ハロー、黒竜くん
「汚いな……」
部屋に入った後、思わず声を漏らした。
散らばった紙と薬瓶が足の踏み場を無くしている。ベッドの上には最後にやった記録石の実験で出た紙くずが毛布の上に落ちている。
寝られる状態にはすべきだろう。
「まったく持ってそのとおりだね。こんなところにボクをほっぽっていくなんて酷い黒竜くんだ」
「誰だ!」
俺は左手を竜に変える。
人の気配は無い。
魔法は――わからない。違和感はあるが辿りきれないほど微弱だ。
「敵じゃない! 敵じゃない! 今姿を見せるから待っておくれよ」
毛布がふわりと浮き上がる。
「あーもう、邪魔だな」
毛布が空中で左右に揺れる。
中に何かがいるらしい。
はらり、と毛布が落ちた。
「ハロー、黒竜くん」
「なっ!?」
ラッドから借りた『精霊物語』が浮いている。しかも俺のことを黒竜くんと呼んだ。
俺の秘密を知っているのはメリアと師匠、婆さん。そしてオリフィスの野郎ぐらいなものだ。
――誰かが本を操っているのか。
「生憎、その誰でもないよ」
部屋内にある魔素が確実に分解されて魔力になっている。
魔法の発動もしっかりと捉えられた。
俺は何の魔法を使われたのか現状から予想して寒気がする。
「心を読む魔法なんて使ったら、使用者も対象者も廃人になるぞ! わかってんのか!」
催眠系の魔法ならまだいい。一時的に対象者の意志や行動を阻害あるいは上書きして操るだけだ。
心や精神への干渉はほぼ一瞬で終わる。
心を読む魔法は違う。
長時間干渉する。しかも、本来混ざるはずのない二人の人間の心が一つの身体に密閉された状態を維持する。
試験管の中の水と油を強制的に混ぜ合わせるようなもの。そんなことをして互いの精神が平気なはずがない。
「大丈夫だよ。現に黒竜くんの身に何も起こってないだろ? 相手の全てを見ようとするから破綻するのさ。見るならルーペで一点を拡大するイメージでやるんだよ」
確かに俺の身体に異常は起こっていない。
普通ならすでに対象者――今回の場合、俺が意識を失っている。
「少しは落ち着いてくれてるようで何よりだよ」
「お前は何者だ。そろそろ答えろよ」
「名は自分から名乗るものではないかい? ヴァン・トゥラ・ストラド=ズーくん。良い名前だね。意味としては『人と共に真実を求める黒竜』かな? いや、今はイラフが頭について『人と共に真実を求める黒の契約竜』が正しいのかな?」
俺以外の誰も知らないこと本は当たり前のようにつらつらと喋る。
不快のあまりに俺は舌打ちした。
イヴァン=ルーカスが人としての俺の名前。本が呼んだのは竜としての名だ。
竜は人のような名前ではなく役割を名とする。『イラフ』は誓いや約束を意味する。
師匠の墓前でつけた俺だけしかしらない俺の役割だ。
間違いなく心を読むより質が悪いことをされている。
「心以外にも見てるのかよ。過去。いや記憶か」
「そう怒らないでくれよ。こっちも仕事で見ていただけさ。もう見ないよ」
空気中の魔素が穏やかになる。
魔法を使われている独特の違和感もなくなった。
本当に読むのをやめたのだろうか。
「さてと、名乗りたいところなのだけどボクに名前というものはない。ボクの存在そのものを名とするならば『アルタミア=サルミアートの記憶と知識の写本』だね」
「何言ってるのかわかってるのか」
記憶と知識なんて形のないもの完全に残すことなんて魔法を使っても出来ない。出来ないからこそ思い出を残す日記があり、知識を伝える教科書がある。
記憶と知識の写本などありえないと否定するのは簡単だ。だが否定したところで浮かんで喋る精霊物語を俺は証明する術がない。
「確かに容易ではないね。でも分割すれば問題はないのさ。記憶を記憶石に。知識を本にってね。知識が多すぎて二冊の本になってしまったがその辺は仕方がないよね」
やっていることは理解出来た。ただ『同じ事が出来るか』と問われれば『出来るはずがない』と答える。
――ラッド、アルタミア=サルミアートは化物だ。
「ふむ。見たところキミは十点だね」
写本が突然意味のわからないことを言い始めた。
「今のキミの点数さ。それじゃ世界の真実には辿り着くはずないね」
俺の頭の周りで浮かび続ける本の発言から疑問が沸く。
「点数をつけれるってことは真実を知ってるんだな」
「ボクはサルミアートの知識と記憶の写本だからね。サルミアートが知っていることは何でも知っている」
――やっぱり世界の秘密をサルミアートは知っていた。
これはチャンスだ。
それも過去の誰もが手にすることが出来なかったチャンスを俺は今手にしている。
「なら教えろ。何故魔法はいつからあるんだ。竜はどこからやってきた。世界はどうやって創造されたんだ」
知識欲と夢へ叶えたいという思いから口早になる。
「ムリだよ。ボクの口からは言えない。基本、採点係だからね」
にべもなく俺の質問は却下された。
俺は食い下がる。
「『真実が歪められるのは耐えられなかった。だから記す』そう残したのはサルミアートだろう。なぜ採点する必要がある。お前が真実を語るんじゃないのか」
この機を逃したら絶対に後悔する。
俺は本を掴もうと手を伸ばす。
本と俺の指の間に光の線が高速で奔る。
――これは魔法陣?
魔法陣に指が触れた瞬間、俺はこらえる間もなく壁まで弾かれた。
背中を強く壁に打ち付けて座り込む。
瞬間のことで竜化なんてしている暇がなかった。
「なんだよ、今の魔法陣は。何もないところから構築をするとか反則だろうがっ」
普通、魔法陣は何かに書き起こして作る。この本の使う魔法に俺の常識を当てはめてはいけない。
俺の知識を遥かに超えている。
「さっきの言葉を知っているんならボクはこう答えるよ。――偽られた真実を無知蒙昧な奴に話すほどサルミアートは馬鹿ではないよ」
本は冷たい声で淡々と述べる。
――無知蒙昧、ね。これでも魔法のことは割と物知りだと思ってたんだけどな。
研究者にとって無知は最大の侮辱と言ってもいい。でも俺は怒る気になれなかった。
本と邂逅してからのそれほど時間が経っていないのにいくつも未体験の現象を目にした。
それを瞬時に理解し、再現できるならば俺は反論した。
――できない。少なからず現段階では。
完膚なきまでの敗北だ。無知と言われてしかるべきだ。
師匠なら対抗できたかもしれないが俺にはどうしたらいいかわからない。
俺は立ち上がって、宙に浮く本を睨む。
「採点ってのは一回きりか」
「そういうルールはないよ。大体ボクが目覚めたのがついさっきだし」
「なら良かった」
俺は頬を緩ませた。
チャンスはまだ逃げていない。
「満点を出す答えを手に入れて絶対にいつか教えて貰うからな」
格上の口を割らせる方法なんて思いつかないなら正攻法だ。
やれる限りやってやる。
「いいね。その気概。なら少しだけサービスしてあげる」
写本は俺の腹を背表紙で軽く突いた。
「魔臓が不安定すぎるよ。それじゃ人の魔法が使えなくて当たり前だ。魔法陣で魔法の調整をするより魔臓の使い方を覚えた方がいい」
「俺の身体にあるのか!?」
魔臓。それは高濃度の魔素の中でも活動できる生物たちが持つ特有の器官だ。
確かに半人半竜の俺だ。持っていてもおかしくはない。だが、自分の身体を開いて確認したことなんてなかった。
師匠も俺の中に魔臓があることは知らなかったのではないだろうか。
「サービスはここまでだよ。詳しいことは自分で調べなよ。研究者、なんだろ?」
挑発するように本は俺の眼前で横に回転する。
「そうだ。忘れるところだった」
本の回転がピタリと止まったと思うと、俺の背中の鞄が動き始めた。
鞄が少し軽くなる。
俺の目の前で記録石が浮いていた。
本の中央付近のページが開く。
「これは返してもらうよ」
本は開いたところから記録石を挟み込んだ。
記録石がページの中にゆっくりと沈んでいく。
「ふざけんじゃねーぞ、おい!」
――こいつ、大事な記録石を吸収してやがる!!