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月の通り道  作者: 中島八四
4/4

その三 「その裏側に何があるか」


 そして、夜になった。

 安ホテルで休息を取った月読と千代は出立に必要なものを買いそろえたあと、大きな荷物を残してホテルを出た。

「…着物なんて、もみくちゃになって全部脱げちまうぞ、月読」

 体のラインが目立つへそだしTシャツにダメージジーンズ姿の千代は着物の掴んだ長い裾をひらひらさせて忠告した。

「後ろの方で聴くだけなら大丈夫でしょう」

 ブーツを鳴らして歩き出す月読は聞く耳を持たない。

 ライブハウスまでの道のりを先行する月読の背中に、千代は小さな声で「…後悔するぞ」と呟いた。

 ライブハウスに到着した二人。地下への階段を下り、受付にチケットを見せて防音扉を開く。

 扉を開ければ、既に大学生バンドが演奏していた。

 この手のライブハウスでは対バンと言って、数時間の間に複数のバンドが入れ替わり演奏する形式を取っている。客側は一枚のチケットで全てのバンドを観る事も出来るし、特定のバンドだけを観て変える事も出来る。

 これは、バンド側は客数を稼ぐ事と自分たちの宣伝になるという事、客側は自分の都合に合わせてライブを楽しめるという利点がある。

「すごい音と熱気だねぇ!」

 スピーカーから発せられる爆音と、キックに合わせて飛び跳ねる観客。指先で耳を押さえながら月読は千代に感想を述べた。

「え? なんて?」

「音と熱気がすごい!」

「? ……そうだな!」

 こりゃ聞こえなくて無難な返事を返したな。月読は表情でそう読み取って、伝える事を諦めた。

 ガレージ・ロックの大学生バンドが演奏を終えて、観客の歓声を受けつつも下手に下がる。少しして、次のバンドが上手から上がって来た。

 男二人女二人の高校生バンドがそれぞれの場について、弦楽器のジャックにシールドを差して、ドラムを軽く叩いて位置を微調整する。

「じゃあわたしは前に行くから、月読は後ろでジュースでも飲んでな」

 月読の耳元に口を近づけた千代がそう告げて少女の側を離れる。月読はバーカウンターに座ってオレンジジュースを頼んだ。

 少しだけ緊張を顔に出した少女のMCを終えて、ドラムスティックの乾いた音が四度響いてから彼女らは演奏した。

 パワー・ポップのギターサウンドに乗せられて客は舞い上がり、体を動かす。

「…、…、」

 黒い着物の小さな肩も自然と上下に振動する。

 そして少女は歌いだした。 

 それは平和の歌。武力放棄と争いの否定を歌った綺麗な歌。

 空の青、広大な海、人の笑顔や自然の荘厳さを歌ったその歌は少年少女の純粋な瞳で唱えられ、世界に響く。

 穢れの無い綺麗なその瞳は、清流のように済んだ色をしていた。

 その歌曰く、どのような理由があろうとも武力行使は悪らしい。

 その歌曰く、悪人は愚かで下劣でこの世の誰も、必要としない存在らしい。

「……」

 月読はその歌を聴きながら、この瞬間に至ったこれまでを思い出していた。


○  ●


 アメリカ村の中心、三角公園の階段に腰掛けて月読は不貞腐れていた。

「千代が車の免許持ってたらなぁ…。それも大型トラックの」

「無理言うなよ。わたしたちは人間じゃないのに。……というか、そんなに服が欲しかったのかよ」

「とーぜん」

 両膝に頬杖を突いてため息を一つ。

 時刻はそろそろ夕方。アメリカ村の盛りはこれからだというように徐々に人が増えて来た。

 しかし、人を呼ぶのはビルの合間に隠れる朱色の太陽だけではないらしく、野次馬が公園の近くの櫓のような舞台の周りに集まっていて、見上げればうさぎのように軽やかに舞っているアイドルらしき少女がいた。

「…騒がしい」

 胡乱な目でその光景を見上げて、月読はぽつりと呟いた。

「アイドル曲はお気に召さないかい?」

 隣に並んで腰掛けた千代が茶化すように聞いて来た。

「別に嫌いという訳ではない…というか、興味ないけど。いま聞きたい気分じゃないかな。

……ああいう音楽。アメノウズメとしてはどーなのよ」

 月読は巨大なスピーカーで情け容赦なく周囲を響かせる音の集まりから意識を外した。

「演劇、舞踊、音楽その他諸々、芸能に関するものを広く司る芸能神としては、最近の音楽も嫌いじゃないよ。楽しければいいじゃないか」

「おーざっぱ」

「どいつもこいつもそんなもんだろ」

 確かにそうだったと苦笑した月読。それを一瞥した千代は逸らした視線の先にたこ焼き屋を見つけ、気晴らしにと二人分買って来て、元の場所に腰掛けた。

「大阪に来たなら一度は食べないとな」

「…食べてばかりな気がする」

 渡された透明なパックを開けると、まだ熱々の八つの玉からソースの匂いを携えた白い湯気が顔を覆った。

「よく冷まさないと口の中火傷するぞ」

「わかってる」

 爪楊枝で八つの中の一つを突き刺して、持ち上げる。

 鰹節の踊りはまだまだ続いている。なんども息を吹きかけて冷ましてから、それでも丸ごと口に入れず、歯で噛んで半分だけ口に入れる。

「あっふ…!」

 燃えるような熱さをはふはふと口の中で空気と絡めつつ咀嚼すると、小麦粉で出来たふわふわの種とアクセントになるぷりぷりの蛸が、ソースやマヨネーズや青のりや鰹節で味を着飾って少女の味覚を覆う。

 大阪の料理のずるい所はソースの匂いがお腹の中を強引に空かせる所だなと月読は思った。

「これは手が止まらないわ…」

 千代の呟きに同意するように月読ももう半分を口に放り込んで二個、三個と立て続けに口に入れた。中はもう食べやすい温度になっていた。

 そうしてあっという間に六つを腹に入れて、七つ目を爪楊枝で刺した時、公園の向こう側からどうも耳に着く話し声が聞こえて来た。

「――ほら、早く行きなって」

「――さっさとしないと行っちゃうよ!」

 前後の会話が解らなくてもその黄色い声だけで内容が手に取るように解る。

「んー…?」

 小さな舌にたこ焼きを乗せながらなんとなくゆるりとそちらに目を向けると、男が二人女が二人の若いグループがそこにいた。合計四人の内高校生くらいの女二人が同じく高校生くらいの男二人の片方の背中を押して囃していて、それを残りの男が呆れたように傍観していた。

「……ん?」

 さて、そこで月読は違和感というか、疑問点が出来た。というのもその四人、視線の矛先がこちらに向いているような…?

 一悶着二悶着。それはそれは若くて青いやりとりを繰り返していると、やがて意を決したように高校生くらいの少年が一人でこちらに近づいて来た。後ろの少女二人に肩を叩かれて。

「…なにあれ…?」

 彼は何度も何度も逡巡して、その度に女性陣に行けと指図されて一歩一歩を迷いながらも着実にこちらに距離を詰めて来た。

「あ…、あの!」

 そしていよいよ、顔をほんのり赤く染めた少年が声を上ずらせながら話しかけて来た。それも、千代に。

「あん? なにか用かい? 少年」

 千代は粗暴ながらも柔らかな雰囲気で以て対応した。

 その少年はまさしく人畜無害が服着て歩いているような見た目と雰囲気で、背丈も小柄。さすがに月読よりかは大きいけれど、それでも百六十センチあるか否かというくらいだ。

 はじめに月読が彼ら四人を高校生くらいと見立てたのは彼らがブレザーを着ていたからで、中でも目の前の少年はブレザーを着ているというよりブレザーに着させられているような感じがあった。

 彼は短く切りそろえた黒髪を僅かに揺らして、一歩前へ出た。

 そして、ブレザーのポケットから手のひらに収まるくらい小さな紙を取り出し、千代に捧げた。

 彼は、最後の一個のたこ焼きを口に入れる月読の前で、千代にこう告げたのだ。

「これ、受け取ってください!」

 唐突な告白の現場を目撃し、手に持っていた透明なパックが地面に落ちた。

 ああ、完食してからでよかった。


 呆気に取られる月読と千代の前ですぱん! と軽快な音を立てて少年の頭が叩かれた。

「語弊を招くでしょうに!」

 叩いたポニーテールの少女に続いて、後ろから男女が一人ずつ近づいて来た。

 そのポニーテールの少女が代表して二人に説明する。

「すみません。なんだかこの男が告白したような感じになってしまって。……違うんです。実は、唐突な話ですけれど折り入ってお願いがあるんです」

「初対面のわたしたちにお願いごとかい? ……まあ、とりあえず話だけは聞くよ」

 月読が落としたゴミを拾って近くのゴミ箱に捨てている間、千代が四人の話を促していた。

「突然話しかけてすみません。……なんだかお二人は、願い事を聞いてくれるような気がして…」

 月読と千代の二人は立ち上がって四人と対峙して、とつとつと話すポニーテールの少女に意識を向けた。

 少女は先の少年から受け取った紙切れを改めて二人に見せた。

「……実は、わたしたちのライブを観に来て欲しいんです」

 そこで月読は、四人がそれぞれ手に持っているギターやベースや、ドラムスティックのケースに目を向けた。

 ポニーテールの少女は手に持ったギターケースを地面に置いてヘッドに手を乗せて支えた。

「まずは自己紹介ですね…。わたしたちはこの四人でロックバンドを組んでいるんです。……わたしはサイドギター兼ボーカルの能代美月。隣の告白まがいのセクハラ行為に及んだ気弱そうなのがリードギターの鹿島知男、そこの小柄な女の子がベースの沖野あやめ。そして、一番後ろですかした態度の大きな男がドラムの日向柊一郎」

 彼女は一人ずつ手で指し示しながら紹介していった。それぞれが紹介されるたびに一言挨拶をしていった。

「こんにちは。わたしは千代、こっちのちっこい着物は…そうだな、月子とでも呼んでくれ。……しかし、このご時世、ロックバンドなんてそうそう流行らないのによくやるね」

 神は名前を呼び合う時は神社を愛称で呼ぶ人々に倣ってあだ名を使っているのだが、月読の場合は特にあだ名を決めていなかったので、千代が適当な名を付ける。

 千代の歯に衣着せぬ着せぬ物言いに、少女は乾いた愛想笑いを返した。

「まあ、確かに昔ほどロックは盛んじゃなくなっちゃいましたよね。…でも、それでもまだまだロックを鳴らす人は少なくないんですよ、特に大阪は。この辺りではライブハウスもたくさんあるし、大阪からプロになる人もたくさんいるんです」

 妙に誇らしげに語る能代は、それから脱線した話を戻す。

「それで本題ですが、料金の半分はこちらで払いますのでわたしたちのライブを見に来てはくれないでしょうか。…本当は料金を全額負担したいくらいなんですけど、学生の身でそれは厳しくて…」

「それはいいけど、通りすがりのわたしたちにどうしてそこまで…?」

 千代の問いに、少女以下三人は目を伏せた。

「わたしたちみたいな学生バンドは、小規模ライブハウスでライブをするのが普通なんですけど、そういう所では大抵ノルマが課せられているんです。ようは、それぞれのバンドに一枚いくらかのチケットを何人に売るっていう目標が決められていて…」

「それで、そのノルマが達成出来そうにないと…?」

「普通のライブハウスなら簡単に達成できる目標だったんです。メンバーでも友達を誘おうって言っていて…。でも、今回ライブするライブハウスの名前を言うと、友達がみんな買ってくれなくなってしまって…」

「いつもは買ってくれたのに? そりゃまたどうして」

 千代のその問いに、能代はずいっと二人に顔を寄せて、口元に手を当てて急に小声になった。

「…実はそのライブハウス。……出るんです」

「…は?」「…出る?」

 二人はそろって首を傾げた。

 そこからの彼女の口調は、まだ太陽のほとんどが姿を隠しているそこで、百物語を語るようだった。

「はい、どうやらそのライブハウスでは昔からよくないことがたくさん起きているらしいんです。例えば、ライブ中に突然照明が落ちたり、例えば、新品のケーブルがなんの前触れも無くショートしたり…。この辺りでは有名らしいんですけど、わたしたち全員が今回誘おうとした友達教えられるまで知らなくて…」

「…それで、背に腹は代えられず、チケット代の半分を出してでも通行人のわたしたちに声を掛けた…と?」

「…その通りです」

 そう言って能代はチケットを胸の前に掲げた。

「見ず知らずのあなた方に、気持ちの悪い願いをしていることは自覚しています。…それでももし良かったら、わたしたちのライブを見に来ては下さいませんか…?」

「……」

 ちらりと月読は千代の方を伺った。

 この四人ははじめから千代は月読の保護者だと思って接している。わざわざそれを訂正するのも話に水を差すので不本意ながら決定権を彼女に譲ったのだ。

 彼女は目を閉じて思案していた。おそらくは今から下す自分の選択が目の前の少年少女らにどう影響するのかを考えているのであろう。

 彼女らが自分たちに関わって来た時点でもう彼女らの縁は多かれ少なかれ乱れている。ならば、もう千代が考えることはどちらの選択が国家安寧もしくは少女たちの将来に良い影響を与えるかなのであるからだ。

 ともあれやがて千代はその長いまつげの双眸を開き、了承を意味する緩い笑みを四人に向けた。

「いいよ、買って上げる。いくらだい?」

 四人はお祭りの日の子供のように表情を明るくした。

「ありがとうございます! 料金は――」

 まあ、その答えは予想出来ていたけどね。

 千代と能代が具体的な取引を交わしている間、月読は心の中だけで少し得意げだった。

 というのも月読と千代はもう長い付き合いで、彼女がこういう手合いに弱い事を熟知していたからだ。

 面倒見が良いというべきか安請け合いしがちというべきか。月読自身、彼女と同類なのであまり言えた義理も無いが、ともかく彼女は捨てられた子犬を放っておけないタイプで、まさしくそんなような表情で見上げる少年少女を前にして冷たくあしらえる女では無かったのだ。月読から見ても、素直に彼女らの願いを聞いた方が国家安寧と彼女らの将来に良い影響を与えると感じたことも、その決断を後押ししたらしい。

「それでは、ライブは明日ですので、どうかよろしくお願いします」

 そう言い残して少女たちは三角公園を後にした。その後に残ったのはチケットを手にした千代と、月読と、雑踏だけ。太陽の光はもう無い。

「――というわけで、明日はインディーズバンドのライブに行くぞ、月読」

 たこ焼きが入っていた透明なパックを捨てに行ってから千代はそう告げた。

「はいはい。まあ、これも何かの縁、だよね」

「その通り。……それに、気になる事が出来たし…」

 月読は彼女の言葉に無言で首肯した。

 それから、今日は懐刀の手入れを欠かせないなと静かに感じた。

「その前に、今日の宿を探そう」


 そして、夜。

 太陽は日本海の向こう側に隠れ、代わりに十六夜の月が孤独に浮かぶ。空が深い群青になるほどこの街の夜は明るいからだ。

 この街は今日も夜更かしだ。

 さて、今日の宿を見つけた月読と千代はキャリーケースをそこに置いて来て、渡されたチケットに書かれた場所にやって来た。

 アメリカ村の外れの、小さな雑居ビルのその地下への階段を前にする。

 階段はタイル張りで、壁一面に色々な形態のアーティストのポスターが張られていて更にスプレーで描かれた落書きが暴れている。

「てっきり、もう閉まっていると思ったんだけど…」

 そう呟いて立て看板に目を移す月読。その視線の先には、高く月が昇っていてもなお煌煌とライブハウスの名前が輝いていた。

「そうだな、明日になればまた人が入るから、前日のうちに終わらせたかったけど…」

 千代はそう言って舌打ちした。

「…閉まるまでどこかで待つ?」

「…夜更かしはしたくないな…。肌に悪いから」

 そして二人は静かになってしまった。

「あれー? お二人、こんな所でなにしてるんですかぁ?」

 すると、通りの向こうからふわふわした声が二人の耳を叩いた。

「おや、君は確か昼の…、ベースの沖野ちゃん。…それから、ドラムの日向くん」

 社交性のある千代がすかさずその声の主に言葉を返した。

 ベースケースを日向が担いでいて、身軽な少女がこちらに駆けてくる。

「こんばんは千代さん、月子ちゃん。……ライブは明日ですよ?」

「ああ、承知してるよ。…でもまあ、なんだ。慣れない土地だからね、下見をしておこうかと思って」

 素なのか計算してなのか、愛らしく小首をかしげる少女に千代は適当な嘘を吐いた。

「そうなんですかぁ…。そこまでしてくれるなんて、感激ですっ」

 きゃるーん! という擬音が似合いそうな調子で小さな手を胸の前で組む。

 そんな仕草を歯牙にもかけない千代は続けて少女に問うた。

「…君らはどうしてここに?」

「明日の準備です。…普通のライブハウスなら当日のお昼頃から始めるんですけど、ここはたくさんトラブルが起きるからって、前日のうちに出来る事は済ましておくようにしているんだそうです。…といっても、必要な書類を渡すだけですけど」

 そう言って彼女は右手に持った紙袋をこちらに掲げた。その中に書類の束が見える。

「ずいぶん苦労しているみたいだね。…他の二人は?」

「書類を渡すだけなので、帰りがけに行けるわたしたちだけです。……でも、明日は緊張しちゃいます」

 なんとも初々しい。そもそもライブの経験がまだまだ浅いのだろう。

 月読はそこで顎に手を当てて少しだけ思案した。そして、千代が相づちを打つ前に小さく手を挙げる。

「もし迷惑でなければその準備、見学したいんですけれど大丈夫ですか? わたしたち、音楽に興味があるので」

 月読と同じ目線の高さの少女は、月読よりも数段高いテンションで答える。

「うぅん…。どうかなぁ? 大丈夫だと思うけれど…。どう思う? しゅうくん」

「…とりあえず、主催者に聞いてみないと」

 大きな男は低い声でそう言った。

「うん、そうだね。……ごめんね、月子ちゃん。ちょっと訊いてくるからここで待っていてもらっていい?」

「はい。こちらこそ、手を煩わせてしまってすみません」

 そして小さな少女と大きな少年は地下への階段を下って行った。

 あとに残された女性二人のうち、千代が月読の頭に手を乗せる。

「ナイスだ月読。これでとりあえずは中に入れる」

「…中に入れさえすれば、まだやりようはあるからね」

 ふふんっ。と彼女は鼻を鳴らした。

 沖野はものの五分もすれば階段を上って来た。

「待たせてごめんなさい。千代さん、月子ちゃん。…大丈夫、入って良いよ。音楽好きなら大歓迎だって、主催者さんが」

 にぱー、と笑う少女に、月読は感謝の微笑みを返す。

「ありがとうございます、沖野さん。勉強になります」

 そして二人は正面切って階段を下った。

 防音加工された重い扉を沖野が全体重をかけて開け放つ。

「どうぞ。でも、作業の邪魔をしちゃダメだよ」

 扉を開けた先は、薄暗い空間ではなかった。

 その空間の天井の至る所に取り付けられた電灯のうち、白色のライトだけが点されていて、ライブハウスといえば頭に浮かぶ薄暗さはそこには無かった。

 規模としては三百人くらいで、今はがらんとした黒い空間で、数人の男性がそれぞれの作業に浮けっていた。

「それじゃあ、わたしたちはスタッフさんに書類を渡してくるから、好きに見て行ってね」 そして二人は千代と月読を残してステージ裏に消えた。

「さて……――」

 二人して、まずは息を吐く。

「まずは、どこから見て行こうか、月読」

 月読はとりあえず辺りを観察した。

 リノリウムの敷かれたタイル張りの真っ黒な床に、真っ黒な壁、渡された三角トラスに照明が吊られた黒い天井。

 パイプの柵に区切られて一段上がったステージの上には、照明を受けてキラキラ輝くドラムセット。それから月読の背丈くらいはあるギターアンプが二つとベースアンプが一つ。

 その三者で飾るように舞台の手前中央に立っているのがマイクスタンドと、それに付けられたダイナミックマイク。その両脇に、同じマイクとスタンドが一本ずつ。

 このライブハウスはスタンディングなのでホールの中央に机や椅子が無く、代わりに壁に沿うように長机や丸椅子が並んでいた。

 さらに、舞台から見て左側の辺にはバーカウンターがあって、正面にはPAブースや照明ブース。右側には月読たちが入って来た防音扉がある。

「こんばんは、お嬢さん方。主催者の者です。初めて見るライブハウスはどうですか?」

 月読がぐるりと空間を中を見渡していると、ラフな格好をした三十代前半の男が二人に話しかけて来た。

 千代がその男に対応する。

「ええ、こんばんは。すみません、突然押し掛けてしまって。この娘がどうしてもというので…」

「いえ、全然構いませんよ。音楽好きが増えるのは良い事ですから」

 そして男は膝に手をついて月読と視線を合わせる。

「どうだい、お嬢ちゃん。珍しいものがたくさんあるだろう? 好きに見て行っていいからね」

「はい、ありがとうございます」

 月読はゆるりと頭を下げて、千代のもとを離れた。

 少女はまず、ステージ手前に並ぶモニタースピーカーに手を着いた。黒いスピーカーのメッシュの奥を覗く傍ら、月読は周囲を観察する。

 彼女の小さな背中越しに、千代と主催者の会話が聞こえる。

「ところで、小耳に挟んだんですが、ここはよく『出る』そうで」

「…ええ、まあ、嫌な話ですが。他のライブハウスに比べてトラブルが多いのは事実ですね」

「巫女や坊主を呼んだりした事は?」

「私はそういったことは信じない主義ですので。……恥ずかしながら、気休めにお金を出す余裕もありませんで」

「…そうですか」

 月読が天井のスポットライトを見上げてその明るさに目を眩ませていた時、突然ジジジと数度点滅してから、空間全体が暗転した。

「…おや」「もーまたー?」と方々からうんざりするような声が飛び交う。

「誰か、ブレーカーの確認してくれー」

 そんな主催者の声が聞こえる中で、月読は誰にも聞こえない声量で「…来た」と呟いた。

 彼女は、耳を澄ます。

 密閉された空間の僅かな空気の流れを感じて闇の中、月読命の世界で周囲の縁を感じる。

「……」

 そして彼女は自分の帯に手を伸ばした。

 帯の左脇に差している刀袋。その紐を解く。

 全長が一尺三寸、刃渡りが一尺の中脇差し。鞘も柄も漆塗りの黒で、鍔は無い。

 少女はその脇差の柄巻が巻かれていない黒い柄を白い小さな手で抜き放って、白刃を白日のもとに晒す。

 その刀身に反りは無く、その峰も刃も月光のような直線を描いていた。

 天津麻羅に造らせた自慢のその刀の名は、『斬火』。火輪の矢を斬り捨てた事で名付けられた自慢の刀だ。

 しかし、その刀身も柄もこの闇の中では目に見えない。

「……っ!」

 そして彼女は聴いた。

 何かが焼けるような弾ける音を。

 瞬間、月兎のように黒いブーツで床を蹴る。

 一足飛びで天井まで跳び上がり、左手で三角トラスにぶら下がりながら右の刀で床にいた者を斬る。

 スポットライトを燃やそうとしていたその者。シワとシミだらけの肌。泥だらけでぼさぼさの長髪。雑巾のようにぼろぼろな衣服。あとは、身体中にまとわりつく黒い炎。

 月読は、その者の名を呼んだ。

「…姥が火」

 それは妖の名だった。

 少女の脇差の刃はそれを捉えきれなかった。切っ先で少しだけ肉を斬っただけであった。

 しかし、姥が火は大仰に仰け反り、悲鳴を上げ、石火のような速度で月読から距離を取り、あちらこちらを駆けずり回り、最後には月読たちの入って来た防音扉を開け放って遁走した。

「逃がした…」

 悔しそうに歯嚙みする月読。暗闇の中で音も無く床に降り立って、誰にも衝突することなく姥が火の後を追った。

「わたしは争いごとは得意じゃないから、あとは頼むよ」

 すれ違い様に千代のそんな声が聞こえた。

 防音扉を抜けて降りて来た階段を見上げれば出鱈目に壁にぶつかりながら登った先を右に消える火の粉の欠片が見えた。

 とん、とん、とん、と数段跳ばしで駆け上がった彼女は姥が火よりも数倍速い速度で追いついて、身体を回してその背中を路地裏に蹴り飛ばす。

 路地裏の壁に叩き付けられた姥が火はその壁に焦げ跡を残しながらも再びその小枝のように細い足で地面を蹴る。

「遅い!」

 しかし、その足首を月読のブーツが踏みつけて、そのまま骨を砕く。

 一層大きく悲鳴を上げる炎を纏った老婆。びた、びたと地面でうごめく右手が小指の先ほどの小石を見つけて、黒い炎の火力で月読の額へ射出した。

「ッ!」

 それは拳銃の弾丸ほどの速度。

 だが、一閃光った白刃の一振りが小石を捉え、跳ね返った小石が撃った者の右肩を貫いた。

「動くな」

 少女は地に下る黒い炎を纏った老婆に脇差の切っ先を向け、己が何者であるかを告げる。

「我が名は。天津神、三柱の貴子が一柱、太陰神・月読命である。無用な反抗はその身を滅ぼす事と知れ。……その方、名はなんという」

 夜の空のような黒い双眸、夜の風のような冷たい口調で問う月読に、姥が火は静かに従った。

「…生きている頃の名は忘れました。…戒名も。今はただ、この地の若者から『お化け』だの『幽霊』だのと呼ばれるだけでございます」

「…そうか」

 月読はとりあえず相手に反抗の兆しは無いと判断し、向けていた脇差を下げた。

「今しがた、若者から『お化け』だのと呼ばれていると申していたが、先の場で近頃頻発していると聞く不可解な騒ぎ、その方の仕業であい間違いないか」

「…はい、その通りでございます」

「なにゆえそのようなことに手を染めた」

「それは、あそこがもともと私のいた土地だからでございます」

「……詳しく申せ」

 そしてその老婆はとつとつと自分の事を話し始めた。

「もともと、あの場所は墓地で、わたしはそこに眠る死者の一人でございました。小さな寺の小さな墓地でありましたが、墓参りに来る者が絶える事は無く、特にお盆には毎日のように生者の顔を拝む事が出来ました…」

 でも、それは唐突に出来なくなりました。その老婆はそう言って目を伏せた。

 月読は話を促す。

「それは、なにゆえぞ」

「…この街全てが、炎に包まれたのです」

 その老婆は当時の光景を思い出す。

「……空を行く鉄の大鳥は飛行機、それが落としていく弾ける塊は爆弾というらしいのですけれど…。長い長い唸るような音は聞こえたかと思えば、それらが空一面を覆ったのです。…そして、何もかもが燃えて壊れていきました。寺も、墓も、人も…。見渡す限りの何もかもが燃えていき、そして気づいた時には霊魂であるはずの私の身体まで燃えていたのです」

 その老婆は静かに涙を流した。しかし、身体にまとわりついた黒い炎がそれを乾かしてしまう。

「すべての災いが過ぎ去って、人々がもう一度やり直そうとし始めた頃。私の居場所はどこにもありませんでした。ここにあった墓地の霊魂全てが、無縁仏となったのです。墓石は撤去され、骨は掘り返され、そこに建物が建ちました。……その建物こそがあのビルなのです」

「だから、あの地を使う者に災いをもたらすというのか」

「…私は、ただ自分の居場所を取り戻したかっただけでございます」

「それは違う。悪だ」

 月読は静かに断じた。

「現世は生者の世界である。この世を生きるのは生者であって、神や妖といった霊魂の類いではない。死した者がいつまでもこちらに縋って良いものではないのだ」

 それはまるで、自分の首を絞めているようだった。

「霊魂がこちらに留まって人々に災いをもたらす事は生者の縁を乱す事に他ならない。わたし達八百万の神々は災いを人の平和を乱す者がいるならば斬り伏せ、黄泉の国に送るだけである」

 少なくとも自分は、人々を良い方向に導いている。月読は心の中でそう繰り返した。

「……」

 押し黙った姥が火に月読は静かに言った。その右手を袈裟斬りに振りかぶる。

「痛みは一瞬だ。…我が母も歓迎なさるであろう」

 右手に力を込めた。

「…それでも」

 その老婆がぽつりと言葉を漏らした。

「……」

 月読は老婆の反論を聞く前にその喉を斬ろうと思った。だが、それは老婆の次の言葉で達成出来なくなった。

「私たちは、納得することはできません」

「……たち…?」

 背後に灼熱を感じる。

 チリチリと、月読の後ろ髪が僅かに燃えた。

「っ!」

 咄嗟に振り返り、その者の右腕を斬り捨てる。

 たん、たん、と老婆の身体を跳び越えて後ろに下がって距離を取る。

 そして前方を視認する。

 容姿や性別は違えど、老婆と同じように黒い炎を纏った老人が十数人が地に足を着けずにこちらを睨んでいた。

 先ほどの老婆が体を起こしながらこちらに言った。

「この者たちは皆、あの墓地に眠っていた無縁仏ですよ」

「その方らが皆、反抗する所存であるならば、力で斬り伏せるまでである」

「…もとより、そのつもりでございます」

 その言葉を聞き終えた月読が前に駆け出して、火を纏う老人たちが次々とこちらに飛来する。

 躱す挙動を取る先頭の一人の右腕を逆袈裟に斬って、返す刀でその後方の二人目を切り上げてその勢いで跳び、揃えた両足で水月を突く。

 そこに三人目の爪が月読の喉を狙う。

 空調の室外機を蹴った月読はそのままひらりと宙返り。避けたその首を斬り落とした。

 ごとり、と落ちるその頭を踏み砕いて着地して、先ほど右腕を失った一人を数度斬って殺す。

 一人の老人が咆哮を上げて黒い炎を吐いた。

「っ! …服が燃えるじゃない…っ」

 数歩助走を付けて三角跳びで高く跳んで高度を取り、上空から炎を吐いた者の脳を突き刺した。

 血に塗れる脇差を抜いた月読が二、三歩次の獲物へ距離を詰めて、硬いブーツの爪先でその顎を蹴り上げ、深く踏み込んで唐竹に斬る。

 真っ二つに割れる老人の間から、小石の弾丸が三発飛来した。

 初めの二発を躱し、最後の一発を刀身で弾いた。弾丸は自分が通ってきたまったく同じ軌道を取り、老人の額を貫いて動かなくした。

「…多いな」

 まだ半分も減っていない。

 されど、月読だってまだまだこれから。息は切れていないし、体も動く。

 この程度、最高神に比べれば足元にも及ばない。

 月読は手に力を入れ直して、ブーツの先に力を込める。

 だがそこに、だんだんだんだん、と弾ける音が月読の耳を叩いた。

 夜を貫く弾丸が炎を纏う姥や翁を襲い、鎮める。

 それを境に次々と火薬が弾け、弾丸の雨が瞬く間に老人共を制圧した。

 動かなくなった死霊たちは地に転がり、早送りするように瞬く間に腐敗し、風雨に消える。

 そしてその場で立っているのが月読だけになった時、月読を呼ぶ声に少女は振り返る。

「久しぶりだな。月読」

「…鹿島。……建御雷か」

 雷神にして武神・建御雷命がそこにいた。

 その者は無精髭を生やした二十代後半の男で、彫りの深い顔に険しい目つき、ぼさぼさの長髪が特徴であった。

 ピシッと綺麗に折り目の付いた光沢の無い漆黒の略礼服には、傷も汚れも一切見当たらず、中には柄の無い白いシャツ。首元を飾る純白のネクタイが周囲を威圧していた。

 ズボンのポケットに手を突っ込んだその男の左腰には、二尺三寸の打刀が一振り。純白の鞘や柄とそれに施された金箔の装飾が黒い服に映える。

 彼は綺麗に磨かれた黒い革靴で一歩、月読に近づく。

「現世はどうだ、快適か?」

「おかげさまで。魔布津八百神がしっかり仕事してくれれば、今日も快適に過ごせていたよ」

「こっちも忙しいんだ。無理言うな。……それと、最近は武神隊と呼ばれる事の方が多いぞ」

 魔布津八百神、近代になって英霊が急増し、それに伴い入隊を希望する者も急増してからは武神隊と呼ばれる事の方が多くなったその組織は、天照大御神の下、須佐乃袁命を長とした組織であった。

 その目的は乱れた縁を正す事、また乱す恐れのある妖を斬る事。

「…まあ、別に良いけど」

 月読は鹿島の男たちに目を移した。

 男たちの人数は十人前後か、薄茶色の鉄帽に薄茶色の軍服、軍靴。その他月読には何の為にあるのか解らない無数の装備を身につけてその男たちの手には、皆一様にボルトアクション式の小銃、九九式短小銃が握られている。

 次に月読は周囲に感覚を向けた。

 どの五感を用いても感じ取る事は出来ないが、神としての別の感覚を用いれば周囲と自分を繋ぐ縁が隔絶されている事が解る。鹿島が結界を張ったのだ。仕事を遂行するために生者が察知する事を防ぐ結界を。

 そこまで分析してから、月読は鹿島に視線を戻した。

「一応、お礼を言っておく。ありがと。…わたし一人でも十分だったけどね。うちの弟は元気? また、周りに迷惑かけてない?」

「特に変わりなく、相変わらず女に囲まれているよ」

「…またあの愚弟は…」

 それはそれは大きく呆れたため息を吐いた月読は、言いながら刀を鞘に納め、刀袋の緒を結ぶ。

 そして彼女はその黒いブーツで鹿島に背を向ける。

「それじゃあ、わたしはもう戻るよ」

「月読」

 着物の黒の、小さな背中を鹿島が呼び止めた。

「なに?」

 月読が振り返ると、財布から出した幾許かの紙幣をこちらに突き出す鹿島がそこにいた。

「妖退治の報酬だ。……武神隊でなくても出すのが規則だからな」

 ぱしっ。言い終わるか否かくらいのところで月読の右手がひったくる。

「…別に、お金の為にやったんじゃないし」

 抜き身の札をごそごそと襟の間に入れて軽く着崩れを直す。

「餌に飛びつく小動物のような素早さだったが…」

「旅はお金が掛かるのよ。……まいどあり、ありがとね」

 そして、もう一度月読は鹿島に背を向けて、もう一度鹿島がそれを呼び止めた。

 男は少女の背中にこう告げる。

「…悪神百鬼に、墜ちるなよ」

「……」

 少女はその声に、言葉を返さなかった。

 構わず鹿島は言葉をかける。

「…この国が天照の御子の家系によって治められてからそろそろ二千七百年になる。その間に色々な事が変わったな」

「そうね、高天原を追放されたわたしの弟だって長い時間の中で帰る事を許された」

「死んだ神々…正確には黄泉に墜ちた神だって、再び高天原の土を踏む事が出来るようになったな。あんたのおかげで」

「……」

「いろいろなことが変わったのに、変わってないのはあんただけだぞ、月読。自らの悲しみに明け暮れて暦の神としての力を乱用し、黄泉に墜ちた神を蘇生させたあの頃から何も変わっていない」

 その男はそう言って、少女を少しだけ振り向かせた。

「のちに陰陽道、天文学の神となった安倍晴明が天文学に悪い影響を与えるからとお前の暦の力を封印したとは言え、お前の本質はなにも変わっていないらしい」

「…それが悪い事だって言うの? 千代だって天衣織女だってもう一度目を覚ました時、とても喜んでくれた。誰かのためになる事をして、なにが悪いっていうの」

「天津神だったら、分かるだろう。それが人の世にどういう影響が出るのかくらい」

「じゃあ、目の前で悲しんでいる人を見捨てろって言うの? 神に救いを求めている人を、他でもないわたしたち神が捨て置くって言うのか」

「それがこの国とそこに住まう民草すべての為になるというのなら」

「わたしはそんなの認めない」

 少女はそう断じた。

「わたしが人を救って縁に乱れが生じ、災いが起こるのなら、わたしがそれを斬り伏せよう。それによって更に災いが生まれるのなら、それもわたしが。……それなら誰も文句ないでしょう? ……わたしが救いを求めるすべての人を救うから」

「……」

 黒い着物の小さな少女はそう言い残してその場を後にする。


 そして夜が明けた。

 澄んだ空気に白んだ空。徐々に徐々に天空が青みを帯びて、人の世もまた青くなる。

 時計の針の音が数を重ねるごとに人々は活動を再開して、声も聞こえて来て、住宅が次々と扉を開ける。

 やがて人々はそれぞれの方法で都市部を中心に集まって、金銭や学力や充足を求めて活動を始めてって、正午を迎えるのだ。

 太陽は空高くに座していた。

 台風の時期を越えた晩夏の季節。吸い込まれるような晴天と、美しく輝く山嶺の雲。緩やかな風を受けてのんびりと泳ぐそれらの群れは、暖かな陽気とともに人々を野外での食事に誘う。

 ひとときの休息を終えて再び作業に取りかかった人々。昼寝に耽る塀の上の三毛猫。さえずる小鳥とうるさい蝉。昨日に比べて少しだけ弱くなった暑さが夏の終わりと昼の終わりを予告する。

 東にあった太陽が、そろそろ西に差し掛かっている。雲間に隠れたり覗いたりしながら世界を朱色に染め上げて、どこか懐かしさを演じる。

 赤い西の空の対岸。東の空は青を深め、群青となり明星が光る。空は徐々に徐々に黒みを帯びて人の世もまた黒くなる。空にはもう月が昇っていた。

 街に流れる童謡を聴いた小学生が腹を空かせて帰路に着く。部活を終えた学生が語らいながら帰路に着く。仕事をやり遂げた大人たちは、疲労を顔に浮かべながらも我が家で待つ家族に会うのを楽しみにして、帰路に着く。

 嗚呼、人々は今日も平和な日常を享受するのだ。


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