怒られたくない黒竜の話
火にかけていたビーカーがコトコトと音を鳴らす。ビーカーからは湯気がたち始めた。計量した水が蒸発して減らないうちに俺は魔石ランプの火を消した。
水が沸くのを待っている間にすりつぶした薬草から出てきた濁った茶色の液体をビーカー入れる。
「弟子二号、もうマキラバの籠って二日立ったよ。早く戻らないとまたしばらく小言を言われるねぇ」
人を小馬鹿にしたように笑う半透明の師匠の言葉で俺は鼻と口元を覆っていた白い布を首まで下にずらす。ずらした瞬間、薬草を潰した時に出るキツイ臭いに混じった焦げた臭いが俺を不快にさせた。
「空気の入れ替えもしないと酸欠で死にかねないし、午後には帰るか」
「午後というかもう夕暮れだねぇ」
「なんでもっと早くに教えてくれないんだよ! またメリアとラッドに怒られるじゃねぇか!」
オリフィスが俺をマキラバから連れ帰ってから三週間経った。
薬の後遺症で眠っていなかった俺は三日も眠り続けた。目を覚ました日は身体が動かなかった。目を覚ました後に待っていたのは、メリアとラッドからのお叱りだった。
心配をかけたことは事実なので俺は反論することなく、毛布の上で二人の怒りを受け止めていた。
何時間も叱られている俺を横で見ていたオリフィスは『自業自得サ』とだけ言って、消化に良さそうな具なしのスープを突き付けてきたのだ。ただ持ってきただけでなく、俺が魔臓を使いこなすことを二人に説いて、宥めてくれた。そして、俺に条件付きで魔臓の訓練をしろと言ってきた
「写本くんとおしゃべりしてるから、ずっと弟子二号を監視しているわけではないからねぇ」
「というか、黒竜くんに約束の二日目だよって僕は教えたよ?」
条件の一つは写本または師匠の監視付きで訓練する事。二つ目は、二日経ったら絶対に家に帰ることだ。
三日目になるとオリフィスがオウラスの背中に乗ってやってきて、縛って家に強制送還させられる。一回やらかしてしまい、その週はメリアとラッドに小言を言われ続けることとなったのだ。
「だー! 最悪だっての!」
薬の調合に使っていた試験管を集めて、壊れないように大きな木箱に入れていく。
さっきまで火にかけていたビーカーに薬包紙に包んでおいた粉薬を投入する。薬草をいれて茶色に染まっていた水は粉薬と反応して、濃い茶色の薬液となる。
俺はまだ熱いビーカーを握っても大丈夫なように左手を竜化させて掴んだ。そして、一気に薬液を飲み干す。ほぼ無臭ではあるが味は最悪だ。
舌の上に不快な苦みが一時間は残り続ける。何を食べても苦みが残っている間は他の味を感じない。ある種の味覚麻痺状態になる。
――そんな薬を俺が飲むのは訳があった。
一呼吸おいてから左足も竜化させて、腹部のみぞおち辺りに意識を集中させる。魔素が身体の中に取り込まれ、身体が毒となる魔素を拒絶しようとする。チクチクと刺す痛みが出てきたところで俺は口癖となっている言葉をつぶやく。
「生成」
体内の魔素が分解され、魔力に変わる。痛みが消えて軽くなる身体。
俺は試験管を洗うべく、魔法で木箱の中に水を作り出してみる。木箱の真上に一粒の水滴が生成された。そこから水は増えない。
俺は歯を食いしばって、魔力を魔法に適した形へと変換を試みるが上手くいかない。普通に魔法を使うなら形式の変換は本来、魔法陣や魔石でやっていることだ。意識してやっていることが異常。
しかも、竜の魔力は今まで使ってきた魔力と違い、桁違いに密度が濃い。魔法が無駄に強くなって制御を離れかねないのだ。
今回の場合『木箱の中に水を溜めるだけ』でいいのに、制限なしにやるとマキラバの中どころか、森全体を水浸しになりかねない。
「くそっがぁ! この暴れ魔力共俺の言う事聞きやがれって!」
意志に反して水を生成しようとする魔法の手綱を放さないように発動させた。
水滴の周りに一気に水が集まり、木箱の中に水の塊が落下した。木箱の体積以上の水が落下し、木箱から水が溢れだす。
制御したといっても、完全に制御するには経験が足りないらしい。
「薬飲んだら魔素分解は出来るけど魔法は安定しないな」
水がつかないように服を捲って、素手で試験管を洗っていく。
最近使っている薬品は人体に無害なので素手で洗えて楽だ。
「でも本当に薬で対応しちゃうとは思わなかったよ」
ひとりでに雑巾が空中を飛んで、床に落ちた水を拭いていた。雑巾に魔法をかけているのは写本だ。
「やってることは魔素への耐性向上だ。あとは酔い止めと痛み止めの二つな。しかも普通の人間に使えないレベルにキツイ代物」
「おまけに効果が短い?」
「そうなんだよなぁ。効果上げるために成分を凝縮した上で副作用が軽いもの作ったら効果時間が三分もない。連続で摂取すると、勝手に竜化して力の加減が出来ないし、しばらく元の身体に戻らないからなぁ」
魔臓が使えるようになったのが嬉しくて、薬を飲んでは魔法を使い続けた初日に判明したデメリットだ。力の加減を誤って、自前の試験管をいくつか割ってしまった。
洗っている試験管は師匠が使っていたものだ。マキラバの中は師匠の研究施設になっていて、薬を作るのに必要な道具が一通りのそろっている。
師匠が残してくれた道具のおかげで俺は作業ができるわけだ。
「魔臓、だからねぇ。やっぱり人間の身体でよりも竜の身体の方が適性が高くて身体が引きずられるんだろうねぇ」
「身体はまだゆっくり動かせばいいんだけどな……」
課題多めの魔臓訓練はまだまだ終わりが見えない。
オウラスに一度だけもらった分解しやすい魔素に近づければ薬もいらないかもしれないが、どうすれば分解しやすい魔素になるかまったく見当がついていなかった。
「これで最後だ」
洗った試験管を台の上で逆さにして乾燥させる。一日放置すれば大丈夫だろう。
「こっちも水を拭き終わったよ」
「ありがとさん」
「えぇー、もう帰っちゃうのかねぇ? 師匠、寂しい~」
半透明の身体をくねらせる師匠に俺は冷ややかな視線を送る。
「明後日には戻ってくるって」
「絶対だからねぇ!」
念を押してくる師匠を見た俺は昔、美味い魚料理を食べたいと駄々をこねていたことを思い出す。
――マジで師匠と同じ行動するよな。いや、師匠の記憶や性格を映した魔法だから当たり前なんだろうけど……。
「なんだいなんだい、複雑そうな顔をしてぇ」
ふふん、とムカツク顔を師匠がしてきた。文句を言ってもしかたがないので何も言わない。俺は扉のない実験室の出入口に向かった。
「じゃ、またな師匠」
「またね、エルシー」
オウラスが待っているであろうマキラバの幹まで俺は歩いていくのだった。
「少しは相手してくれてもいいんじゃないかねぇ!」
叫ぶ師匠の声を聞いて、俺は笑ってしまう。
――紅い竜さえいなければ、こんな日常も悪くない、か。
◆ ◆ ◆
イヴァンがいなくなった実験室に一人、エルシーは実験台の上に腰かける。
一見、座っているように見えるが、実際は机の表面に沿って、身体を浮かせているだけだ。実体のない身体には尻にあたる台の感覚はない。
「あー、今日も楽しかったねぇ」
誰もいない空間でエルシーは自分の記憶の塊と言える日記帳を一冊、引き寄せる。日記帳はエルシーの前まで飛行し、パラパラと自動でページを開いていく。
開いたページの一行には『じゃ、またな師匠』という文字が浮かび上がってくる。さっきの出来事を書きとめている最中だった。
日記帳は左に分厚くページが重なっていて、右にはあと十枚ほどしかない。残りの十枚は白紙のページ。
このページがすべて埋まると記憶は出来ない。
「あと少し。あと少しだけ、良い夢を見ていてもいいよねぇ?」
エルシーは日記帳を閉じて、実験室から姿を消した。
――あぁ、明後日が待ち遠しいよ。
無駄な記憶を残さないようにするために。大切な家族の成長を一つでも多く残せるようにするために。
また2週間か3週間に一回更新します。体調とかやらなきゃいけないこととか溜まっているので……