それは、やっかいなおねがい
特に表情を変えることもなく次の言葉を待てば、青柳は少し慌てたように手を振った。
「突然ごめんね。あ、えっとね。どこから説明したらいいかな」
「相手は、誰なんですか?」
話の筋より先に、それは聞いておきたかった。
どんな嘘かよりも、何のためかよりも、誰に対して、という方が先に知りたい。
それを予期していなかったようで、青柳は一瞬呆気にとられてそれからくすりと笑った。
「大丈夫、というのも変だけど。雪ちゃんの知らない人よ」
意味が解らずに眉根を寄せると、青柳が困ったように男を見遣る。
「どう、説明したら良いかしら」
「気になるようだから、嘘の内容や理由よりも先に彼の事を話したらどうかな」
「じゃあ、そうしようかな。意味が解らなかったり、説明が足りなかったら、その都度聞いてくれて良いから」
了承の意味を込めて頷くと、気合を入れるかのように、青柳は冷めかけの珈琲を一気に煽った。
「相手は、彼。紅野春真。漢字は、紅に、野原の野で紅野。季節の春に、真実の真で春真、よ」
準備が良いというのかなんなのか、机の上に差し出されたL版の紙をひっくり返すと、其処に映っていたのは、写真に写ってさえ人目を惹く一人の青年。
「因みに、実物は5割増しよ」
「はぁ」
写真を見るまで半信半疑だったが、本当に全く知らない人間だ。
紅野、という苗字には覚えがない。
「あぁ。心配しなくても両親に離婚歴があったり、養子縁組制度を利用したわけでもない。生まれてから今まで、彼は紅野春真という名前で生活している」
思考を読んだわけでもないだろうが、男は補足のようにそう言って美味しそうに珈琲を飲んだ。
「そうですか」
「その、紅野春真を、騙してほしいの」
その言葉で、漸くおぼろげながら話の輪郭が見えてきた。
嘘、という言葉はあまりにも漠然とし過ぎていたけれど、騙す、というのなら話はもっと簡単だ。
わざわざ自分を指名してお願いをするのだから、多分、そういうことだろう。
「つまり、その人を相手に芝居を打ってほしい、ということですか?」
零れた溜息を受け止めてくれたのは、いつの間にか冷めてしまった珈琲だった。