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月の通り道  作者: 中島八四
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その一 「正しい人」


 雑踏の中に二人の女性がいた。

 その地は大阪・新今宮と呼ばれる土地で、その中でも更に新世界と名付けられた区画だった。

 展望塔通天閣を中心に広がる街は、世間一般に言われる『大阪』のイメージを如実に、あからさま表現したような街だ。

 大きな車道や線路で明確に区切られた新世界は東西に零・五、南北に一キロも無いほぼ綺麗な長方形の中に作られている。昭和のレトロな町並みを残しながらも若者も多く見える。何とも活気が溢れていて方々から笑い声が聞こえてくるようだ。

 飲食店、それも揚げ物屋を中心に連なる店の数々、その店が厚化粧をするように飾り付けられた山のような電飾たち。それはただ店の名前を書いているようなつまらないものではなく、その店の商品や特色にあわせて主張していた。

 あの店もこの店も自己主張が激しく、道行く人の気を惹こうとあの手この手の方法で自分を現している様は、この地の人々の大まかなイメージをそのまま映し出しているようで、歩いているだけでも面白い。

 さて、そんな平日の昼間だというのに熱気と活気に溢れるそんな街に、風変わりな女性が二人。ビリケンさんの前で地図を片手に話し合っていた。

「良い時間だし、今日はここで昼食にしよう。月読」

 そう言って地図を広げるのは若さにして大学生くらいの女性だった。

 見た目や立ち居振る舞いから快活な印象を受ける、一緒にいるだけで楽しくなりそうな女性。

 薄い茶色に染めた髪をボブにカットし、ワックスで軽く遊ばせた彼女。彼女の身の丈は百七十センチメートル弱。全体的に薄化粧の清楚な作りで、大きな瞳に高い鼻と小さな唇。出るところは出て締まるべき所は締まる健康的な体つきをしている。

 上半身を覆うのは明るい色の肩出しTシャツで、下半身を覆うのはデニムのショートパンツ。袖や裾から白く細い四肢が覗いていて、膝上で再び脚を隠すのは焦げ茶色のブーツ。

 そんな彼女は道行く男性陣の注目の的であったが、当の本人はそんな視線を歯牙にもかけない。

 彼女の足元には赤煉瓦のような色のキャリーケースがあり、隣に一回り小さいキャリーケースがちょこんとあるところを見ると、二人は旅人のようだった。

 左手に地図、右手でくるくると自分の髪を弄る彼女は長いまつげの瞳で、横から地図を覗く少女の答えを待つ。

「昼食には賛成。……でも、こんな昼間からお酒はやめてよね、千代」

 月読と呼ばれた少女は、着物を着た、小学校高学年くらいの少女だった。

 無邪気な幼さの残るころころとした小さな頭に、肩で切りそろえられた緑の黒髪。黒目がちな対の明眸は昴のよう。月のような白い頬は突つくと月見団子のような弾力があって柔らかそうだ。

 白くも血色の良い肌を隠すのは天の川をあしらった黒い紬の着物で、襟元から黄色の半襟が付けられた長襦袢が覗く。

 帯はすすきの刺繍が入った白い洒落帯。それを締めるのが帯びしめ。今日は帯を左から右に結ぶ蝶結びにしていて、背中に花が咲いているようだった。

 背筋の良い彼女の姿勢が、幼いながらもその身に気品と女性らしさを醸し出している。

 着物の所々から着古した痕跡が見える反面、足袋の上に履いた黒いショートブーツはピカピカで、小学校に入学したてのランドセルを想起させる。

 二人は姉妹を疑うほど似てはいなかったが、そのどちらもが良い意味で人の視線を集める容姿であった。

 そんな芍薬も牡丹も百合の花も裸足で逃げ出すような二人。その背が高い方が小さい方から目を逸らしながら頬を掻いた。

「…はは、まさか。飲むわけないだろ?」

 千代と呼んだ女性を、月読はじとっとした目で見上げる。

「その微妙な間と逸らした視線はなんなのさ」

 千代は舞台の上で訴えかける女優のように両手を広げた。

「いやそれはね、大阪と言えばたこ焼きお好み焼き串カツと、どれもこれも冷たいビールに合うものばかり。呑みたくなるのが人の性ってもんでしょう?」

「……別にわたしは呑みたくないけど」

「これだからお子様は」

 鼻で笑った千代の足を、月読のブーツが踏んだ。

「そもそも、昼間から酒呑んじゃいけないなんて、誰が決めたって言うのか」

 ともかく二人は今日の昼食を探し求めて人の波を通り抜ける。

 地図を畳んだ千代がキャリーケースのキャスターを転がしながら先を行く。

「決める決めないではなく、あんたの場合周りに迷惑かけるからでしょうに」

 黒いキャリーケースを引っ張る月読は千代の後を追いかける。

 そして彼女は苦虫を噛み潰したような顔で過去の嫌な記憶を思い出す。

「高天原一の酒豪にして酒乱の千代……アメノウズメが酒を呑んだらどうなるか…。……岩戸の悪夢は忘れないから」

「はっはっは。いやいやあれは、そっちの姉にも責任があるだろう? わたしはあの引きこもりを引っ張りだす為に一役買ったに過ぎないよ」

「あの時集まった神の中で一番で多く呑んだくせに」

 グルル…ッと小動物のように威嚇する月読を軽くいなして千代は口笛を吹く。

「そもそも千代は昔から――」

 神様二柱、神話の思い出話に花を咲かせる。


 高さ百メートル、幅二十四メートルの鉄骨造の展望塔。

 雑踏の真ん中で、高くそびえる通天閣を見上げながら月読が息を吐いた。

「…にしても、この辺りは本当にお店ばっかりだね」

「情報量が多すぎてくらくらするって? こういう繁華街は物が溢れていて楽しい反面、気圧されそうになるよな」

 人を避けながら月読の言葉に返す千代は、そのまま言葉を続ける。

「でも、これほど若者から年寄りまでたくさん来るようになったのはつい最近なんだぜ?」

「へぇ…。でも、大阪と言えば、飛鳥辺りから結構栄えていたでしょう?」

 三千年弱を生きる神だけに、その辺りは流石に詳しい。

「そうじゃなくて。開国してから少しして大阪市に編入されるまでここは畑や荒地だったんだよ。それがまあ、万博とか遊園地とかいろいろあって、発展していった訳」

「……万博…遊園地…」

 静かに目を輝かせる月読に千代は苦笑しながら、少しだけ舞台で唱うように言葉を続ける。

「……ちなみに、いま月読が見ているあの通天閣は二代目。先の大戦で初代通天閣が解体された後、この地の復興とともに…もしくは、この地の復興を導くように再建されたんだ」

「……」

 月読はその頃のいろいろな事を思い出して、複雑な気分になる。

 蒼い空に向けて威風堂々と直立する銀色の塔を仰ぎ見る月読は、彼がこれまで見て来た全てに想いを馳せた。

 目を閉じて、馳せて、また開いて、それからゆるりと応える。

「…千代は物知りだね」

「伊達に高天原から遠出して現世を遊び歩いてないよ。見直したかい?」

 戯けたように問う彼女に、月読は「…少し」と返した。

「じゃあ、酒呑んでも…」

「それはダメ」


 さて、あれやこれやと議論を繰り返し、結局二人が昼食に決めたのは一軒の串カツ屋だった。

 筆で左から右に書かれた看板を掲げて、その下にメニューが書かれた赤提灯が並んでいて、昔ながらの木板の壁に関西弁で色々と自由な事が書かれている。冗談とお巫山戯に溢れた店構えであった。

 軽く店主に挨拶して、二人並んでカウンター席に腰掛ける。

 早速二人はカツと、それだけじゃなく海老やタマネギなど串に刺さった一通りを注文した。ああ、さっきから鳴きっぱなしの腹を一刻も早く諌めなくては。さっきからうるさくて仕方が無い。

 しかし、その前に二人そろって手を合わせる。

「いただきます」「いただきます」

 ジュージュー唸っているのが止まぬままタレに付けて一口。

 揚げたての熱さにおっかなびっくり口に含んでみれば、狐色の衣からジューシーな油が溢れてくる。

 肉厚のカツの身が口の中でとろけて、ソースの旨味とともに仄かな甘みを醸し出す。

 その一口だけで頬が上気して、心が高揚して来た。

「……おいし」

「あー…。ビールが欲しい」

 口から溢れるような二人の感想が、その料理のおいしさが疑う余地のない真実である事を証明している。

 一本目は二人して驚く程早く胃の中に消えていった。

 月読が、さて次は何に手をつけよう。たったいま山の幸を食べたのだから、キャベツを挟んでから今度は海の幸に手をつけようかと考えていると、隣の千代がだらっと右肩に倒れ掛かって来た。

「なぁ、いーだろー。つっきー」

「………」

 やっぱり来た。

「ビール呑ましてくれよー。びーるー」

「……いいかげんしつこい」

 助平のように肩に手を回してヌメヌメと絡んでくる、酒の類いは一滴も入ってないはずなのに、だ。名付けるとしたらフライング酔いか。厄介かつ鬱陶しいことこの上ない。さっき少し見直したばかりなのにこれでは再びマイナス評価に振り切れる。

 しかもこの女の場合。最終的に服を脱ぎ始めるから仮に酒を許可したとしてもこんな公共の場で呑ませる訳にもいかない。

 なんて、過去のあれやこれやを思い出して頭をおさえていると、あろうことか人が気に入っている洒落帯に手を掛けてこんな事をのたまってきた。

「びーる呑ましてくれなきゃこの帯ほどいちゃうぞぉ」

「……千代。あんたほんといい加減に…」

「いーじゃーん」

「そのあたりにしたらどうだ?」

 そろそろ堪忍袋の尾が切れそうになったところで、千代を挟んだ向こう側から、男性の声が飲ん兵衛の蛮行を遮った。

 見れば、男性は三十代前後のいかにも真面目そうな見た目であった。

 シワ一つない灰色のスーツと、景色を映し込みそうなほど綺麗に磨かれた黒い革靴の男。つま先から頭の先まで視認した千代は、厄介そうな奴が来たなという感情を隠そうともしない迷惑顔で男から目を逸らす。

 彼女は一気に不機嫌そうな口調で放った。

「……すまんね。騒がしかったら謝るよ」

「いや、謝罪などいらない。騒がしいのも問題だが、その子が言う通り昼間から酒を呑むなんて正しくないんじゃないかと言っているのだ」

 言いながら男は千代の隣の席に腰掛ける。

「それに、子供の前での飲酒も正しい事とは言えない」

「……子供じゃないし」

「…確かにそうかもしれんがね、外様のあんたに言われるようなことじゃないよ」

 月読の小声での抗議を無視して、千代は男をあしらう。

「外様かどうかなど、君が間違っていることに関係ないだろう?」

 このやたら堅苦しいしゃべり方をする男、どうやら口調通りの性格らしい。

 男は「店の席に腰掛けておいて何も頼まないのも間違っているな」と呟いて、店主にいくつか適当な物を注文した。

「ともかくお嬢さん。どうやら随分酒が好きなようだが、飲み過ぎるのは止めなさい。昼間から酩酊すれば他者に迷惑がかかる可能性も高くなるし、子供の教育にも良くない。何より君の体に悪いだろう」

「あんた、出しゃばった教育者のようなしゃべり方をするね。わたしの身を案じてくれているのは結構だが、会って十分も経っていない男に言われるようなことじゃないと思わないか? あんた。いつもこんな事をしているのか?」

 いかにも鬱陶しそうな、嫌味たっぷりの返しをすると、彼女の意に反して男は『よくぞ聞いてくれた』というように晴れ晴れした顔で、声のトーンを高ぶらせて語りだした。

「もちろんだ! お嬢さん。君は今の社会に疑問を感じた事はないか? 自動車の違法駐車、店内での窃盗、著作物の違法ダウンロード。それらだけじゃない様々な犯罪行為を人々は平然と行っている。それどころかそれが悪い事だと自覚していない者があまりにも多すぎる。しかもそれを目撃した人はその犯罪者を止めようともしない。この国には一億人超の人間が住んでいるにも関わらずだ。……この前なんて、レンタルビデオ店で親が子供に違法視聴出来るから借りるのは止めなさいと諭していたくらいだ。そんなのは間違えている。そんな社会は変えるべきだ」

「………」「……うずらもうまいな」

 月読は彼の演説を最後まで聞いていたが、千代は『目撃した――』辺りから食事を再開していた。

 レバカツをソースに浸す千代越しに、月読は演説を終えて小さな達成感を感じている男の話し相手を変わった。

「だからあなたはこうして自ら街を歩いて人々の間違いを正しているんですか?」

 男は口調を子供向けの優しいものに切り替えた。

「その通りだよ着物のお嬢ちゃん。お嬢ちゃんもお友達に嫌なことをされた事はあるだろう? 世の中には子供からお年寄りまで間違えた事をする人ばかりなんだ。おじさんは少しでも世の中が良くなるようにそんな人たちはちゃんと叱るべきだと考えているんだ。お嬢ちゃんも、そう思うだろう?」

 同意を求められた月読は、顎に手を当てて少し考えてから視線を男に戻す。

「……確かに、間違えた事をした人には、それを正すように諭すべきかもしれませんね」

「そう思ってくれるか!」

 その言葉を待ってましたとばかりに男は勢いよく立ち上がった。

「……あ、でも」

「やっぱり私は正しいんだ!」

 続きを言おうとした彼女の声を抑えて男は彼女の手を取る。

「いままで誰の同意も得られなくて悲しかったが、お嬢ちゃんのおかげで自身が出て来たよ。……ありがとう、着物姿の愛らしいお嬢ちゃん。これからも私は世の中を清く正しく変えていく事にするよ!」

 そう言って、男は「注文した料理を残すのは正しくないな」と串カツをすべて口に押し込んで、ぴったりの料金を机に残して店を出ていった。

「…行っちゃった」

 月読は彼の背中が角に消えるまで目で追った。

「…めんどくさい人もいたもんだな」

 嵐が過ぎ去ったとばかりに大きく息を吐いた千代は、キャベツをかじりながら忌々しく漏らす。

「でも、間違ったことは言ってないよ」

「果たしてそれはどうかな。……あ、おっちゃん生中一つ」

「ちょっと!」

 そして太陽は傾いていく。


「ぬっへ~。つっき~か~わ~うぃ~うぃ~」

「………」

 夜。新世界を出て宿を探し大阪の街を徘徊している途中、月読はビール十本日本酒一升サワー系を無数に呑み干した千代に抱きつかれていた。

「…もう絶対に部屋別々にしてもらうから」

「そんにゃこと言ふにゃよ~ん。…これでも控えめにしたんだぜ?」

「ほんと、底が知れないわ…」

 月読は千代のザルに恐れ戦きながらも、どうにか彼女の体を支える。

「というか、部屋割りを決める前にまずは今日の宿を見つけなきゃ」

「ほてるならそこにあるじゃ~ん」

 言って飲ん兵衛が指したのはネオンが光る愛の宿。

「勘弁してよ…」

 酔っぱらったこの女に言われると、ぞぞぞと背筋が凍る。

 そんな少女に追い打ちをかけるように襟に手を滑り込ませて来た。

「にゃんだったらここではじめちゃう?」

「――っっっ! やーめーろっつの!」

 少女のブーツのかかとで飲ん兵衛のみぞおちを蹴り上げる。

 すると途端に赤かった顔がみるみる青くなっていく。

「…やばい吐く」

「抱きついたままはやめてぇえ!」

 黄色くて酸っぱい匂いの花火から逃れようとじたばたしていると、交差点を曲がった先の向こうから怒号が聞こえて来た。

「自分舐めとんのか!」

「その娘を離せと言っているのだ」

「………」

 冷静な声の方に聞き覚えがある。

「つっき~」

 酔っ払いを路上に転がしておいて声のした道の先を覗くと、女性が一人男性が三人いた。二人のガラの悪そうな二人組と気弱そうな女性の間に、見覚えのある灰色スーツが割り込んでいる。

 対立する四人の会話内容からその状況が簡単に推察出来る。女性に絡んだガラの悪い二人を通りがかりの彼の男性が注意したんだろう。

 月読はとりあえず、電柱の影から娘のと成り行きを見守る事にした。

 ポケットに両手を突っ込んで彼の男性を取り囲む二人に対して、その男性は軍人のような毅然とした態度で応対する。

 曰く、女性に不要な接触を図るのは失礼に値する。

 曰く、人を威圧する態度で自らの希望を押し通そうとするのは不当である。

 男の指摘のどれもこれもが二人の神経を逆撫で、目尻をつり上げていった。

 彼の男性は二人の心の炉に次々と薪を焼べていく。二人の顔はマグマのようにカッカとこんこんと怒りに染まっていく。

 一触即発。というよりは、ガラの悪い二人の雀の涙のような理性が爆発を抑えているような状態。

 そんな状態がそうそう長く保つはずも無く、いよいよ導火線は爆弾を着火した。

「やかましいんじゃボケェ!」

「――ッ!」

 二人の男は彼の男性に殴り掛かる。

 しかし彼らは次の瞬間には返り討ちに遭っていた。

 だが二人を襲ったのは男性の拳ではなく、少女の小さな手が握る長物の先だった。

 その者は月読、その得物は一尺程の懐刀、脇差し。それは白い麻の刀袋に入れたままになっている。

 事態は電光石火。小さい体だからこそ入れる男性と二人の間に潜り込み、逆手に持った脇差しで二人のみぞおちを突いたのだ。

 自分に何が起きたのか、何故意識が薄れていくのか、その理由も解らないまま昏倒する二人。

 静寂に人が倒れる音だけが響いた。

「……」

 ふう…。と息を吐き、懐刀を帯の左脇に収める。

「お二人、怪我は無いですか?」

 月読は振り返って彼の男性と女性に問うた。

 突然現れ、一瞬で大の男二人を制圧した見た目小学生の少女を前に二人は口をあんぐりと開け幼児のように目を見開いていた。

 しばらく二人の理解が追いつくのに時間がかかった。

 先に理解して返事をしたのは男の方だった。

「……君は昼間の」

「その節はどうも」

「こんな時間に、こんな所でなにをしているんだ。はやく家に帰りなさい」

「…まあ、白状すると旅をしてまして、今日の宿を探している所なのです」

「そうだったのか。…いやそれならば仕方が無いな。良い宿が見つかる事を祈るよ。――……ところで、遅れてしまったが礼を言うよ。ありがとう、助かった。君は見た目に反してとても強いんだね」

 彼は素直に頭を下げた。月読が謙遜すると、男は両手を広げてこう口上した。

「いや、そんなことはない! 君のその力は素晴らしい物だ。悪を滅する良い力だ。その力は世の中をより良い方へ導く物になるだろう!」

 街灯の灯る夜に快晴のような表情で賞賛する。そんな男の様子に、後ろの女性は僅かに顔を引きつらせていた。

「嗚呼! どうやら君こそ私の目指すべき理想らしい! 正しい力で悪を蕩滅する。それこそがこの世から悪を無くし一点の曇の無い純白にする唯一無二の方法だ! ……私の夢を支持してくれるだけでなく道を照らしてくれるなんて、君は私にとっての神様だ!」

 言葉を発そうとした月読は、彼の最後の言葉に閉口してしまった。

 そして男はまたしても相手の言葉に耳を貸さずにその場を立ち去ってしまったのだ。

「……」

「……」

 男の消えた路上には、目で彼の背中を追う二人の女性が残された。


「…やっと…、休める」

 ぼふっ…! 月読は無造作に洒落帯と帯びしめを解いて床に落とし、白いシーツのシングルベッドに身を沈めた。 

 助けた女性に宿の場所を訊いた月読は、彼女が泊まっいたビジネスホテルを紹介された。話を聞けば彼女、東京の方から出張でこの地に来て、今さっきが帰りだったらしい。

 路上で熟睡していた酔っ払いをブーツで蹴っても起きなかったので、女性に心配されながらも背負うと、えっちらおっちら千代の膝から下を引きずりながらこのホテルにたどり着いた。

 シングルベッド二つでいっぱいになってしまうような小さな部屋を借りて、酔っ払いを部屋の床に捨てて今に至る。ちなみに、フロントに部屋を別にして欲しいと言ったら子供に部屋は貸せないと断られてしまった。

 真っ暗な部屋には堅いベッドに薄いカーテン、申し訳程度の肘掛け椅子や小さなテレビ、おまけに無名の絵画と観葉植物があって、それらに安っぽいベッドサイドランプの灯りを点すと、柔らかな朱色の光が被さった。

「はあ…、疲れた」

 うつ伏せだった体を仰向けにして、ブーツを脱ぐ。

 紬の着物を大きく開いて、その下に着た紗も開いて袖にレースの付けた肌襦袢の中にパタパタと空気を入れる。

 そうやって着物をはだけさせて楽な格好になると、有無を言わさず眠気が襲って来た。

 眠たい、寝たい、でもまだ眠れない。

 体を洗って、明日の計画とその準備、後は脇差しの手入れをしなくては行けない。酔っ払いは放置で良い。

 カチッ、カチッ、カチッ、カチッ。壁掛け時計の秒針がたっぷり三百六十回ほど時を刻んで、いよいよ睡魔が意識を持っていこうとした所で心の中で勢いを付けて起き上がり、足袋も投げ捨ててそのまま湯文字だけの姿で浴室の戸を開けた。

 先の女性が風呂だけは良かったと賞賛していただけに、ビジネスホテルの一室に据え付けられたにしては素晴らしい風呂だった。

 大人でも足を伸ばせる湯船に湯を張っている間に体を洗う。

 身を禊ぐこと、清める事は月読たち神にとって深い意味があるのだが、そんなことはどこ吹く風とじっくりたっぷり念入りに頭と体を洗って、湯を張った湯船に身を浸す。

 身に優しい温かなお湯が体の芯まで溶かしていき、その蒸気が漏れるように口から息が飛んでいく。

「……ばばんばばんばんばん」

 火照った体で今日の事を思い出してみる。

 昼間出会って先ほど再会した男、正しさを追求している男。

 その眼はいつだって前を見据えていて、その背中は一度だって振り返る事はなかった。

 灰色のスーツの影、その姿は今の少女に通ずるものがあった。

「……ろっこ~おろ~しに~」

 彼女はかつて、実の姉に剣の切っ先を向けた。

 神の存在を軽視する現代人に、希薄になっていく神の存在理由。

 高天原を中心に住まう八百万の神々は、原則として神無月の神議りで取り決めるこの世全ての縁故を犯し、曲げる事は出来ない。それは、その取り決めた縁故の組み合わせは、この日本という国とその皇室がもっとも安定した繁栄を迎える事が出来る最適解であるからであった。

 いつかの大戦で積み上がった救えなかった死霊の山と、暗い社会で死んだ目をして自分で自分を殺す民草。されど月読はそれらを目の当たりにして救えなかった自分に腹を立てた。高天原の体制に疑問を抱いた。

 そしていよいよ彼女は自分の姉、太陽神にして最高神の天照大御神に現体制の改革を提言した。曰く、神議りに関わらず神々は日本国民の助けに手を差し伸べるべきである、と。

 何十年も悩み続けて見出だした彼女のその提言に対する姉の答えは、しかしながら却下であった。曰く、縁故を乱せば必ず他の縁に波及し、さらに大きな災いをもたらす可能性がある、と。

 何より、日本こと葦原の中つ国は自分の子孫に託し、自分たちは神議りによる援助に留めると神話の頃に取り決めたのだから、と。

「…そこに助けを求めている人がいて、自分にその力があるのに…見捨てるなんてこと、わたしは出来ない」

 一言一句同じ事をあの日、姉に叫んだ。

 山が消え、海が割れるほどの争いが高天原で起こって、千代が止めるまで続いた争いの結果、結局最高神が妹に告げた事は、高天原からの追放だった。

 その処罰は、過去に月読の弟が受けた処罰に基づいて下されたものであったが、月読はその処罰に関しては吝かではなかった。

「…高天原は責任を取らないから、自分の好きにしなさい」

 明言されていないが、彼女はそう受け取った。

 そして彼女は姉の意に反して意気揚々と、アメノウズメまで巻き込んで日本の土を踏んだのだ。

「ちょっとのぼせて来たかも…」

 ついつい長湯をしてしまったらしい。

 少女は本格的にのぼせる前に考えるのをやめた。


「…頭痛い」

「起きたんだ、千代」

 部屋に戻ると、ペットボトルに入った水を飲みながら頭を押さえている千代がそこにいた。

 彼女は肘掛け椅子に座って、ごく小さな音でテレビを付けている。

「つっきー、ここどこぉ…? ホテル? ……よく見つけたね」

 月読はバスタオルで湿った髪と体を拭きながらクローゼットからホテル備え付けの浴衣を取り出す。

「ちょっと話が長くなるけど、千代が酔いつぶれた後、昼間の男の人に再会してね。しかも人助けの最中で、そのあと、その助けた人にここを教えてもらったの」

 千代は寝覚めの頭で月読の長い話をなんとか理解してから、水を一口含んだ。

「…昼間の…? …ああ、あの変人か…」

 千代は昼の出来事を思い出して鼻で笑った。

「変人って…」

 月読は千代の言葉にもの申そうとしたが、しかしそれは千代のこの場に遮られた。

「ところで月読。明日からしばらくは北に向かおうと思う」

「…北に? 別に良いけれど。どこか行きたい所があるの?」

 彼女の言葉に、千代は地図を自分のベッドに広げた。

「長期的な目的地としては京都を目指して、短期的には難波、大阪城、梅田を経由しようかなと。難波のアメリカ村には君の好きな服屋が山ほどあるしね」

「服屋…」

 開放的に笑顔にならないが目つきと雰囲気で明らかに気分が高揚した事が見て取れる。千代はその姿を一瞥してから地図に目を落とし、縮尺を睨む。

「人間の、それも日本国民だったら車の免許をとって楽に移動出来るんだけどな…。どこぞの狐見たく住民票を偽造なんて出来ないし…」

 彼女の話を聞きながら浴衣の帯を結んだ月読は、自分のベッドに腰掛けて地図上の近畿を眺める。

「公共交通機関は極力使わないようにしようね。湯水のようにお金が使える訳でもなし、この旅の目的に沿わないから」

「別に昔一度行った事だから、徒歩で日本を巡る事に異論はないよ。その方が面白いし」

 そんなやり取りで意見がまとまると、千代は水を一口含んでからズキズキする頭に顔をしかめながらも浴室へ向かった。

「わたしは風呂に入るけど、腹が減ったら勝手に調達してくれ。頭痛くてご飯を食う気にならん」

「後先考えずに呑み過ぎなのよ。少しは節制することを覚えなさい」

「……」

 見た目小学生の月読に母親のように怒られて、千代は少し不機嫌になったのか、浴室に入る直前にこんな言葉を残した。

「月読。風呂で歌うのは止めた方がいいそ。外から丸聞こえだから」

 茹で蛸のように赤面してベッドでバタバタする月読がそこにいた。


 翌日、二人は街が起きる前に起きた。

 太陽が昇って少ししか経っていない、青い世界の片隅で、月読は大きく伸びをした。

 そこは二人が宿泊したホテルの正門前で、先ほどチェックアウトしたばかりだった。

 まだ夜でありたい梟の声と、ようやく朝が来たと喜ぶ雀の声を遠くに聴いて、二人はキャリーケースを引く。

 ころころがらがら車輪を鳴らしながら千代が月読に訊いた。

「もうそろそろ店も開く頃合いだけど、もう一度行きたい所とかないかい?」

「最後に一度、あの通天閣からの景色が見たいな」

「了解」

 そして二人は新世界に向かった。

 高架線をくぐって起き上がったばかりの新世界を歩く。

 普段、店が開く前の街はまだ熱が回っておらず、日中から夜間にかけての喧噪には無い静寂が広がっているのだが、しかし今朝の新世界に静寂は無かった。

「…なにかあったのかな」

 街の真ん中、通天閣にほど近い交差点に人だかりがあって、その中心で一人の男が数人の警察に取り押さえられているのが見えた。

「……」「……これは、また」

 人垣の間から覗くその顔には見覚えがあって、まさしく昨日であったあの男であった。

 ともかく二人は目的地との間にその人だかりがあるのもあって、後ろから野次馬に加わる。

 早朝という事もあって人だかりの数は十数人と少なく、野次馬を遠ざけようとする警官を除けば状況を確認する遮蔽物は無かった。

 近くに赤色灯を回すパトカーが見えた。

 関西弁の怒号を飛ばしながら男を取り押さえる数人の警察官と、何やらよくわからないことをわめき散らして取り押さえられている灰色スーツの男。それから数メートル離れた所に、女性警官に保護されている二人の女子高生が見えた。

 月読がそこまで観察してふと、取り押さえられている男と目が合った。

「そこにいるのは昨日のお嬢ちゃんじゃないか! ああ、どうかこの頭の堅い公僕に説明してはくれないだろうか! 私が正しいことを!」

 そんな言葉を残して取り押さえられていた男はパトカーに詰め込まれた。

 ドアが閉められて、けたたましいサイレンを残してパトカーは新世界を去った。

「……」「……」

 月読と千代がその尾灯を無言で見送る頃、嵐は去ったとばかりに野次馬たちが一人、また一人と日常に帰っていった。

「失礼。嬢ちゃん、あの男の知り合いなんか?」

 嵐の前ならぬ嵐の後の静けさの中で、女子高生の保護と現場の後片付けをする警察のうちの一人が月読に話しかけて来た。

 少女の代わりに、千代が答える。

「…いいえ、まったく知らない男ですね。顔も見た事が無い。……あの男があちらの女子高生になにかしたんですか?」

「なんや、もう学校が始まっている時間でしょう? それであの女子高生がここにいるってことはつまりサボりらしいんやけど、それが気に食わなかったのかあの男。女子高生に注意して、あろうことか殴り掛かったんですよ。女子高生とあの男にはなんの接点も無いらしいのに」

「それで、その現場を目撃した通行人が警察に通報した…ってことですか?」

「まあ、そんなところです。……まったく、唐突に女子高生に絡んであろう事か殴り掛かるなんて、イカれた男ですわ」

 そう言って頭を掻いた警官の下から月読が問いかける。

「…あの男の人と、女子高生はこれからどうするんですか?」

「とりあえず、両者に署で詳しい話を訊いて、女子高生は親御さんに連絡やな。女子高生側が被害届を提出すれば暴行事件として処理することになるなぁ」

「…そうですか」

「嬢ちゃんも、ああいう危ない大人には注意せなあかんで?」

「……はい」

 そして警官は現場を後にした。

 女子高生とそれを保護していた女性警官もいなくなって、そこにはいつもの静寂と日常が帰って来た。


 今の時代。通天閣よりも高い建物なんて珍しくないけれど、通天閣から見える地上九十メートル弱の景色も捨てたものではなかった。

 通天閣よりも高い高層ビルの数々と、手前には天王寺動物園。遥か彼方の信貴山にかかる低い雲を見て、月読は千代に問うた。

「千代はわたしのお姉ちゃんに命じられてこの旅に同行してくれているけれど、あなたはわたしの考えが危険だと、イカレていると思う?」

「どうだかね」

 千代は間を空けずにそう返した。

「……」

 それから、少しだけ呼吸して、言葉を続ける。

「危険であるとされるのは、その思想ではなく行動だから。君のこれからを知らないわたしには、まだ判断出来ないよ」

「……そっ、か」

 目を落として、地上の人々をぼぅ、と眺め始めた月読に「…でも」と千代が口を開く。

「少なくとも、君の考えが間違っているとは感じない。……正しいと支持する事も出来ないけどね。……結局、行き先のないこの旅を続けた先で、その答えを見つけるのは月読自身だと、わたしは思うよ」

「…そう」

「無責任な回答ですまんね」

「…本当に」 

 少女はくすりと笑って展望台の窓から離れ、振り返り、窓に沿って周回する。

 少女が歩を進めるたびに、彼我の距離は離れていった。

 からからと車輪を転がす音が二人だけの空間に響く。

「わたしがもしかしたら、周囲に批難される事を正しい事だと信じてしまうかもしれないのに」

「もしもそうなったら、怖いな。わたしには止められない。暴走した月読を止められるのなんて、現状、最高神くらいだろうから」

「じゃあ、なにもしないで見てみぬふりをする?」

 少女は立ち止まって、千代の方を振り返った。

 彼女はすこしだけ考えてから、

「……さあね」

 短くそう返した。

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