それは、いたんのしこうでも
男になりたいと、思ったことはなかった。
かといって、女になりたかったわけでもない。
男にも女にも、なりたくなかった。
それなら何になりたいのか。
そう聞かれたら、春真は多分迷わず、『子どもでいたい』と告げたはずだ。
春真にとって、ピアノは子ども時代の象徴だった。
両親が春真に初めて買い与えたのは小さなピアノの玩具で、二人が唯一春真に習わせたのがピアノだった。
二人の視界に入ること。
二人が喜ぶこと。
それはピアノに繋がる。
コンクールに出て、賞を貰って、ぎしぎしと音を立てる家の中に、ピアノはずっと潤滑油のように響いていた。
もともと両親は、極度のワーカーホリックではあったのだ。
参観日も、運動会も、彼等が揃って訪れることはなかったが、唯一ピアノの発表会だけは、二人揃って前の方の席でビデオを回していた。
いや、その頃にはすでに姉がいて、二人について見に来ていたのだろう。
すでに、というのもなんだか妙な話ではある。
春真は、生まれた時から、紅野春真という存在だった。
両親が離婚したこともなければ、養子に入ったこともない。
紅野和博と桃恵の長男で一人息子。
その一方で、姉は確かに生まれた時から今の姓名を与えられてはいたが、それは春真とは異なるものだった。
戸籍上、春真には兄弟はいないのだ。
春真はずっと彼女を姉と呼んでいるが、正式な名称を考えれば彼女は従姉妹に当たるのだろう。
彼女は母親の姉の子どもだった。
そしで同時に、父親の妹の子どもだった。
彼女の母親に当たる人物は、血のつながりとしては桃恵の姉であったが、戸籍上は養子縁組をして和博の妹として紅野の家に迎えられていたからであった。
それがどんな理由か、春真は知らない。
ただ、春真にとって彼女はやはり従姉妹ではなく、姉だった。
物心つく頃には、すでに一緒に住んでいたからかもしれない。
家にいない両親の代わりに、春真は姉と一緒に過ごした。
勿論、姉が本当の姉でないことは初めから知っていた。
知っていてなお、彼女を姉と呼び続けるのは、やはり子どもでいたいと、無意識下で思っていたからなのだろう。
春真の姉を慕うそれは、決して恋愛感情にはならなかった。
春真は知っていた。
恋愛という曖昧な感情の繋がりは、儚く脆い。
その一方で、姉弟という存在は、いつまで経っても切れることはない。
春真は自分のこの未熟な感情を、家庭環境が原因だとは考えていなかった。
ただ、自分が弱いのだと、そう思っていた。
この家が、両親と姉と春真とで構成されている時間は、春真が子どもでなくなれば終わりを告げるものだと、そういう認識がいつの間にか出来上がっていて、気付けば春真はピアノから離れられなくなっていた。
ピアノに支障の出るものは、何もいらない。
長く伸びる爪も。
重い腕時計も。
じゃらじゃらした装飾品も。
子どもでいるための道具だったはずのピアノに、いつのまにか春真ははまり込んでいたのだ。
手段なのか目的なのか、今の春真には答えられない。
ただ唯一解るのは、
「俺が、社会不適合者だって気づいたからかな」
他には何もいらないと、そう思っていたはずだった。
少なくとも、そう思っていたのだ。
両親が、あまり家に戻らなくなった時も。
姉が結婚すると聞いた時も。
こんな風に足元が崩れる様な揺れは、一度も訪れなかったから。




