しも読んでおくべき本は沢山ある。文化人であるのならばなおさらだ。退院後にはりっぱなうんちくを語れるような人間になれるだろう」
「そこまで本の虫ってわけじゃないんですけどね。まあ昼ドラを見るよりかはマシかなと」
昼ドラもたまには面白いやつがやってるんだが、生憎独身男性の好みは主婦層とは色々違うのです。若い子らは共働きの場合も多いからなおさらターゲット層がね。
「君の血液に住まうウイルスは非常に不思議な存在だ。今色々な機関にも通達して打開策がないかを調べている。もう暫くの辛抱だ」
簡単な検査と血液回収を済ませ、先生は部屋を出て行く。特に緊張したというわけではないが、ベッドの上に仰向けになり大きく息を吐く。一週間という日々を病院で過ごすことで、今が非日常であると言う実感が薄れ始めている。そのことを意識するとやはり色々と考えてしまう。今までの仕事はこれからどうなるのか、退院後の生活は、そもそも帰れる日がくるのか。
「――ま、なんとかなるでしょ。多分」
結局考えたところで、その全てがその通りに動くわけでもない。会社の重役だとか、家庭持ちってわけでもないのだから、気楽にいこう。ベッドの横に積まれている読んでいない本を無造作に手に取り、何も考えないままその表紙を捲っていった。
◇
時刻は深夜。エニシの存在により外出を控える云々を抜きにして、人通りなんて皆無な深夜の街路。街灯の明かりのおかげでエニシを狩るためには最適な条件だが、この苛つきは流石にどうしようもない。
「こんの……ちょこまかと……!」
無駄な発砲を控えろとは言われているが、そもそも狙うタイミングが少なさすぎる。今追いかけているエニシは外見、その行動からマトリョーシカのエニシだと判断できる。
体が真ん中から横に割け、二つに分かれたと思ったら中からさらにエニシが湧いてくる。その数は既に八体。コアは恐らく最後の一個となる本体の中央、つまるところ一番小さなエニシを狙えば良いわけだが、デカい連中がこちらの攻撃から本体を守るように立ち回っている。銃弾は通るには通るが一体の体を貫通するまでにはいかない上に、穴の一つや二つじゃ痛がるだけで死ぬ気配もない。今見えている一番小さな体の中にまだ層があるのなら、銃弾では殺しきれない可能性もある。
攻撃をギリギリで回避し、ナイフで一気に引き裂いていく。一定以上の傷を与えればどうにかこうにか動かなくはなるが、仕留めきれない場合は一定時間で傷がある程度塞がっていく。さらには傷ついた奴が下がり、他の連中が攻撃を仕掛けてくる。つまるところなかなか思うように数を減らすこともできない。強さから見てDランクなのは間違いない。今までの雑魚とは違い、戦う術を学んでいる。
「こんだけ数が増えるってことはコア破壊の影響はでかいだろうし、やっぱりでかい一撃を本体に打ち込むしかないんだが……ああ、うっとおしい!」
飛び込んできたエニシの体を蹴り飛ばし、壁に叩きつける。動きが止まった所を詰め、ナイフで攻撃する。しかし直ぐに他のエニシが体当たりを仕掛け、こちらが跳ね飛ばされる。ダメージは大したことはないがこれが続くとなると疲労がそろそろきつくなる。
ランクが一段階上がるだけでこの面倒臭さか、なるほど本部が口を酸っぱくして言っている理由も理解できる。だが自分がやられるかもしれないと言うほどの窮地ではない。既に三層分は破壊している。このまま戦闘を続ければどうにか倒すことはできるだろう。
「――待てッ!」
相手がジリ貧だと悟ったのか、再び一体に戻り逃走を始める。攻めていたくせに、生存本能が無駄に高くて嫌になる。だが追いつけない速度ではない。こちらも走って追跡を開始する。
最初よりサイズは小さくなったが、それでもまだ二メートルを超えるサイズだ。見失う心配も――角を曲がった瞬間、その巨体がこちらに突進してくるのが視界に入る。
こいつ、逃げるふりをして隙を突いてきやがった。咄嗟に足を前に出し、蹴りで止めるも踏ん張りが甘かった。その重量に押され、体が浮く。このままだと壁にまで叩きつけられ圧し潰される。ならいっそと足に力を込め、エニシを足場に思い切り跳躍する。
「んなっ!?」
そのタイミングに合わせてか奴の方も勢いを増してきた。想像よりも遥かに高く宙に飛ばされ、地面が遥か遠くに見える。そしてそのまま建物の窓ガラスへと衝突し、派手にガラスを突き破って建物の中へ。防刃コートのおかげで裂傷などはないが酷い目に遭った。
「ここは……病院か」
エニシを追いかけていて、周囲の地形にまるで意識が向いていなかったが建物の内装からしてここは病院の保管庫か何かのようだ。人がいないことは幸いだが、あとで報告書ものだな、こりゃ。
耳を澄ますと、ゴッゴッと重力を無視して壁の上を跳ねてエニシが昇ってくる音が聞こえる。ガラスが敗れたことでこの室内を認識し、狭い場所ならば勝機があると追撃にきたようだ。だがある程度狭い場所の方がやりやすいのはこちらも同じ。ここならば白兎で確実に本体に……いや、今は一体に戻っている。複数の層を銃弾一発で撃ち抜くのは流石に無理だ。
「なら……こいつか」
窓の方に銃口を向け、モルギフトを発動。エニシの姿が見えるがまだ撃たない。この一撃は反動も大きく、照準を丁寧に定める必要がある。狙うべきはエニシの中央部分、奴がこちらに飛び込んでくる瞬間を見定め引き金を引く。
「ギィアッ!?」
一発の銃弾が複数の層からなるエニシの体を貫く。『サンボのトラ』、物体に与えられている回転力をさらに増す特異性。銃には弾に旋回運動を与え、弾軸を安定性させるライフリングが存在する。とは言えこれは発射の勢いを利用し溝による回転を与える程度、これをサンボのトラにより回転力を強引に跳ね上げさせ、今のような貫通力を付与することができる。欠点として通常よりも弾道が変化するために慎重に狙う必要があり、どうしてもタメができてしまうため激しい戦闘中には使用しづらい。しかし今回のように迎え撃つのが前提ならば、十分必殺の一撃となる。
「ちっ、やっぱこうなるか」
そしてもう一つの欠点。発射時からその効果を発揮するために銃身に多大な負荷を与えてしまい、銃が故障する場合が多々ある。一撃で決めるために強めに発動しただけあって銃口が馬鹿になってしまった。だがこれで――
「ギィィッ!」
「クッ!?」
銃弾が貫通したはずのエニシがこちらに体当たりを仕掛けてくる。咄嗟に回避したが勢い余って壁際にあった鉄製の棚にぶつかる。コアを撃ち抜けなかったか!?中央付近を貫けたはずだが、どうやら奴のコアは想像以上に小さいようだ。しかし、苦しみかたからして本体には届いている。
予備の銃を取り出し――ない。腰のホルスターに装備していたはずの銃がどこかにいっている。さらにナイフもない。窓ガラスを突き破った時か、それとも今壁に激突した拍子に落としたか!?周囲に視線を向け、探す。あった、エニシの背後に。てことは窓ガラスを突き破った時か。
どうする、一度攻撃を誘いそれを回避、そして回収がベストか。サンボのトラを再度撃つためにはさらに一度この場所を離れて誘い込む必要があるが……同じ手を素直に受けてくれるか?悩んでいても仕方ない。
「そら、さっさと飛び込んでこい!」
ぶつかった衝撃でガラスケースの割れた棚から無造作に試験管を取り出し、エニシに向かって投擲する。無駄に奇跡的に銃で貫いた箇所に命中、投擲も悪くないかもな。これで挑発は十分、さあ、飛び込んで――
「ギィ、ギィァアアアアアァッ!?」
突如エニシが今までに見たことがないほどの大きな声で叫び、苦しみだした。今投げた試験管、もしかして何かの劇薬か?ぶつかった衝撃で割れて降り注がなくて良かった。だが好都合、この隙に銃を回収できる。
「――ん?」
ただ苦しみ出しただけではない。その場でごろごろともがき、ありえない震え方をしている。そしてそのままその体が風化するかのように崩れ、その場には一個のマトリョーシカ人形だけが残されていた。肉体が破壊されただけでなく、コアまで完全に破壊されている。ただコアとなった縁の物はほぼ無傷……一体私は何を投げたんだ。
マトリョーシカ人形の傍へと近寄り、割れた試験管を見つける。手で触れると危険かもしれないので壊れた銃でちょいちょいとラベルらしきものが見えるように破片を転がす。
「これは患者名だな。赤いっていうか……血か、これ?」
地面に手と膝をつき、片手であおぐようにして臭いを嗅いでみるが……やっぱ血だな。……エニシが人間の血に弱いなんて話は聞いたことがない。そもそもそんな弱点があるのであればエニシが人間を襲うことはないだろう。中には人を食うエニシもいるしな。
「このエニシの特異性で血が弱点……いや、マトリョーシカの弱点が血ってないだろ」
ひとまずはエニシを仕留めた件を本部に報告、ついでに今回のことも確認するか。スマホを取り出し、本部へと掛ける。
「――こちらアクロバット、標的は仕留めた。――ああ、多分Dクラスだった。――仕留めたから良いだろ、別に。それはそうと、エニシって人間の血に弱かったりするのか?いや、それが――」
◇
深夜頃、病院の窓が割れると言った事件があったらしい。犯人はガラの悪い不良の仕業のようで、既に補導されたとか。病院施設に悪戯なんてロクなことをしないな最近の若者は。……いや、俺も若いよ?まだ三十に届いてないし。まあそれよりも、本日の診察のついでに先生が持ってきた話の方が驚いた。
「今日でこの病院を出る……退院ってことですか?」
「残念ながら、退院ではなく転院となる。先日話した様々な機関にも相談するという話があっただろう?その中の一つが費用を含め全面的に君の体の調査を行いたいと言ってきてね」
「えぇ……」
未知のウイルスの研究をしたいという欲求については理解できなくもない。マッドサイエンティストというわけではないが、そういう世界に生きていれば未知の存在は興味を引くことだろうし。
「この病院で出来る検査はもうほとんどない。より専門的な機関に任せた方が君の問題もより早く解決するだろう。待遇についても、こちらの情報を伝えておくのでそこまで悪くなるということもないだろう」
「はぁ、でもえらく急ですね。普通そう言うのって申請があってから準備期間とかあるんじゃ?」
「一般的にはそうだね。高度な治療を受ける大学病院では各病院からの推薦状と、それを受ける準備などがあるのだけども……まあそれだけ君の症例に興味を持ったということなのだろう」
人畜無害で感染力ゼロのウイルスに興味ねぇ……。費用とかも全部見てくれるってんなら確かにありがたいとは思う。ただなーんか引っ掛かるなぁ。
「その機関ってどこなんです?」
「特異災害駆除機関、通称トキと呼ばれるところだ。聞き覚えくらいはあるんじゃないかな?」
「あー、確かエニシ対策が本筋の機関ですよね?」
なんでそんなところが?いや、逆に考えよう。このウイルスはそういう機関が調べたがっているということになる。つまり……え、このウイルスってエニシ関連のものなの!?俺エニシと接触した経験とか一切ないんですけど!?
「トキはエニシ以外にも特異な症状についての研究を行っている。少々オカルティズムなところはあるが、国が全面的に支援している機関だから心配はいらないよ」
「今の説明で逆に心配が増したんですが……ちなみに拒否権は?」
「どうしてもというのであればこちらの病院で便宜を図るが……この病院にいてはいつ自由になるかの保証はできないからね。私個人としても提案を飲むことを推奨するよ」
胡散臭いといっても国のお抱えの機関だしなぁ……。色々心配は残るにしても、そこまで非人道的な扱いは受けないか。いかんな、どうもこの病院での生活に慣れ始めたせいで未練があるのかもしれない。
「先生がそう言うのであれば、素直に受け入れますよ」
「出会ってたいした日数も経っていないだろうに」
「まあそこはほら、多少なりとも気を遣っていただいてますし。先生に迷惑を掛けたくはないかなって感じで」
「随分と献身的な心構えなものだ。餞別代りと言ってはなんだが、退屈しのぎのために私がオススメする本をいくつか君にあげよう。向こうで読むといい」
「いや、貰うわけには……」
「なに、布教用を渡すだけだ。同じ本はまだ数冊ずつあるさ」
思った以上に本の虫だな、この先生。こうして俺はぎっちりと本が詰まったダンボール箱を抱え、病院を後にすることになった。迎えに来た機関の職員さんの目が非常に気にはなったが、特に問題視はされていないようでなにより。