その二 「覆面」
「今日の昼食はここにしよう。月読」
藍の暖簾を提げた西洋料理店の引き戸を引いて、二人はその店に入った。
外観と内装はそば屋のような趣なのに西洋料理を看板に掲げていたのが目についたのが、ここを選んだ理由だった。
店主に人数を告げて適当なカウンター席に着く。
「…服は?」
「それは午後から。腹に何か入れてからゆっくり見ていこう」
店主におすすめを訊いてみると、ここはカレーがおいしいらしく、二人してそのカレーを注文する。
「わたしは辛口。この子は甘口で」
「わたしも辛口で大丈夫です」
「無理すんなよ、月読」
「…無理なんかしてないし」
「見栄っ張りめ」
気さくな店主は朗らかに笑って調理場に引っ込んだ。
「…素直になるなら今のうちだぞ」
「いーの」
黒いブーツの足をばたばたさせている月読は、千代につんっと言い放って両手に持った水を呷る。
水がレモン水だったことにびっくりした月読がコップを机に置くのと、無人だった彼女の隣の席が引かれるのは同時だった。
「……ぬ?」
月読の隣、自分の反対側に座ったものの顔を見て、千夜が鈍い反応をした。
そんな彼女の姿を見て、月読も釣られて隣を見る。
「……」
月読の隣にいたのは、レスラーマスクを被った女性だった。
白虎を象ったマスクを被った人間は、黒い革の裾が足首まである長いコートを着ていて、足先のヒールが無ければ女性であるかも解らなかった。
マスクの目元から覗く肌のシワから大まかに四十代くらいだと予想は出来る。
「……」
じぃ、とその異様な姿に思わず見入っていると、ふと、覆面の黒い瞳がぎょろりとこちらを向いた。
「――っ!」
蛇に睨まれた蛙のようにごくりと息を吞む。
覆面の女性は月読の姿を締めるように睨め付けると、黒い双眸を月読のそれにぴたりとあわせて、こう言った。
「…お嬢ちゃん。かわいい着物ね」
しかしてその声は少し嗄れていながらも、あまりに普通だった。
「へ…、あ、ありがとうございます」
姿の異質さとはひどくかけ離れた日常的な口調に素っ頓狂な礼をしてしまう。
礼をしてそれきり、女性の異質さに当てられてまともに会話を続けられない月読に代わって、横から千代の声が聞こえた。
「あなたは随分、変わった格好をしていますね」
「この覆面の事?」
「ええ、もちろん。リング上のプロレスラーならまだしも、西洋料理店の客人が被るには些か奇抜かなと」
「ええ、そうね。でも誰がカメラを構えてるのかもわからないのに、誰も顔を隠さない方が私には不思議に映るわ」
「…はあ」
月読の気の抜けた返事を聞いて、覆面の女性は二人に向き直った。
「お嬢ちゃん、お嬢さん。あなたたちも気を付けた方がいいわよ。今の時代。誰も彼もがカメラの付いた携帯電話を持っているんだから」
「…それが、気をつけるような事なんですか…?」
「だって、誰が盗撮するか解らないでしょう? 私の顔が私の許可無くネット上に流出するなんて溜まったものじゃないわ」
女性は強くなりかけた口調を咳払いで諌めて、それでも諭すような言葉を続けた。
「写真だけじゃなく、名前や住所と言った個人情報がいつどこで流出するかわからないんだから、ちゃんと自分の情報は自分で隠さないと」
「だから、そうやって覆面で顔を隠しているんですね」
「ええ、それだけじゃなくてケータイもパソコンも使わないし、出来る限り外にもでないようにしているんだから。あとは本当に信頼出来るところにしか自分の情報は教えないようにしているわ。悪用されないようにね」
それから女性は月読と千代の顔をまじまじと見てから、今度は母親が一人でおつかいに出かける子供に向けるような心配する口調になった。
「二人もちゃんと気をつけないといけないわよ。二人とも綺麗な顔つきで可愛らしい服装なんだから、こんな繁華街を歩いていたらすぐにネット上に情報が拡散されて酷い犯罪に巻き込まれてしまうんだから」
「…そうですね。気をつけます」
千代が端的に返した所で店主からカレーが届けられ、両者の会話は終了した。
ひき肉がふんだんに使われたドライカレー。白い湯気が鼻の奥に届いて、空腹を誘発させる。
月読は意気揚々とカレーを頬張った。
「……からぁ!」
白い肌や黒い肌をした舶来の異人も多数混ざった雑踏にやって来た。
日本の繁華街の風景を基盤に大阪の魂と米国のセンスが折り重なった不思議な街。
どぎつい色の街並みや、飛び交う関西弁と英語。あとは違法駐輪された大量の自転車。
「ほら、月読。この辺りが待ちに待ったアメリカ村だよ」
「おぉおおおおぉお!」
両手を胸の前で組んでキラキラと体全体で喜ぶ月読がそこにいた。
年齢層の若い人ごみの中で駆け出した月読を追いかける。
二人は五秒で客引きに捕まった。
千代の静止も儚くあれよあれよと連れてかれ、やって来たのは随分ガーリーな洋服屋。
月読。テンションマックスだ。
「全部試着していいですか!」
少女はフリフリのミニスカートやTシャツを胸に抱いて目を光らせていた。
「思う存分。着てええで」
「ありがとうございます!」
そして少女は試着室に飛び込んだ。
カーテンの向こうから上機嫌な鼻歌と、衣擦れの音が聞こえてくる。
そんなカーテン越しに千代が皮肉気に言葉を飛ばす。
「あんまり目立つ格好したら、覆面でも被らない限り個人情報が漏れるんじゃ無いか?」
「わたしの情報を誰がどうやって手に入れられるっていうの」
苦笑まじりの返答と同時に、着物が床に落ちるのがカーテン下の隙間から見えた。
「お客さんもしかして、覆面おばさんに会ったん?」
そんな二人の会話を聞いていた店員が、横から千代に話しかけて来た。
「レスラーマスクのおばさんを知っているのか?」
「ええもちろん。ネット上では有名ですわ」
「……」
千代の沈黙を発言の催促と受け取ったのか、店員はそのまま言葉を重ねる。
「そりゃあ、あんな異様な格好なんやから、話題にならんほうが可笑しいわ。めったに見かけへんけど、たまに現れたらSNSで大騒ぎや」
「…へぇ、それなら、あの人の素顔とか情報も共有されていたり?」
「いいえ、顔を隠してるんで詳しいことは解りません。……でもまあ、みんなおもしろがって情報を共有し行くうちに、あの人がどの辺りに住んでるのかとか結構バレてますけどね」
店員はけらけらと笑った。
そして試着室のカーテンが勢いよく開かれる。
「千代! この服みんな欲しいんだけど!」
黒いノースリーブのシャツの上に水色の肩出しTシャツ。黒いフリルが重なって作られたミニスカート。ニーソックスにスニーカー姿の月読が山のような洋服を抱えて出て来た。
すかさず店員はここぞとばかりに月読を褒めちぎる。
「お嬢ちゃんええセンスしてはるねぇ。お嬢ちゃんの年齢でそんなにセンスがええ娘、なかなかおらへんよ」
「…ふふ~ん」
そしてこのドヤ顔である。
「こんな娘がおったらネットで話題になること間違いなしやわぁ」
見え透いた嘘…と断定出来るほど月読の服装が似合ってないわけでもないけれど、少なくともどうにか服を買わせそうと必死なのが見え見えな店員を尻目に、千代が一つため息を吐く。
そして、店員と月読を諦めさせる鶴の一声を。
「そんなに買っても、旅人の身じゃあ持ち運べないだろ」
「……あ」
いま気づいたのか。