それは、たをかえりみない
「雪ちゃんにお願いしたいのは、『紅野春真に自分の行いの酷さを自覚させたい』ってこと。だから、雪ちゃん。彼をたぶらかして、めろめろにしちゃって頂戴!」
まるで近所のスーパーに大根を買いに行ってきて、というような気軽さで彼女はそういって長い指を突き付けた。
隣で男が子どもの悪戯を見つけたように小さく笑う。
「一度くらい本気で恋愛すれば、人の気持ちが解るようになると思うのよ。有頂天からたたき落としてやって!」
「そんな大役が勤まるとは思いませんが」
「勤まるわよ!だって雪ちゃんが男だって知ってても、未練がましい連中だっているじゃない。雪ちゃんには、それだけ魅力があるわ!」
「はぁ」
褒められているのか良く解らない言葉だ。
「近所の老若男女問わず魅了してるって聞いてるわよ」
「なんですか、それ」
「え? 緑川君がいってたわよ。ご近所で人気があるって」
唐突に零れた気のおけない友人の名前にため息をつく。
彼の言うことは何事も大袈裟なのだ。
「それに、難攻不落なほど、落としたくなるらしいわ」
「どうして、女性に頼まないんですか?」
ずっと気になっていたことを口にすれば、途端に青柳は慌てたようにぶんぶんと手を振った。
「だめよ。だめだめ。だって、万が一その子が彼に惚れちゃったら困るもの。被害者を増やすのはいただけないでしょ。その点、雪ちゃんは男の子で、男の子にアタックされてもよろめかないだろうし」
「それはそうですが」
正論なのか良く解らないが、何となく筋が通っている気がしてしまうから不思議だ。
「取り敢えず、紅野春真が良くバイトでピアノを弾く喫茶店兼ジャズバーがあるの。社長が、そこの店長と知り合いだから、雪ちゃんにはそこにアルバイトに入ってもらおうと思ってるの。出会いはそれでいいと思うんだけど、どうかしら?」
張り巡らされた蜘蛛の巣に絡め取られた蝶の気分だ。
此処で引受けなければ、青柳が溺愛する妹のために次はどんな手に出るつもりなのか。
現在でも既に素行調査のようなことをしているようだから、強硬手段に出ないとも限らない。
そうなれば多分、彼女の妹も傷つく。
それに、平日の昼間からこんなことをしているということは、仕事の方が御座なりになっている証拠だ。
以前、彼女の妹の通う高校の近くに髪切り魔が出たときは、仕事を放り出して調査や警護に一週間ばかり奔走した前科もある。
(この時は、結局彼女が髪切り魔を捕まえたのだ。)
その時は彼女の部下である茶竹に散々愚痴られた。
助けを求めるように男を見ると、彼は僅かに身を乗り出す。
「雪君。僕が、あの時話したこと覚えてる?」
「あ、はい」
男の会社で働くときに言われた言葉は、今も一字一句思い出せた。
珈琲を飲み干して、ひとつ息をつく。
「青柳さん」
「なに?」
「紅野春真君が、どんな人で、どんな気持ちで妹さんを泣かせたのか。それから、もしその気持ちが悪意でなかったとしても、それが妹さんを傷つけたのだという事実が理解できる人なのか。それを知りたいんですよね?」
「そう、ね。そうなるわ」
一宿一飯の恩義、という訳でもないが、定期的に仕事が入るようになったのは青柳から回してもらった仕事がもとになったことは確かだ。
気は進まなくても、此処まで話を聞いて無下に断ることもできない。
「わかりました。出来る範囲でなら、協力します」
いつの間にか西に傾いた太陽が、溜息の落ちた店の床を妙に赤く染めていた。