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「マーヤ! そっちが片付いたら水汲みを頼むよ!」
サルディーニャさんの声に、俺は分りましたという意味を込めて、右手を大きく上げた。
マルメオさんとサーラさんの計らいで、この幻想楽団という劇団に身を寄せてから、早や1ヶ月が経過しようとしていた。
劇団と言っても、当然だけど皆が役者というわけじゃない。むしろ、裏方の人間が殆どだ。
俺もその裏方の一人なわけで、劇団での俺の仕事は、簡単に言えば、家事手伝いその他雑用諸々といったところだ。
演劇以外の雑用関連については、サルディーニャさんが仕切っており、基本的に、彼女の指示に従って仕事をこなしている。
踊り子みたいな服装のせいで、始めはこの人も舞台に上がるんだろうと思っていたけど、そういうわけではないらしい。
「じゃあ、お願いね。気をつけるんだよ」
サルディーニャさんの声に見送られ、俺は両手に手桶を持つと、炊事場として使われているテントから出た。
水を汲むのは街中の共同井戸まで行く必要がある。
蛇口をひねれば水が出るのが当たり前な日本の生活に慣れていたせいか、この作業は結構な重労働だ。
日本で暮らしていた頃の俺は、男の一人暮らしだ。
一通りの炊事洗濯はこなしていたが、それはあくまで文明の利器に囲まれた世界での話しだ。
こっちのそれは、紛う事なき肉体労働そのもの。
炊事に必要な水は共同の井戸まで汲みに行かなくてはならないし、火をおこすのも当然、火打石を使う。
洗濯するにしても洗濯機なんてものは当然ない。大量の洗濯物を抱えて、川に行って洗濯板でジャブジャブだ。
この世界の女性なら、常識として知っているようなことも、俺は全く知らなかったわけで、始めのうちはサーラさんをはじめ、周囲の人に迷惑をかけまくっていた。
特にサーラさんは、俺を妹のように思っているようで、何かと世話を焼いてもらった。
ここでの仕事の殆ども、彼女に教えてもらったようなものだ。
そのお陰もあって、最近では、ようやく仕事にも慣れ始め、適度にサボ……力を抜くことも覚えて、仕事のやり方にも余裕が出てきた感じだ。
「お、マーヤ。どうだい、仕事には慣れたかい?」
「がんばりなよ、マーヤ」
共同井戸に向かう俺に、同じ劇団の団員が気さくに声を掛けてきた。
俺は、その声の一つ一つに、丁寧に頭を下げて挨拶を返した。
中世のヨーロッパみたいな感じのところだが、幸いなことに、謝辞や敬意を表すために頭を下げるお辞儀の文化がある事が、地味に助かっていた。
ちなみに、先程からみんなが口々に呼んでいるマーヤとは俺のことだ。
この地方では、女性の名前には間に長音が入るのが普通らしく、俺も始めの頃はマヤと呼ばれていたが、次第にマーヤと呼ばれるようになっていった。
別段、訂正する必要性は感じなかったので、そのままにしていたところ、俺の呼称はマーヤで定着してしいた。
ちなみに、俺の服装はここに来たときに着ていた巫女装束ではない。
身に着けているのは、サーラさんや他の女性同様のエプロンドレスのようなダブリエだ。
首からは、筆談のための黒板を紐でぶら下げている。マルメオさんに借りていたものを、そのまま使わせてもらっていた。
巫女服は自分用に貰った衣装箱に仕舞ってあり、劇団に身を寄せて以来、全く袖を通していない。
どうせ使わないのだからということで、売って経費の足しにでもしてほしいと団長に伝えたところ、子供のクセにいらん気を回すなと怒られてしまった。
街中の共同井戸は何箇所かあるが、劇団のテントから一番近いところまで、今の俺の足で10分ぐらいだ。
道すがら目に入る家々からは竈の煙が立ち昇り、パンの焼ける香ばしい匂いが辺りに立ち込めている。朝飯前の空きっ腹には結構堪えた。
共同井戸はちょっとした広場になっており、主婦や俺のような手伝いの子供やらが、順番待ちをしていた。
その最後尾に並ぶと、俺の前に居た少し恰幅の良いおばさんが振り返った。
「おはようさん、マーヤ」
手桶を地面に置くと、黒板に「おはようございます」と書いて、挨拶してきたおばさんに示した。
劇団の人達もそうだが、この街の人も殆どが良い人ばかりだ。
始めの頃は多少の奇異の目で見られもしたが、今では待ち時間の間の世間話(といっても、相槌を打つことぐらいしかできないが)をするぐらいに親しくなっていた。
会話の内容は、旦那への愚痴とか子供の教育に関してとか、お上の悪口とか、まあ、そんな感じだ。
主婦の会話って言うのは、どこの世界でも変わらないらしい。
そうやって、時々相槌を打ちながら、おばさん達の世間話に耳を傾けているうちに列は進み、俺の番になった。
水を汲み終えた俺は、そのまま世間話を続けているおばさん達に挨拶をして、まだ仕事の途中だからとその場を後にした。
今のところ、劇団の人達や街の人達とはそこそこ上手くやれてはいるが、当然のことながら、全ての人に受け入れられているわけではない。
(ほら、あの異教徒の娘、また来てるわ)
(街外れの一座のだろう。さっさとどこかへ行けばいいのに……)
少し離れたところから、そんな囁き声が聞こえてきた。
異教徒の娘というのは俺のことだ。
俺をそう呼ぶのは、このイルベリア大陸で広く信仰されている、クルセーナ教という宗教の教徒だ。
教義の中に、黒は悪魔の色というのがあるらしく、敬虔な信者の中には、東方人を異教徒呼んで毛嫌いする者がいるらしい。
最初に遭遇した山賊みたいな連中も、俺のことを異教徒と呼んでいたけど、あいつらも信徒だったのだろうか。
まあ、俺のもといた世界でも、大航海時代の著名な大海賊の中には、安息日に賛美歌の演奏を奨励するような敬虔なクリスチャンがいたぐらいだし、悪党だからといって無宗教というわけではないのかもしれない。
声のしたほうに何気なく視線をやると、慌てたように目を逸らし、胸元で十字のようなものを切りながら、何事かを呟いていた。お祈りの文句だろうか。
気にならないといえば嘘になるが、直接的な被害を受けているわけじゃないから、今のところは無視している。
それに、クルセーナ教の信者が全て東方人を異教徒呼ばわりして毛嫌いしているわけじゃない。そういうのは、極一部の原理主義的な考えを持っている人だけだ。
さっき挨拶したおばさんもクルセーナ教を信仰しているし、劇団にも信者は結構いるが、俺に対する態度は普通だ。
まかり間違っても、魔女狩りみたいな事にはならないだろう。
俺は気を取り直して手桶を持ち直すと、帰路を急いだ。