それは、いつでもてをぬかず
「よぉ」
雪之丞が家のリビングで珈琲を飲みながらぼんやりしていると、いつの間に入ってきたのか緑川が隣に座った。
「原稿、できてます」
「早いな。締切までもう少しあったよな」
「バイトするようになってから、少しペースが上がった気がします」
「ほう?」
「時間の使い方が、うまくなったのかもしれません」
「まぁ、無理はするなよ。倒れたら本末転倒だぜ?」
「そうですね」
珈琲を飲み干して、雪之丞はソファから立ち上がる。
「何か飲みますか?」
「林檎」
「解りました」
冷蔵庫から林檎ジュースを出してコップに注いでいると、背凭れを軸に振り返った緑川が口を開く。
「なぁ」
「はい?」
「読み聞かせCDの話なんだけどな」
緑川の前に音を立ててコップを置いて、雪之丞は肩を竦めた。
「原稿取ってくるので、少し待っててください」
「は? あぁ」
キョトンとしたように頷く緑川を階下に置いて、雪之丞は階段を上がる。
雪之丞の父親は何かと仕事で忙しくしている人だが、母親の方は専業主婦でありながら多趣味な人だった。
そのせいでこの家の地下には本格的な設備のある防音室があるし、二階の上に小さな屋根裏があって、大きな窓と割と物の良い天体望遠鏡がある。
その他に庭の物置には、結構ぎっしりとこれまでの趣味の変遷がうかがえるものが詰まっていた。
物置の上の大きな無線アンテナもそうだ。
何事もエンジン全開で取り組んで、あっという間に資格を取ってしまうような人だから、次々に手を出すのも早かった。
机の上の封筒と、それから一枚のCDを持って、雪之丞は階段を下る。
「お願いします」
「こっちは?」
ソファの横に腰を下ろした雪之丞に、緑川は差し出されたCDを訝しげに示した。
「この間渡したのと違うな」
「問題あったら連絡ください」
素っ気なく言うと、緑川が驚いた様に瞬く。
「お前、これ、録ったのか?」
「いただいたCDを参考にしてあります。編集しやすいように入れてはありますけど、戻って担当の方と聞いてみてください」
思い切り溜息をついて、緑川はひらひらとCDを振った。
「これは流石に仕事が早すぎるんじゃねぇか?」
「遅いよりはいいと思いますけどね。その代り、約束は守ってくださいよ」
「あん?」
「名前、出さないでくださいね」
その言葉に、漸く緑川は納得した様子で肩を竦める。
「成程な。自宅でのレコーディングはそれが理由か。了解。担当のアイツにも口止めしとく」
「よろしくお願いします」
「イズ、にしといてやるよ」
「はい?」
「語り手の偽名」
墨と雪で、INK and SNOW。
それを略して「IS」。
そういえば、あのCDのレーベルに表記する名前を考案したのは他でもない緑川だった。
「良く覚えていますね」
「言ったろ。気に入ってるんだよ」
「褒めても何も出ませんよ」
「これで十分だ」
相変わらずひらひらとCDを振って、緑川は林檎ジュースを一気飲みして立ち上がる。
「戻って早速聞くかな」
「どうぞ」
「今日も行くのか?」
「バイトですか? はい」
「なら、明日朝一で連絡入れる」
じゃあな。封筒とCDを鞄に突っ込むと、緑川はいそいそとリビングを出て行った。




