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綺羅と嘘とその先  作者: 蛍灯 もゆる
嘘つきの起
15/102

それは、こころのなぐさめに


何だかんだと長居をした最後のお客さんが帰った頃には、時計は12時を廻っていた。

洗い物を終えたマスターが、ピアノの片づけを終えた春真に珈琲を出してくれる。


「お疲れ様」

「ありがとう」


春真がカウンター席に腰かけてコップを持ち上げると、マスターがホールを掃除していた彼女にも声をかけた。


「雪ちゃんもお疲れ様。こっちきて珈琲飲んでよ」

「ありがとうございます。これ、片付けてきます」


ドリップした珈琲の香りは、先ほどまでの喧噪を全てリセットするようだ。

営業の終わったバーに、これほど似合う香りもないような気がする。

そんなことを考えながら、春真がぼんやりとカップに口をつけると、モップを仕舞って戻ってきた彼女が、立ったまま唐突にマスターに頭を下げた。


「今日は、すみませんでした」

「え? どうしたの、雪ちゃん」

「あの、途中でいらっしゃった五人組のお客様の件です」

「あぁ」


マスターは納得したように頷いて、首を傾げる。


「お客さん、断ろうとしたこと?」

「はい」

「じゃあ、理由を教えてくれる?」

「え?」


マスターは自分用にいれた珈琲を一口飲んで、キョトンとした彼女に座るように促した。


「少なくとも、此処数日雪ちゃんを見て、理由もなくそんなことするとは思えない。だから、雪ちゃんの理由を教えてくれる?」

「身勝手ですよ?」

「うん。それでも」


譲らないマスターに、彼女は少しだけ目を細めて視線を落とす。


「先にお店に入った人の居心地の良い空間を、壊してほしくなかったんです」

「うん?」

「テーブルにご案内した時点で、其処に付随する備品は、確かに店のものではありますが、お客様のテリトリーだと思うんです」


穏やかに零れた彼女の言葉に、春真は微かに首を傾げる。

テリトリーという言葉が、なんだかこの店には不釣合に聞こえた。


「ですから、例え使っていなくても、椅子や調味料やその他そのテリトリーの中のものを他のお客様に融通することは、どうしてもしたくなかったんです。なんだか、早く帰れと言っているみたいで。それもあって、追加オーダーもないのに、机の上から食器を片づけるのも、あまり好きになれなくて」

「そっか」

「でも、本来であれば後からきたお客様にも、良い空間を提供するのがお店というものなんですよね。紅野君が対応してくれなかったら、あのお客様を怒らせて帰っていただくことになってしまっていました。勝手に判断した上に、お店の評判を落としてしまうことになったかもしれなくて。本当に申し訳ありません」


深く頭を下げた彼女に、けれどマスターはにこにこしたままだった。

僅かに瞬いて、春真は小さく肩を竦める。


「ねぇ、雪ちゃん」

「はい」

「良い空間を守るっていうのも、お店の事を考えてくれてたことだと思うんだ。だから、ありがとう。でも、これから揉め事になりそうな時は、必ず声かけるようにしてくれるかな?」

「はい」


神妙に頷いた彼女に、マスターは入れたての珈琲をカウンターに出す。

その横顔を眺めながら、春真は少しだけ眉を顰めた。

彼女は多分気付いていないが、マスターは彼女の対応に不満がある訳ではないのだ。

ただ、自分の方が与しやすしと思われないことを知ってる。

それだけのことだ。


「はい、じゃあこの話は終わりね。雪ちゃんも座って。お疲れ様」

「ありがとうございます。いただきます」

「あ、そうだ。雪ちゃんはお酒飲める?」


唐突なマスターの台詞に、珈琲カップを掴んだ彼女が一拍おいてこくりと頷く。


「飲めます。あまり強くはないですが」

「そっか」

「何かありますか?」

「いや、うちの常連さんにね。飲むと浮かれるタイプの人がいるんだけど、たまに、”俺の酒が飲めないのか?”ってなる人でね。勿論、普段はそこまで酔うほど飲まないんだけど、仕事でストレスがたまるとどうしてもね」


マスターの苦笑に、春真の脳裏に一人のサラリーマンの姿が浮かんだ。

時折一人でやってきては、カウンター席でマスターと話をしている。

あまり曲をリクエストするタイプではないが、馴染みのある曲を弾くと必ず肩が揺れていた。


「そんな方がいらっしゃるんですか」

「うん。仕事中だけど、他にお客さんいない時しか言わないし、そう言われたら、ちょっとだけ飲んであげてくれる?」

「解りました」


微かに笑って頷いた彼女は、珈琲を飲み干して手を合わせる。


「御馳走様でした。美味しかったです」

「それは良かった。じゃあ、今日は終わりね。明日は金曜日だからお客さん多いと思うけど」

「解りました。少し早めに入ります」

「うん。ありがとう」


鞄を取りに彼女は奥に入って、春真はマスターと二人残された。


「春真君、今日は雪ちゃんのフォローありがとう」

「いいえ。でも、雪さんだったらなんとかなったかもしれないけどね」

「どうかな。目当ての春真君だったからこそ、あの子たちも引いたかもしれないよ」


春真目当てのミーハーな客は、マスターの好むところではない。

だからこそ、春真はマスターが出ていく前に、少女達を宥めて帰した。

マスターなら、店の評判などは気にせずに、多分笑顔で追い返しただろう。


「そうすると、雪さんは完全にとばっちりだね」

「雪ちゃんに悪いと思うなら、お詫びも兼ねて一緒に帰ったら? あれだけ美人さんだと夜道は厄介だよ」

「そうだね。そうしようかな」


御馳走様とコーヒーカップを渡して、春真は調度奥から出てきた彼女を引き留める。


「お疲れ様でした。お先に、」

「雪さん、待って。途中まで一緒に帰っていい?」

「え? はい、構いませんけど」


訝しげな彼女ににっこりと笑って見せて、春真は奥に置いてあった鞄を掴むと、ひらひらとマスターに手を振って彼女と一緒に店を出た。


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