19話『逃走』
「…………知らない天井」
模擬戦闘室の高い天井、学生寮の見慣れた低い天井、そのどれもと違う白い天井が目覚めた凪の視界に飛び込んできた。ここはどこなのか、当然の疑問が湧く。
「………起きた」
「…ルティ。 ここは…保健室的な?」
「救護室。 覚えてる?」
「あぁ…覚えてる。 正に瞬殺、だったな」
ベッドに寝かされていた体を起こして意識が落ちる前の光景を思い出す。何も出来なかった、余りにも無力過ぎる自分に何の感慨も湧くことがなかった。凪の横に腰掛けるルティシアはどこか心配そうな表情を浮かべている。
「想像以上だわ、獣人の強さ。 正直舐めてた。 ありゃ想定以上の強さだ」
「あれでも…まだ、弱い方」
「だよな、学生だし。 大人の獣人はどれだけ強いやら…」
学生の未発達な体と技術であの獣人は凪の肉眼には映らない速度での移動を可能とした。あれが成長したら最早音速の速度で動くのではないかと凪は半信半疑で思ってしまう。
「そうやって考えるとルティは本当に強いんだな」
「………」
凪の絞り出すような声にルティシアは何も言わない。
「…まぁ、どうでもいいか」
「結局、そうなるのね」
「愚痴を言って目の前が変わるなら腐るほど言ってやんよ。 けど、何にも変わらないだろーが」
凪の言っていることは至極当然のことだ。だがそう綺麗に割り切って考えられる人は少ない。ルティシアの顔がそれを物語っている。
「なんか変なこと言ったか?」
「ううん、やっぱりナギに着いていくって決めて良かったなって」
「お、おう…」
救護室という場所には似つかわしくない笑顔で改めて思いを語るルティシアに凪はタジタジだ。
元々ルティシアには優しくしているつもりは凪の中には無い。たまたまお風呂場で出会い、たまたま彼女の境遇を知り、自分の思ってることを適当に羅列しただけだ。凪にとってはルティシアの態度にイラついてちょっかいを出したのだがそれが完全に裏目に出た。そもそも彼女に声をかけたこと自体が失敗だったのだ。しかし、お風呂場で会った時点では凪の知識に鬼族のことはなく、鬼族最後の生き残りであるルティシアのことも知らなかった。色々と巡り合わせが悪かったと思い、現状でのルティシアの扱いはどうでもよかった。離れればそれで構わないし、くっついてくるならその強大な力を利用させて貰う、ただそれだけだった。
「そろそろ行くか。 授業はどうなった?」
「…意識が戻り次第、部屋に戻っても構わないって先生言ってた」
「じゃ、部屋に戻るか」
ベッドから降りて怪しげな薬品の並ぶ棚を眺める。出口はこの先にあるのだがどうにも気になる薬が凪の視界に入ったのだ。
「なぁ…ここらの薬って勝手に使っても?」
「ダメ。 知識がある人には許可証が発行されてる」
「ルティは?」
「…ない」
髑髏の印が大きく印刷された薬品から目を逸らして諦める。自分一人だったら多分、くすねていたな、そんな悪い考えと共に。
「………行くか」
変わらず無言で凪の後ろを着いてくるルティシアに言うのでもなく、自分に言い聞かせてる言葉のようだった。
「あ、ナギ君、ルティシア! 体は大丈夫?」
「あぁ、問題ない。 それより俺のこと治療してくれたのお前だろ? ありがとな」
「別に良いけど…そういえばユーリがごめんねって伝えてくれって」
「ユーリ? …ごめんねって、もしかして今日の対戦相手?」
「そうだよ。 ちょっと強くやり過ぎたって」
凪の苦手なことは他人の名前を覚えることだ。この世界において凪に名前を覚えられている人間はアルフとルティシア、それとティール先生の三人のみ。そんな凪は現状、他の人の名前を覚えることはしなかった。現時点ではこの三人が凪の世界であり、その世界を今はまだ広げるつもりは無いからだ。
書物を読んでいたアルフは読書を中断し、帰ってきた二人に報告をする。ルティシアは終始無言でそれを聞いていた。多少は話すようになったがそれでも基本は無言で彼女は返事を返す。アルフも最初は困ったように凪へ助けの視線を向けていたが最近では顔と表情で分かるようになってきたのか、ルティシアが黙りでも勝手に話を進めるようになった。
「気にすんなって伝えとけ」
「私は伝言板じゃないんだよ! 自分で伝えてよね! どうせ同じクラスなんだから」
「口を開くのが面倒なんだ、頼んだぞ」
「勝手過ぎぃ!」
アルフと漫才をしたらなかなか優秀なツッコミ役になりそうな位、声を張り上げている。
「…なんか飽きたな」
ポツリ、小さく呟いた言葉だったが思いの外響いて広がった。
「飽きたって?」
ルティシアは変わらずの無表情であるが纏う雰囲気に理解不能を示す色が付いている。そんな彼女を代表するかのようにアルフが凪の言葉の真意を問う。
「飽きた。 なぁルティ、俺とどっか遠くに行こうぜって言われたら着いてくか?」
「当然」
「先の見えない、暗い道でも?」
「当然」
「………なんかつまらん」
「ちょ、ちょっと! さっきから何を言ってるのさ! どっか行くって言ったってナギ君知り合いなんていないでしょ?!」
「あぁ、アルフ、お前は?」
「私は! ………つ、着いてく、かな? …じゃなくて! なんなの!?」
無表情で淡々と凪の質問に答えるルティシアとは対照的にアルフは表情豊かに動いている。凪の言っている意味が分からないといった顔だし、実際分かっていないのだろうが凪にも特に意味はない。ただ、飽きた。それだけである。
「………こっから出た方が無駄な労力が増えるな」
少しばかり、仮に学園から出たとしてその先の展開を考えてみると無駄に疲れそうだった。衝動に任せて行動するのは時と場合による。どうやら今はその時ではないようだ。
「そういえばアルフとルティはあの時その獣人がどう動いたのか見えた?」
「話題が唐突に脈絡なく変わり過ぎだよっ!! 見えたけどさ! さっきの説明されてないんだけど!」
「…もち」
言葉を略して話すルティシアの表情は薄っすらと赤い。恥ずかしいなら使うなよ、そんなツッコミを喉の奥に押し込み、うるさいアルフに詳細を聞こうとする。直ぐに気絶し、その動きを肉眼で捉えることが出来なかった凪には何が起きたのか分かっていなかった。
「あの時何をされたんだ? 腹が猛烈に痛かったことしか覚えてないんだが」
「………はぁ、お腹を殴られたんだよ。 ちょうど良いとこに拳が入って気絶しちゃったの。 ゲロ吐かなかっただけ偉いと思うよ」
「まんまじゃねぇかよ、使えねぇな。 ルティ、お前の目からは?」
「なんなのさその言い草!」
腹部に痛みが来たのにまさか頭部を殴られた訳ではない。教師に向かない性格だと新たにアルフのことが分かっただけ、良しとする。そしてこれから何か聞くことが出来たらルティシアに聞こうと凪はこっそり決意する。ため息と共に先程までのことを流してくれたのは嬉しいがそんな説明では誰も理解出来ないだろ、ルティシアの顔にもそんな気持ちが浮かんでいた。
「…脚部に魔力を集中、開始と共に魔力を解放して爆発的速度でナギに接近、速度を殺さず拳を突き出したことによって瞬殺。 速度の威力が上乗せされてなかったら意識を失くすことはなかった、はず」
「ほらな、ルティはこんなにキチンと説明してくれる。 で? さっきアルフはなんて言ったっけ?」
「ぐぬぬぬぬ」
ルティシアの詳細な解説により、漸く納得する凪。耐久力には、耐久力にしか自信のない凪は一発で沈めたのには何かしらの裏があると思っての質問だ、アルフの大雑把な解答ではなく、ルティシアのようなその裏が分かる解答は凪は求めていた。
それを聞いたアルフは整った顔立ちを歪ませ歯軋りをしてる。美人の変顔といった感じだ。
「魔力、か…。 特訓してみっかなー」
凪の言葉を聞いてアルフの目が怪しく光る。嫌な予感しかしないその目を見て、特訓はルティに頼むことにしようと固く固く決意した凪であった。




