蠢動する闇、悪夢の前夜
◆ ◆ ◆
ユビレトで一番有名なパン屋、アルヴ・スース。
一日の営業を終え、『開店中』の看板が背を向き、『閉店』になっていた。
夜の八時。
店内で厨房だけが明るい。
「よいしょ、と」
クウェイトの兄、ケイオス=ハーヴェンが厨房で明日使う小麦が届けられるのを待っていた。
閉店作業も一通り終わって従業員は彼だけだ。
いつもなら店内を拭き掃除して時間を潰すが今日はしていない。
厨房に椅子を持ってきて、妹のクウェイトと研究者のイヴァンの関係を考えているだけで時間は過ぎていくのだ。
ただ、どう考えても結論は一つ。
(二人とも恋とは縁がなさそうだ)
心の中で乾いた笑いをする。
ケイオスはふとパン生地を伸ばす木製の麺棒を右手に取った。
騎士団にいたときのように剣の素振りを試みる。
腕を振り上げたところで麺棒が地面を転がった。
ほんの数年前なら風切り音を鳴らしていたが今はもうできない。
怪我から右肩の可動域は肩より下のみになり、素早く動かそうとすると肘より先の感覚が麻痺して動かなくなる。
(クウェイトは五体満足で幸せになって欲しいのだけど、無理かもしれないな)
厨房の床に転がった麺棒を拾う。
裏口のドアがノックされた。
「はいはい、今行きます」
小麦粉が届いたのだろうとケイオスは返事をする。
届けられるいつもより少し早い。遅いことはよくあるが早いことは稀だ。
ケイオスは麺棒を右手に扉を開けようとしたが、ドアノブを握る瞬間止めた。
ドアの前に人がいる気配はある。ただ、妙に静かなのだ。
荷車から小麦粉の袋を下ろす音がしない。
「どなたですか?」
声音そのものは平常のもの。
内心は何が起こっても良いように構える。
――しかし、警戒するには遅かった。
背後にも人の気配が現れる。
ケイオスは麺棒を素早く左手に持ち、背中の誰かの顎を突くイメージで腕を伸ばす。
「腐っても元騎士団か」
顔に奇妙な模様の入れ墨を持つ男がケイオスの攻撃をバックステップで躱していた。
男の発言からケイオスは自分のことを調べられてるを察する。
最悪、肩のこともばれていることを想定して行動する必要がある。
「賊、という認識でいいかい?」
剣を持つようにケイオスは左手の麺棒を握る。
入れ墨男はダガーを右手に持つ。
「抵抗するのか、ケイオス=ハーヴェン」
「もちろん」
ケイオスは平然と嘘をつく。
相手はケイオスの情報を持っているのに、ケイオスは何も情報を持っていない。
(不利な状況で戦う必要はない。まず何よりも命が大切だ。アルヴ・スースのみんなには後で謝ろうかな)
生きていなければ謝罪もできない。
ケイオスは店に残っていたのが自分で良かったと安堵する。
「あまり時間は掛けたくないんだがな」
入れ墨男がダガーで斬りかかってくる。
逃げる前に怪我をしてしまっては元も子もない。
ケイオスはダガーを弾くイメージで麺棒を振る。
間合いそのものは麺棒の方が長い。
麺棒を男の手首を当てた。
床の上を滑るダガー。
男は右手首を押さえる。
ダガーはケイオスの右腕を掠めていた。
アルヴ・スースの服が切れてしまっている。
そこからうっすらと血が出ていたが、浅く紙で切ったぐらいのものだった。
(大したことがない?)
違和感を覚える。
背後をとってくるだけの技量があったので腕が立つと思っていた。結果はあっけなかった。
騎士団にいたころの経験から、こういう相手が搦め手が得意なことをケイオスは知っている。
(なんだ。何が来る)
警戒のレベルを上げるケイオス。
「カーグ!」
「ほいさ!!」
小柄な男がケイオスの右腕にへばりつく。
ケイオスは瞬時に右腕を横振る。
右腕の感覚があやふやになったが、カーグと呼ばれる男を引きはがす。
引きはがされたカーグは空中で一回転して、四足の獣のように着地した。
「アニキ、血を採ってきやした」
カーグは赤い点の付いた白い布を入れ墨男に渡す。
(嫌な予感がする!)
情報を収集してから行動する賊が無駄な事をするとは考えられなかった。
ケイオスは力強く一歩踏み込む。
イヴァンですら視認できなかった速度で入れ墨男に接近する。
入れ墨男はケイオスの血が付いた布を口に加えた。
かすかに入れ墨が光を帯びる。
麺棒で入れ墨男の横っ腹を叩き付けた、はずだった。
間違いなく直撃している。しかし、入れ墨男の身体で止まって麺棒は振り抜けない。
「痛くないな」
ハッタリを言っている雰囲気ではない。
ケイオスは寒気がした。
(――すでに何かが始まっているのか!)
「大人しく捕まって貰おうか、ケイオス=ハーヴェン」
◆ ◆ ◆
遅刻はしても、エタらせはしません。