それは、しゃこうじれいのように
バイト服の袖のカフスを外しながら、相変わらずカップを磨いているマスターの傍へ近寄る。
開店までは、まだ少し時間があった。
「ホール、誰か辞めたの?」
「いや、そういう訳じゃなかったんだけど、知り合いに頼まれちゃってね」
ホールで机を拭く彼女を横目に、マスターは小さく笑う。
「大学生は雇わないって言ってなかった?」
以前、演奏を聞きにやってきた同じ学校の女子大生をすげなく断っていたのを思い出して尋ねるとマスターは肩を竦めた。
「だって彼女達の目的は、勤労じゃなくい君だったからね。それに、言っておくけど雪ちゃんは、とっくに大学出てるよ」
「本当に?」
思わず彼女に視線を投げる。
そう言われれば年上に見えなくもないが、大学一年と言われても通じそうだ。
視線に気づいたのか、机を拭いていた彼女がふと顔を上げる。
「どうも」
唐突に表れた美少女に面喰いながらも、つられたように礼を返すと、店長が補足するように口を開く。
「さっき話したピアノ弾きの紅野君。週3とか4でバーの時間だけピアノ弾きに来てるんだよ。イケメンでしょ?」
にこにこ笑う店長に、美少女も少しだけ口元を緩めた。
「解ります。お客様にファンクラブが出来そうですね」
「実はもうあるんだよね」
「そうなんですか。すごいですね」
初対面で女の子に好意を向けられないことは殆どない。
ただ、気のないふりをする女の子は結構いる。
”私、貴方に興味ないです”という恰好を崩さないのに、その視線や仕草は、興味を持っていることを如実に物語る。
けれど彼女の場合は、そのどちらでもなかった。
その瞳は凪のように静かだ。
「紅野君、で構いませんか?」
「いいよ。そっちは?」
「雪でも、墨吉でも呼びやすいもので構いません。マスター、先に机拭いてしまいますね」
布巾を受け取ってホールに出ていく彼女を見送るとなく見送って、思い出したように鞄を置きにいって戻ると、マスターがまたカップを磨いていたわけだ。
「雪さん、いくつ?」
「大学を卒業して三年目です」
「てことは、二十五歳?」
「そうなりますね」
「若く見えるね」
「ありがとうございます」
機嫌を取るつもりで言ったわけでもなかったが、あっさりと躱されて思わず肩を竦めた。
物腰は確かに穏やかで大人びた印象を受ける。
大学の少女達の燥いだ様子を考えると、彼女が三年前そんな喧噪のなかにいたことが不思議な気もした。
彼女がホールから厨房に姿を消したのを確認してピアノの椅子に腰かけて、音を鳴らす。
夕暮れから夜に変わる店内の空気に、ピアノの音は良く融けた。