猫と仙人と師匠と弟子
「にゃーん……」
また猫に逃げられた。もうにゃーん以外の言葉が見つからない。
「にゃーん……」
僕はこの春で大学3年生になる平々凡々な人間さんである。学部はゆるーい人文系。好きな動物は猫。好きな獣人は猫系。趣味も猫。特技も猫。
そう、僕は猫が大好きだ。三度の飯より猫が好きで、何度も買ったことがあるし、大学は休んでもペットショップには毎日通っている。
しかし、こんなにも猫を愛して止まない僕なのだけど、1つだけ大きな問題がある。
それは、猫が全く僕に寄り付かないこと。愛くるしい猫達は種類を問わず、僕を見た途端に化け物にでも会ったかのように一目散に逃げ出す。それはもう全力で逃げる。脱兎のごとく逃げる。猫なのに。
だから猫を買えても飼ったことは一度もない。以前行ったペットショップでは、僕を見た猫が全力で逃げるあまり柵の蝶番が弾け飛んだこともあった。猫は幸い無事だったものの、危険人物としてそのペットショップに出入り禁止になる始末。仕方なく、最近はオペラグラスでその店のにゃんこを覗き見している。
今更出入り禁止程度で僕が諦めると思ったのかい?あまいあまい。じつにあまい。
兎に角、ここまでの嫌われようはどう考えてもおかしい。マタタビスプレーやマタタビクリームなど色々と試したが、ずっと猫には嫌われた(?)ままである。僕は紳士だ。こんなことはあり得ない。これは絶対におかしい。
「店長!やつです!」
「またか!懲りずに来やがって…。狙撃を許可する!グラスごと目を潰してやれ!」
「了解!」
絶対に、おかしい。
段々と狙撃が上手くなっていることに感心する。だが残念。正確無比な狙撃は逆に避けやすい。BB弾の雨もなんのその。僕はそれらを全て避け、猫のように柔軟に民家を駆け抜ける。
相手は上手くなってきてるとはいえ、まだまだ僕には追いつけない。特に動きを先読みされることも無く無事に逃げ切ることに成功。一応、クリアリングを行い追っ手がいないことをしっかりと確認すると、足を緩め息を整えた。
ふと視界の端に桜の花びらが揺れた。いつの間にかどこかの大通りに出ていたようだ。桜並木が綺麗に並んでいる。適度に運動をしたから爽快感からだろうか、敵から無事逃げ切れた安心感だろうか、胸のすくような気持ちのまま、僕はゆっくりと桜の下を歩く。いつか猫とこんな綺麗な並木道を散歩してみたいな。
枝には力いっぱい花弁を広げる桜の花々が見えた。まだ満開ではないものの、精一杯に伸びる桜の花達に穏やかな春の訪れを感じた。
小さな花達を見守るように眺め歩いていると、やがて寂れた公園が見えてきた。僅かに小高くなった公園の端に古びた木製ベンチがあった。ぼーっとしている間にだいぶ歩いていたようで、足が少し痛かった。坂を上りぼろぼろのベンチに腰掛ける。そして、僕は運命を見た。
「あっ…」
ベンチの正面、歩道からは垣根で見えなかった奥まったその場所。そこには、見たこともないほどの沢山の猫が1人の人間を囲むように群がっている。猫に囲まれたその人は、猫と一緒に地面へと座り、何やら話しかけている。動物が人を囲み穏やかに意思を交わす、まるで神話の1ページのようなその光景は、僕の目をくぎ付けにした。
「猫仙人……?」
思わず呟いてしまった心の声に、1匹の猫が反応する。濁りのないサファイアを縦に割く黒い瞳。それが僕を捉え、そのまま不自然に硬直した。珍しい反応だなと思いつつ手を振ってみる。猫は手が動いた瞬間、金縛りの溶けたように全力で逃げ出す。そして連鎖するように全ての猫が一斉にこっちを向き、あっという間に逸らし同じく全力で逃げ出した。
猫の中心で何やら語っていた猫仙人は、あまりに不自然な行動をとり始めた猫たちを見て、口を開けて呆然としている。まるで理解が追い付かないみたいだ。気持ちは分かる。
猫仙人はしばらくそうして逃げた猫たちを眺めていたが、僕が近づくと警戒するように鋭い目をこちらに向けた。僕は慣れた視線に動揺もせず、まずは無害なことを示すために両手を挙げ立ち止まる。そして仙人の目をしっかりと捉え、緊張に震える声でゆっくりと語りかけた。
「猫仙人、どうか僕にその力を、分けて頂けませんか」
側から見ただけでわかるほど、圧倒的な猫からの信頼を受けていた猫仙人。この人ならば僕の問題をあっさり解決してしまうのではないかと、心のどこかで強く確信していた。
猫仙人の僕を見る目が細まり鈍く光る。そうして彼は僕から視線を外さぬままポケットに手を入れると、携帯電話を取り出し素早く何かを押し、「もしもし?警察ですか?」と話し始めた。
えっ。ちょっとまって。
「つまり、猫に嫌われる原因が知りたいと?」
「そうです。流石は仙人様、話がお早い」
「誰が仙人だ」
到着してしまった警察と警戒を緩めぬ猫仙人を相手に、必死の思いで善良な市民であることを説いた。警察は聞く耳も持たず、ものすごい警戒していたのだが、あまりに真剣な様子が利いたのか、結局仙人の方が警察を説得してくれた。
うん。とにかく解決した。本当に捕まるかと思って手にびっしり冷や汗をかいているのは秘密だ。
未だ微妙な距離を置かれているが、どうやら話を聞いてくれるらしい。慈悲が過ぎる。神様を超えた何かなのかもしれない。僕は困った『猫嫌われ』について話すことにした。
今も昔も変わらない、僕のこの世で唯一の願いは、猫と仲良くなることだ。どうしてもなのだ。そのためだったら僕は何でもするし、実際そうしてきた。もしあなたの猫パワー(?)に秘密があるなら、分けてもらえないだろうか。
そんなようなことを、僕の身の上話を添えつつ語る。
しばらく胡乱気な目で僕を眺めていた猫仙人は、さらに困ったように眉を寄せ、溜息を吐きながらも、「秘密なんてないが、助言なら」と言ってくれた。
「僕が言うのも何ですが、いいのですか?こんな不審者と付き合って」
「まぁ、いいよ。お前がどれほど猫が好きなのかは、もう2度と聞きたくないほど聞かされたし、猫が異常なくらい一目散に逃げるのも見たからな。とーーっても困ってるのはこの上なく伝わった。お前自身も、ぶっちゃけ気持ち悪いが、あほすぎて悪いことは出来なさそう。何が出来るかわからんが、手伝えることならやってもいいと思ってる」
「ありがとうございます。師匠。解決した折には焼肉でも奢りましょう」
「要らねーよ。出来る限り早く卒業してくれることだけが俺の願いだ。アホがうつりそう」
こうして僕と仙人の修行は始まったのだ。
修行じゃなかった。拷問だった。まず猫から離れるよう言われた。我が生命の源泉である猫を断つなど、辿り着いたオアシスで水を枯らすような暴挙である。死すら生温い地獄だ。この世に絶望し生きとし生けるもの(猫以外)を呪うべく呪詛を吐いている僕に師匠は声をかけた。
「お前は猫が大好きだな?」
「当然ですよ。大好きも大好き。猫になるため屋根で昼寝を試したこともあるのです」
「は?………?」
「どうしました?」
「…まぁそれはよくわからんが、とにかく俺は猫についてお前より詳しい奴を知らない。なら、嫌われないように、かなり色々試したんじゃないか?」
「もちろんです」
「俺以上の知識を持ち実践もしてきたお前に、猫のことでアドバイス出来ることはないと考えてる」
「そんな!仙人パワーを開放すればこんな問題すぐ解決出来るはずじゃないですか!?もっと真面目に考えてください!師匠の本気が見てみたい!さぁさぁ師匠!まだまだいける!まだいけぐっ、ぁぅ…」
調子に乗っていたら頭にゲンコツを落とされた。涙目になる僕を胡乱げな目で見ながら、師匠は一つの課題を出すと言った。
「人間と仲良くなってみろ」
「何ででしょう」
人間は猫とあまり共通点がない。人間と仲良くなることが猫との仲に繋がるとは到底思えなかった。
「人間は社会的な動物だ。猫は知能的に人間より低いだろうし、コミュニケーションについても社会的な人間より複雑ではないだろう。つまりまず人間とのコミュニケーションをマスターすることで、複雑でない猫とのコミュニケーションが楽になるんじゃないかとかんがえてみた。どうだ?大は小を兼ねるってやつだ」
「意味不明ですね。そもそも人と猫のコミュニケーションの手法が違う時点で、その例えは当てはまりません。大が小を兼ねる?寝言は寝てから言ってください」
「お前意外と辛辣だな…兎に角やってみろよ。俺は人間とのコミュニケーションから、猫との付き合い方、距離感とか声のかけ方とかを学んだ…ような気がする。そしていまこの結果があるじゃん。だから、お前もやってみろ。それにどう見てもお前は友達いないだろ。いや、そもそも人間関係あるのか?」
師匠が馬鹿にしたような目でこちらを見てくる。
「失礼な。人間関係ぐらいあります。現に師匠とこうして話しているではないですか」
「友達は?」
「人間には尻尾も耳もありません。特に大学生は全員屑です」
「いないんじゃないか。てか人間にも耳はあるだろ」
「普通、耳は頭の上でしょう!あんなのは耳じゃない!」
「あ、はい」
呆れた様子で流されてしまった。
人間とのコミュニケーション。理屈はよくわからないが、今まで散々試してもダメで行き詰まっていたのだ。他人のアドバイスを受け入れることに抵抗はない。それに、仙人たる師匠の経験則ならばかなり信頼出来る。やってみることにした。
まずは大学で友達を作ろうと思った。大学にはクラスがあり、必修科目を一緒に受けるため、それなりに付き合いやすくや連絡が取りやすいらしい。また新入生がいるこの時期はチャンスだと、出会いマスター指南書に書いてあった。
講義の半ば、集中力のきれやすい時間にわざと消しゴムを落とす。飽きてきた講義の合間、拾ってくれたことをきっかけに会話を広げるのだ。
「あれ」
誰も拾わない。20分経っても誰も拾わない。追加でペンも落としてみたが、全くの無視である。それどころか席を立つ人もいた。
絶対おかしい。これは何かあると思い、こちらから尋ねることにした。
「ねぇ、あのさ…」
「うわぁぁぁ!」
勇気を出して、振り向き、後ろにいた人に話しかけると彼は獣のように叫びながら逃げていった。なにこれ。
話しかけられた彼が結構な叫び声で逃げたため、大学の事務室に呼び出された。
「君が猫の化け物って噂が流れているけど、本当かい?」
簡単に事情を説明し弁解をすると割とすんなり理解してくれた。僕の誠実さが伝わったんだと思ったが、どうやらこの噂を聞いていて、もともと騒動になるだろうなと警戒されていたことがすんなりいった原因らしい。荒唐無稽な噂をきっぱりと否定する。僕は立派な真人間である。
「何だか君の噂、かなり流れてるみたいなんだ。市街で銃撃戦をしていたとか、毎日欠かさず覗きをしている相手がいるとか、屋根の上で寝ていたとかね。明らかな嘘も多いし、イジメである可能性も考えて、無闇な噂を信じないように注意を呼びかけているんだが、あんまり効果がなくてね。困ったものだ。本当に何がありそうだったら相談してくれ。出来る限りのことはするよ」
噂は本当である。ごめんなさい。
大学は半ば自業自得だが、コミュニケーションが非常に取りにくいと分かった。会話どころか声かけすら難しい。次の方法を考える。
僕の人間関係がほぼないが、かなり強い関係を構築している人に心当たりがある。取り敢えずそこに行こう。
「逃げたぞ!」
「追え!」
「店は臨時休業だ!総員戦闘の用意を急げ!今日こそ仕留めろ!」
「了解!」
そう。ペットショップBANの皆さんである。オペラグラスも持たず真正面から挨拶をしに行ったら、好機とばかりに仕留めに来た。何なのだこの人達は。ここはペットショップではないのだろうか。
「話を聞いてください。僕はあなた方と少しだけお話がしたいだけなのです」
「成る程な。では少し止まってくれ。そうでないと私たちも話しにくい」
「止まったぞ!一斉掃射!跡形も残すな!」
どうしよう。
走り回り体力を奪ったところで全員を無力化。一旦落ち着いた皆さんとお話をする。
「殺せ!」
無視する。
「私は猫が大好きです。それは三度の飯より大好きです。ただ、どうも嫌われてしまうみたいでして。今色々と試行錯誤しているのです。ところで、皆さんはどんな動物が好きなのでしょう?動物好き同士、仲良く出来ると思いませんか?」
「…」
「…」
「…」
答えは返ってこない。なかなか難しい。ただ僕の猫への愛と嫌われ体質は本物だ。それを少しでも理解してもらえば、誰かしら同情はしてくれるのではないだろうか。そう思い話し続けた。
燦々と照りつける太陽の下、5時間近く話していたら、どうにも参った様子で、ちゃんと聞くから拘束を解いてくれと言われた。僕の話というより、初夏の始まりの少し強まった日差しが辛かったらしい。まだ敵意の残る戦闘員を店に戻すと、店長と喫茶店でお話することになった。
「思ったよりちゃんとした事情があったんだねぇ。ただ原因がわからない以上私の店には入れられないよ。逃げちゃうし、下手すると猫さん達が怪我をする」
よくよく話してみると、店長はしっかりした人のようで、ある程度理解を示してくれた。戦闘時の形相はなんだったのか。
「残念ではありますが、猫を傷つけるのは僕の意図するところではありません。ただ、見るのぐらいは許して欲しいのです」
「うーん」
「ところで、ここのフルーツケーキ知っていますか?ものすごく美味しいんですよ。限定生産かつ注文殺到するのでなかなか食べられないのですが、実は今日たまたま予約が出来まして。宜しければどうでしょう」
「専用の物見台作っとくよ!任せといて」
僕たちは、幾度もの激しい戦いを通し、全力で思いをぶつけた。そして、その戦いが終わりには、深い理解と固い結束が残っていた。
「……というわけです。僕のコミュニケーション能力はうなぎのぼり。対人間コミュニケーション決戦兵器と呼ばれる日も近いですね」
「理解?結束?コミュニケーション?思いっきり賄賂じゃん。買収じゃん」
取り敢えずの成果を得たため、師匠に報告に行くと、そう一刀両断された。失礼なことである。
「納得できませんか。では成果をお見せしましょう。これが僕の力だ!」
そう叫び、懐から超高級猫缶を取り出す。あの後、ペットショップの店長が「これじゃあ貰いすぎだから、これあげる。これさえあれば猫が光に群がる夏の羽虫のように寄ってくること間違いなし」と言って渡してくれた逸品である。
プルタブを引き開ける。人間の僕ですら魅了する絶妙な香りが辺りに広がった。
広がって、つられるように師匠だけが寄ってきた。
「これ、なに?すごい美味しそう」
師匠がハイライトの消えた目を向けながらそう言った。口から溢れた涎がキラリと光る。声の色も幾分か優しい。
「師匠は呼んでないです。目を覚ましてください」
明らかにおかしいので思いっきりビンタした。
思ったより強く当たり、師匠はコマのように回転しながらひっくり返った。が、すぐに起き上がりゾンビさながらにじり寄ってくる。
「ひ、一口だけ、一口だけくれ!頼む!何でもする!」
「何これ」
猫は全く姿を見せない。しかも師匠は狂っている。これ、猫缶なのかな…。なんか怪しい薬なんじゃ…。
「よこセェェェー!」
師匠が飛びかかってくる。難なく躱すと、そのまま地面に倒れこんだ。呻く師匠を見て、何だか可哀想になり、倒れた体に謎の猫缶を投げつけた。
携帯が鳴る。電話をとると店長からだった。仕事が終わったのでいつものカフェで会おうと誘われる。僕は猫缶を貪る師匠を横目に、一も二もなく頷いた。この人の知り合いだと思われたくなかった。
店長は今日来た面白いお客さんの話を楽しそうにし始める。僕は相槌を打ちなが公園を後にする。
僕が公園を出た瞬間、今までどこに隠れていたのか、無数の猫が師匠に、いや、猫缶に殺到した。
「これは俺のだァァァー!」
「ニャアアアァァー!」
叫ぶ猫たちが我先にと猫缶へ群がるその姿はまるで蜜に集まる蟻の様だ。電話越し叫び声が聞こえたらしく、店長が何かあったのかだいじょぶかと心配してくる。僕は何でもない大丈夫と返し、見ないふりをしていつもの場所に向かった。
店長とかなり親しくなった。そのおかげか、態度が刺々しかったペットショップ店員ともそれなりに打ち解けることが出来た。柴犬の可愛さを語ったり、最近の流行りを教えてもらったり、猫談義を交わしたりする日々は、1人で猫を追いかけてた昔よりも、充実して楽しかった。猫に嫌われているのは残念だが、BANのみんなは猫を見るだけなら許してくれるので、猫成分も充分に確保できる。
大事な猫への結果はまだ出ないが、こうした日々のきっかけをつくってくれたのは師匠だ。全てのきっかけは師匠との出会いから始まったのだ。それをふとした瞬間に思い出し実感する。彼には感謝してもしきれない。
「出たな疫病神め。今日は何をやらかすつもりだ」
師匠の所へ行くと、とても警戒された。前回は猫缶で狂わせてしまったし、警戒しても仕方ないと思う。
「師匠、今日はお礼を言いに来ました。師匠は、猫仙人なのに僕の嫌われるアレに解決の糸口も掴めないという究極の無能ですが、」「おい」「楽しい日々のきっかけを与えてくれたり、騒動の中心となって場を盛り上げてくれたりしました。そういう師匠に僕は感謝してるんです。本当に、ありがとうございます」
僕は師匠にはっきりと今までの感謝を述べ、深いお辞儀をする。まだまだ僕の感謝は伝えきれない。いつか師匠に恩返し出来たらと切に思う。
頭を下げる僕を見て、ため息を吐くと、師匠は少し真面目な声色で話し出した。
「正直お前に言いたいことはある。特に文句だが。でも、今お前が言ったことは、全部お前が為したことだ。お前の選択の結果、お前の行動の結果だ。一応、感謝は受け取るが、恩返しなんて考えるな。さっさとどっか行け」
「師匠……」
「なんだよ。取り敢えずまたあれについては、考え直そうぜ。無能の肩書き外したいし。何やろうか」
「……仙人パワーをください」
「ねーよ。なんなんだよその仙人へのこだわりは」
口は悪いが、僕をちゃんと思ってくれているのが伝わってきた。有り難かった。なんやかんや言いながら、まだつきあってくれる師匠に、もう1度心から感謝した。
途切れ途切れに、蝉の声が聴こえる。夏が終わろうとしていた。
銀杏が色を変え始める。黄色と緑色が混じる木の下、僕らは修行をする。
「いや、おかしいですよこれ。また狂いましたか?」
「狂ってない……!狂ってない……!俺はまだ狂ってない!」
「どう見ても狂ってますよ」
何故か師匠の服に着替えさせられ、頭から猫缶を被らされ、中身をしっかり隈なく塗りたくって立たされた。訳がわからない。師匠の目もおかしいし。
「猫缶の効果は明らか……!ならば使わぬ手はない……!お前の匂いを……しっかり変えて仕舞えば……!完璧……!一分の隙もない……!」
「死んでください」
結局猫は来なかった。僕は師匠を張り飛ばした。
「言葉じゃないし、匂いじゃないんだろ?じゃあなんだ?仕草とか?」
「仕草ですか?ちゃんと猫に合わせてるつもりなのですが」
「まぁキモいけど違和感はないな。猫っぽすぎてキモいが」
最近師匠が厳しい。もっと優しくしてくれないと心が折れる。いや、これも修行なのかな。
「師匠は何で猫に好かれてるんです?」
「えっ、知らん。昔からこうだった。考えたこともないな」
「昔って仙人として生をやり直してからってことですか?」
「人間だったことしかない」
好かれる理由がわかれば、真似するか移植すればいいが、それは師匠もわからないらしい。
というか、さっき、理由考えたことないって言わなかった?無茶苦茶だと思ってたけど、「人間と仲良くなれ」修行の「経験則」って嘘だったんじゃないか。状況は良くなってるし、感謝はするけど。
後で感謝の気持ちを込めた猫缶をドブに投げてやろう。
「そういえば、ペットショップの店長と仲良いんだろ?そいつには聞いたの?」
師匠が思いついたように聞く。
「あ、そうですね。嫌われることは知っていますが、解決について聞いてなかったです。師匠も交えて相談してみましょう」
店長は店長だけあって動物への造詣はかなり深い。ポンコツ師匠と優秀な弟子たる僕の違いから、何かアドバイスをくれるかもしれない。
電話を掛けると店長は気軽にOKしてくれた。折角だから紅葉でもみながら、ということで、店を閉め今週末に店員も集まることになった。
少し遅れてしまった。枯れ葉が積もる歩道を踏みしめるように走る。慌てながら着いた集合場所には異様な光景が広がっていた。
大きめの広場に、戦闘態勢で師匠を警戒するBANの皆さんがいた。かさりと、落ち葉が鳴る。焦ったように目を動かし、攻撃されないように動いてませんアピールをする師匠。その強張った顔を見て、僕は爆笑した。
結局僕の笑い声をきっかけに緊張は解けた。未だ警戒の残る彼らから話を聞く。つまり、BANの皆さんは、変態かつ妙に強い僕、その師匠ということで、戦闘になるのではと思ったようだった。みんなには、僕との師弟関係は心の関係であり、師匠は仙人で不思議な力は使うが、雪かきもできない軟弱体力だからあまり警戒しなくてもいい、と言って納得してもらった。
店長たちはお弁当を用意してくれていた。料理上手な店長のお弁当は、おかずの奪い合いとなった。当然、僕が勝利する。黄色に変わった銀杏を眺めながら、1人優雅に卵焼きを口にした。少し回復したみんなの恨み節を聞き流し、本題に入る。
「僕は何故猫に嫌われるのでしょうか?原因や解決策があったらなんでもどうぞ」
「あ、それ仕草だよ」
「えええええええ」
「えええええええ」
一瞬で解決した。
店長いわく。
「なんかね。君の仕草や癖は猫に近すぎるんだよ。例えば、かなり違う生き物である猫が人間と全く同じ仕草してたら、絶対怖いでしょ?それの逆。だから君が微動だにしないなら猫は怖がらないよ」
ということらしい。
僕は猫が好きで、ずっと猫を見てきた。そのせいか無意識に猫の仕草や癖をマスターしてしまい、それが猫を怖がらせていたらしい。僕の仕草がキモいと言った師匠の勘もあながち間違ってなかったし、人間とコミュニケーションを取るのも、仕草や癖をリセットするって意味では正解に近かったのかもしれない。
「因みに師匠は何なんですか?やっぱり仙人の仕草ですか?」
「うーん。1番は顔かな。猫が好きそうなパーツ配置してる。まぁ仕草も自然だし、総合的に好かれやすいんじゃないかな」
「猫の好きな顔ってなんだよ。わけわかんねーわ」
「なるほど…。ではやはり師匠の頭を移植するのが1番ですか」
「まてまてそれはおかしいだろ」
「頭を移植するより顔のパーツだけ取るとか皮を剥いで被る方が楽じゃない?」
「お前も何言ってんだ。発想が猟奇的すぎるぞ」
取り敢えず原因はわかった。解決策も考えた。
自然だというなら、師匠の仕草を真似するのが手っ取り早いということらしい。
「つまり、君と師匠の関係は心だけでなく、身体の関係にもなったということだね!」
「張っ倒すぞ」
と言うわけで仕草をみっちり学ぶべく、師匠宅に居候することにした。師匠は納得していなかったが、愛弟子の一人や二人養う甲斐性は持つべきであるとか弟子が可愛くないんですかとかなんやかんやてんやわんやと、嘘泣きしてたら説得出来た。甘すぎる。
寒さが増し、暗い空が多くなってきた。手を擦り合わせながら、師匠の家へ向かう。
師匠の家は地獄だった。
師匠は壊滅的に家事が出来ないらしい。家事って言葉すら知らないんじゃないのこれ。洗面台、風呂場、リビング、どこも酷かった。唯一まともな寝室ですら、ゴミが散乱して足場が見えない始末。何故こんな遺物が充満しているのに、ここで暮らす師匠はわりかし小綺麗な恰好なのだろうか。仙人パワーか。仙人パワーなのか?
人間である僕は絶句したまま狂った思考を回し、目の前の光景に死すら覚悟した。
僕の家事スキルがうなぎ登りで止まるところを知らない。もともと自信があったが、今はゴミ屋敷すら処理出来る自信がある。人間、死を前にすると何でも出来る。僕の前にゴミはなく、僕の後にゴミはない。ふはははは。
「狂ったか」
「誰のせいだと思ってるんですか。ぶん殴りますよ」
「すみません」
師匠との生活は割と順調だった。片付けにかなり力を入れたため、仕草がどうなってるかはまだわからない。ただ僕がこなした家事全般について、師匠はとても感謝していたし、同時に頭が上がらなくなっていた。師匠から仕草と住居を分けて貰い、師匠は僕に家事を任せるといった良い関係だった。
僕は大学生だ。だからたまに大学の講義に行っている。しかし、師匠はいつもの公園で猫と戯れているか、部屋で惰眠を貪っているかで、全く仕事も学校も行く様子がない。居候する前は気にならなかったが、この人はどうやって家賃やらなんやらを払う収入を得ているのだろうか。
「仙人である師匠ならば、食費は霞を食べることで浮かせているのでしょうけど、その他の生活費ってどうしてるんです?」
「いま、目の前でお米食べてるんですが」
気になるので食事の時に雑談混じりに聞いてみた。師匠の無駄な突っ込みを無視する。
「どうなんですか?」
「……実家が金持ちでな。一生働かなくても大丈夫なだけもう貰ってる。まぁ勘当されてるから定期収入もないけど、俺は贅沢しないし。このまま何となく自由に生きてくつもりだ」
どこか言いにくそうに、でも、ちゃんと師匠は教えてくれた。話してくれた後の、どこか物憂げな師匠の表情を僕は忘れられなかった。
師匠が高等遊民であることが判明したので、僕は大学がない時はずっと、こたつで丸くなる師匠を眺める事にした。観察時間を有効に使うため、1度大学にも連れて行ったが、元々警戒されていた僕が人を連れてきたことで、さらに警戒され事務に呼び出された。しかも師匠に『化け物の子』なんていう呼び名が広がったので、連れてくのは止めた。
充実した時間はあっという間に過ぎていった。
仕草が少し直ったためか、まだ猫は逃げるものの、前みたいに必死で逃げられてしまうことはなくなった。
そんなわけで、ペットショップBANの出禁が解除され、間近で猫を見られるようになった。店長はとても喜んでくれて、お祝いまでして貰った。お祝いの時、感極まって気が緩んだ僕の仕草に、猫が発狂しかけたのはご愛嬌とする。
師匠は相変わらずだった。仙人らしく1日寝て過ごし、仙人らしく猫の中心で演説していた。師匠は本当に自由で、楽しそうに生きていた。僕には出来ない生き方で、羨ましくてーーーーその姿を焼き付けるように記憶した。その甲斐あってか、居候始めて約半年、僕は完全に仕草をマスターした。
「住まわせてくれて、ありがとうございました。師匠」
「俺は何もやってないけどな。むしろ家事をやってくれてこっちが感謝だ。久しぶりに真人間として生きられた」
「え、家が綺麗だと人間に戻っちゃうんですか」
「初めから人間だ」
ひらひらと桜が散っていく。
師匠とはこれでお別れになる。半年間の居候生活を含めて、ちょうど1年前に弟子入りした。あの日も、桜が舞っていた。
そう。猫に嫌われなくなった今、師匠はもう、師匠ではない。
「師匠、本当に、本当にありがとうございました。僕は大好きな猫に、嫌われ疎まれてきました。猫に嫌われるあまり、ムキになって、さらに悪化して、周りの人にも疎まれるようになって孤立していました。そんな時、師匠がきちんと話を聞いてくれて、師匠を引き受けてくれたこと、絶対に忘れません。原因や解決策を出してくれたのは店長だったけど、その店長との和解のきっかけは師匠です。あの、もう一度、本当に、ありがとうございます。恩はまだまだ返せてません。困ったことがあれば、何でも力になります。今まで、お世話になりました」
涙が溢れる。声が震える。僕は師匠に本当に沢山のものをもらった。師匠との楽しい日常。大好きな猫との和解。店長や店員さんのいる居場所。
言葉では全然伝えたりないけど、しっかりと、言うべきことを言い切った。
俯く僕を見て、師匠は苦笑すると、僕に向かって言葉をかける。
「感謝はありがたく頂くよ。でも前にも言った通り、この結果は全部お前の力さ。それにな、あー、まぁ、俺も楽しかったし、感謝してるんだ。俺は、ずっと自由で孤独だった。それを嫌だと思ったことはなかったけど、つまらなかったんだ。そして、それに気付いたのはお前と出会ってからだ。わけわからんこと言われたり、猫缶でめちゃくちゃにされたり、めちゃくちゃしたこと、全部楽しかった。今までの毎日はずっと灰色だったことに気付いた。お前を弟子にしてからの1年は、人生で1番楽しい1年だったよ。あと、まぁ、なんだ。あー、あ、ありがとうな。一緒にいてくれて。うん、そうだな。恩が返せてないと思うなら、焼肉奢ってくれよ。最初に言ってただろ」
そう言って師匠は、恥ずかしそうに微笑んだ。でもそれは、今までで1番綺麗で本当に幸せそうな笑顔だった。
「……話、分かりにくいです。長いのは人生だけにしてください……」
「お前より年下なんだが」
「えっ」
最後にBANのみんなも呼んで焼肉に行った。帰りに夜桜を見て、一晩中騒いだ。落ちる花びらがライトに照らされ、形のない影が踊るように動いた。
それは、間違いなく今まで生きてきた中で、1番楽しい1日だった。
その日を最後に師匠はいなくなった。
雨が強く降っていた。あの日楽しく眺めた桜の花は、雨に叩き落とされてしまっていた。
きっと前から準備していたんだろう。家には何も残っていなかった。まるで夢だったかのように全てが消えた家の中で、流石仙人と、小さく呟く。言葉は雨音にかき消され、誰にも届かない。
師匠の不在に気付いた次の日、師匠に初めて会った公園に行った。
すっかり花が落ち、茶色になった桜の木をベンチで眺めていると、1匹の猫が手紙を持ってきた。金で縁取られた無駄に高そうな封筒に下手くそな字で『弟子へ』と書かれていた。
本当に仙人みたいなことをする。思わず笑ってしまった。手紙を受け取る。猫を撫で、ありがとうと呟いた。
手紙には、『お前を見て勇気が出た。俺もきちんとやるべき事をやろうと思う』と書いてあった。
きっと、部屋が綺麗になったから真人間に戻ったのだろう。そんなことを思った。
桜の木には、青い芽が覗いていた。
僕は大学を卒業した後、BANで雇ってもらい、暫くして店長と結婚した。
結婚式の写真がある。
そこには、妙に神々しい袴を着ているせいで、変に浮く仲人の姿があった。
それでも彼の周りでは、沢山の人が穏やかに笑っていた。
何故か新郎新婦よりも輪の中心にいる彼も、みんなと一緒に、楽しそうに笑っていた。