黒い過去
俺の思考が数秒、停止した。
「ありえんぜ? 仮にその言葉を真とするならおれ達は何なのか説明できないぜ?」
「『インバール』って表現で解決できちゃうんだよね。これが」
「聞いたことないぜ? なんだそれは」
――『インバール』
白竜も言っていた意味不明な単語だ。
写本は思い出したくもない侮蔑と解説していたが、詳細までは教えてくれなかった。
「エリカに会ったキミは聞いたことがあるんじゃないかい?」
蒼竜は俺を指差して意味深に笑う。
俺は頷こうとして、やめた。
「聞いたことはある。しかし、エリカって人間は知らない」
写本が俺の耳元でささやく。
「エリカはエリーのことだよ。つまり白竜さ」
「ちなみにさっき見せた写真にもエリカはいるよ。ほら、この長い黒髪の女性さ」
白竜に似ているとは感じていた。ただ同一人物と認めることはできなかった。
「ありえないだろうが。白竜は竜だ。でもその写真で見える女はどうみても――」
「そう。人間だね。今のエリカと写真のエリカはある意味で別の存在だよ。どうして彼女がこうなったかを説明するには『インバール』って言葉と『人間はどうしていなくなったか』を知ってもらう必要がある。だからこのファイルを読んで欲しかったんだけどさ」
蒼竜は俺たちに読むように渡してきた研究資料ファイルをテーブルの上に置いて広げた。
『人類の生存計画および精霊対策について』と赤文字で書かれている。
「精霊対策ってなんなのん?」
「人と精霊は戦争をしていたんだよね。精霊は魔法を、人は知恵と技術を使い、互いの生存圏を守り、奪い合っていた」
「そもそも何で戦争になったのかな? 仲良く暮らせばいいじゃん」
メリアがテーブルに上半身を預けた。
「精霊が人を操って悪事を働く事例が多発したせいだよ。人が精霊を認識したときには対話が出来る状態じゃなかった」
ラッドが腕を組んで口を曲げていた。
「戦争が起こるのはまだいいぜ。文化や種族が異なればどこかで爆発するもんだ。けどメリアの嬢ちゃんの何で戦争が起こったか、の解にはなってないぜ?」
「言いたくないから濁そうとしてるのにさ……」
蒼竜は誰もいないところを見ながら空を飛んでいる写本を指差す。
「すべての元凶はサルミアート、キミだよ」
「そうだね。始まりはボクだ。ボクは表に出るべきではなかった」
写本がファイルの上に降りた。
「ボクも精霊だったんだ。ただ他と違ったのはほんのちょっとだけ知識欲が強かったことだ。故に人間という存在を知りたいと思ってしまった」
「何がいけないって言うんだ。俺なんて世界の秘密が知りたいからって独断行動しまくってる。今回のことだってネルシアの婆さんにバレたら殺されかねないぞ」
「罪の重さが違うよ。だってボクはボクの欲のために人間を殺したのだから」
空気が重く、冷たくなる。
「知識を欲することに善悪はない。でも行動に移したとき、善悪が問われる。名前も知らない人の身体を乗っ取って何百年も暮らしていた。肉体が滅びればまた次へ。何百年もくり返していたんだよ。これは悪だ。だって他人の人生を潰してきたのだから。そして当時のボクは考えなしに同胞へ話してしまった。人の世界は楽しいぞ、と」
「サルミアート、それ以上は――」
蒼竜の制止を無視して写本は話し続ける。
「同胞たちは、人を乗っ取ることを躊躇わなかった。ボクがそうだったんだ。躊躇うことなんてない。人の子供がオモチャで遊ぶ感覚と同じだったんだと思う。だからなんでもした。法に触れることなんて当たり前。オモチャとオモチャを戦わせることも当たり前。地獄を生み出してしまった」
語られたことを受け止めてファイルをもう一度見る。
『人類の生存計画および精霊対策について』
この文字が何を語っているのか。
俺は先を知るのが恐ろしくなった。
メリアもラッドもトリトンも青ざめている。
「――無知であることで幸せになれるなら無知のままでいたいかい? それとも知識を得て不幸になりたいかい?」
「……聞き覚えがあるな」
「だって、黒竜くんに一度した質問だからね。けど、これはボクへの戒めでもあるんだ。ボクが人間を知りたいと思わなければ。ボクが人間を知らなければ。ボクが生まれなければ――」
「サルミアート! 自分を責めないでくれ!」
蒼竜は写本を抱きしめる。
「だから話したくないかったのさ! お願いだ! 戦争が終結したのはキミのおかげであることも忘れないでおくれよ」
「自分の過ちを自分が正す。あまりにもマッチポンプがすぎないかい? ボクはボクを許せないよ。記憶と知識を写した身になろうともね」
涙目になって写本を離さない蒼竜。
写本は何も言わないで大人しくしていた。
「戦争が終わったってどういう経緯でなのん?」
「サルミアートと一部の精霊が人類陣営について争いの中、精霊たちを説得してくれたのさ。言うことの聞いてくれない精霊は封印することになった。ゆっくりとだったけど争いは沈下していった。戦争が終わってからは比較的穏やかなものさ。人と精霊の交流は概ねうまくいっていたよ」
写本が小さく左右に揺れる。
「でも問題は次から次とやってくるものなんだよ。人でありながら魔法が使える人類――『インバール』の登場だ」
俺は頭を抱えた。
結末が見えてしまった。
ろくでもない結末が。
「人間が進化して、精霊に近いものになった。しかしその進化は望まれた進化ではなく、迫害の対象となった」
頭の中で知らないはずの光景が浮かんでくる。
狂気に満ちた笑みで追いかける男と必死に逃げる姉弟らしき二人の子供。
安全だと思われた家の中は魔法一つで逃げ場のない空間になってしまう。
かばうように女の子が男の子の前に立ちふさがった。
炎の魔法が女の子に当たって燃え盛る。
魔法を使った男は高い声で壊れたように笑い続ける。
「イヴァン、顔色悪いよ。大丈夫?」
メリアが俺の手を引いていた。
暖かい手に俺は一息つく。
「眩暈がしただけだ。大丈夫だ」
生々しい光景だった。
俺の知らないはずの光景。
でも、俺は知っている感覚がする気持ち悪い違和感。
俺は左肩を強くつかんだ。
――お前が見せているのか。黒竜。
「迫害され続けたインバールたちの鬱憤はたまりにたまって、破裂し、インバールたちによる事件が起こるようになった」
「なんで先のことを見据えて対応しないのん」
「異質な存在は本能的に恐れられるんだよ」
トリトンに俺はつい反応してしまった。
「気持ちは分かるけど、変化に対応しないと滅びるだけなのん」
「まさしくその通り。だから人間は滅びかけたのさ」
蒼竜が写本を抱いたまま研究資料ファイルをめくり続けた。
「残った人類と争いを嫌ったインバールは精霊たちに助けを求めた。精霊たちはその声に応じることにし、提案した。精霊の世界に来ないか、と」
次回、7/18更新予定