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事態が取り返しのつかない方向に動いたのは、それから1ヶ月ぐらい経った後だ。
いつも通りゲームに付き合い、先輩が帰った後、そろそろ風呂にでも入ろうかと思っていた矢先のことだった。
「まーくん! 助けて! 助けてくれ!!」
今までに聞いたことも無い、切羽詰った先輩の声が聞こえた。
同時に、俺の部屋のドアを激しく叩く音が、室内にまで響いてきた。
いつもなら、用があるときは勝手に合鍵を使って上がりこんでくるのに、何を取り乱しているんだろう。
放っておくわけにも行かないので、俺は玄関の扉を開けた。
「どうしたんですか」
先輩、と言いかけて、俺は息を呑んだ。
着ているワンピースの胸元が引き裂かれ、衣服から覗く白い手足には、痛々しい擦過傷が幾つもあった。
髪も乱れ、頬は殴られでもしたかのように、赤く腫れあがっている。
「ま、まーくん、助けて……!」
「と、とにかく入って!」
縋りつく先輩を部屋に招き入れようとしたとき、通路の向こうから目付きの危ない男が姿を現した。
手に出刃包丁を持った痩せぎすの男は、俺と先輩の姿を認めると、それを振りかざしながらこちらに突進してきた。
そのあまりにも非日常的な光景に、俺の思考は一瞬フリーズしてしまった。
「は、早く、中へ!」
硬直から回復した俺は、何とか先輩を部屋に押し込み、奇声を発しながら出刃包丁を振り下ろすそいつの右手を、なんとか寸でのところで受け止めた。
ガリガリに痩せ細っているくせに、異様なほど力が強い。
「先輩! 鍵閉めて、警察に電話を!」
背中で扉を閉めながら、俺は扉越しに先輩に怒鳴った。
「お前か! お前か! お前が彼女を誑かしたのか!」
血走った目で俺を凝視するそいつは、威嚇するようにガチガチと歯を鳴らしながらそんな事を言った。
「ぼぼぼ、僕だけが! 彼女を幸せに出来るんだ! なんなんだお前は! 邪魔すんなよう!」
もしかして、こいつがこの前言っていた、先輩の元セフレか……?
思い余って、家にまで押しかけてきたのか。
だから、警察に相談しろって言ったのに!
「どけえ! どけよう!」
俺の拘束を振り解こうと、男は我武者羅にもがく。病的に痩せ細っているわりに力が強い。
もしかして、何かやばいクスリでもやってるんじゃないのか。
くそっ。
大体、何で俺が、先輩の痴情のもつれに巻き込まれなきゃならないんだ。
「おい! こんな夜中に何を騒いでるんだ……うおっ!?」
騒ぎを見かねて飛び出してきた隣室のおじさんが、取っ組み合う俺達を見て驚愕の声を上げる。
その一瞬、男の力が弱まった。
チャンスとばかりに、俺は男を押し返し、包丁を持つ手にしがみついた。
凶器を奪うことさえ出来れば、諦めて逃げ帰ってくれるかもしれない。
「ひ、人殺しです! 助けてください!」
チャンスを作ってくれた隣の住人に向かって呼びかけるが、おじさんは目の前で繰り広げられる光景に完全に思考が停止したのか、ぽかんと口を開け放ったまま動こうとしない。
威勢よく登場したわりには、何の役にも立ってくれない。
「ちきしょおおおおお! はなせえええええええ!」
男が癇癪を起こしたように手足をばたつかせた。
その拍子に、おそらく偶然なんだろうが、男の足が俺の向こう脛を蹴り飛ばした。
「いってえ!」
思わず凶器を持っている手を緩めてしまい、それが俺の運命を決定付けてしまった。
首筋に痛みを感じたと思った次の瞬間、ぞぶりという異様な感触と、何かがプチプチと千切れるような不快な音が俺の耳を打った。
首筋を濡らす不快な感触と、遅い来る凄まじい喪失感に、俺はその場にがっくりと膝を突いてしまった。
何とか顔を上げた俺の目に映ったのは、赤黒く染まった顔を哄笑で歪ませ、凶器を振りかざすセフレ男と、相変わらず呆けたように口を開け放ったいる隣の部屋のおじさんの顔だった。
人生の最後に目にするものが、キチガイとおっさんなんて、最悪だ。
しかも、とばっちりで殺されるなんてあんまりだ。
自分の理不尽さを呪いながら、俺の意識は闇に沈んでいった。