それは、あきらめではなく
「春真、何かあった?」
待ち合わせ場所であるロビーで顔を合わせてから、桃澤はどこかそわそわとしていた。
ただ、開演までそんなに余裕もなく、当たり障りのない会話をしながら席についたものの、なんとなく気もそぞろなのが演奏中もなんとなく解った。
休憩時間になるなり、春真の腕を引いて、桃澤は足早にロビーの外れにあるベンチに居場所を定める。
「そんなに変な顔してる?」
自覚はなかったのだけれど、そういって春真が苦笑すると、桃澤は目に見えて言い淀んで、言葉を探すように視線をさ迷わせた。
「ええと、その」
「うん」
急かしもせずに頷くと、桃澤は思いきったように視線をあげる。
「おかしな話だと思うかもしれないけど、あたし、春真とこうやって出掛けたり、遊んだりするには、女の子の自分を放棄しなきゃいけないと思ってたわけ」
一息にそこまで言いきって、桃澤は慌てて手を振った。
「勿論、放棄っていっても、例えよ?なんていうか、女らしいとか、そういう、」
「解ってるよ。恋愛感情に繋がるもの、が近いかな」
春真が小さく笑うと、桃澤は呆気に取られたように視線をあげて、それから不満げに息をつく。
「なんだ。意識はあったのね」
「当たらずとも、遠からず。かな」
「その表現、おかしくない?」
「少なくとも俺は、黄波戸の方が余程良い男だと思うけど」
「どうして此処で、あいつが出てくるのよ」
嫌そうに眉を顰めた桃澤に手を伸ばして、春真は彼女をベンチから引き上げた。
「ずっと好きな人がいたんだ」
「それ、好きになったら、いけない人だったわけ?」
「そう」
姉だから。となんでもないことのように言うと、桃澤が妙な顔をする。
春真は、夏葉のことを『本当の姉ではない』と一度も口にしたことはなかった。
その否定は、春真の最も厭うところであり、春真の根底を覆すことになることをずっと知っていたからだ。
春真にとって夏葉は、特別な人。
だからこそ、春真は繋がりの切れることのない家族を望んだ。
でも、もう、良いのだ。
諦めた訳でも、憂いた訳でもない。
ただ、そんなに必死に握りしめなくても、この糸はとけてしまわないと解ったから。




