それは、しゅわんのみせどころ
雪之丞が近頃働き始めた喫茶店兼バーの裏口を入った時は、まだ空が僅かに明るかった。
「こんにちは」
「あぁ、雪ちゃん。いらっしゃい。早いね」
にこにこしたマスターが洗い物の手を止めて振り返る。
青柳と社長がどのような話を通したのかは解らないが、最初は少しよそよそしかったマスターの対応が日を追うごとに穏やかになっていくのは解った。
昼間は本業である翻訳の仕事を熟して、夜は此処で働くのが最近の日課だ。
春真の事を置いておけば、此処で働くのはそれなりに楽しいと言えた。
この店に来る客は、悪い酔い方をするものが少ない。
オーダーを聞きに行って話しかけられることはあるが、それとて無理強いするようなものではない。
客層が高めであるというのも、大きいのかもしれなかった。
思っていたほど、春真の取り巻きと思われるような少女達も訪れない。
支給されている制服に着替えて、雪之丞は今日の予約票を確認する。
今日の予約は二組だ。
「マスター、今日の予約席はピアノの傍で良いですか?」
「あ、今日はね、片方は、奥の窓際にしてくれる?」
「解りました」
予約用のテーブルセットをさくさくと終えると、不意にマスターが手招く。
「なんでしょう?」
「座って、座って」
カウンターの隅の席を示されて、きょとんとしたまま腰かけると、マスターが注いだばかりの珈琲を前に置いた。
「あの、これ」
「雪ちゃん、まだ飲んだことなかったでしょ? 開店までまだあるから、どうぞ」
「ありがとうございます」
良く解らぬままにカップに口をつけると、マスターがにこにこと笑う。
「いやぁ。雪ちゃんは働き者で助かるよ。それに、見た目だけじゃなくて、立ち振る舞いも美人だしね。紹介してもらって良かった」
「無理を言って働かせていただいた身としては、そう言って貰えるとほっとします」
「いやいや。あの人の見る目は確かだから、心配してたわけじゃないんだけどね。でも、こんなに美人さんがくるとは思わなかったねぇ、本当に」
曖昧に苦笑すると、マスターが首を竦めた。
「春真君も、ねぇ。随分整った顔してるから、初めて見た時はびっくりしたんだけどねぇ」
「そうですね」
「最初はね、うちの店には似合わないんじゃないかと思って断るつもりだったの。その時は、うち、結構新規のお客さんが少なくてね。常連さんも引っ越したり、体調崩したりで、ちょっと危なかったんだよね。なんていうか、転覆しかかった船っていうの? でも、春真君が此処の雰囲気が好きだからって、結局押し切られて。今まで生演奏は月に1回くらいだったんだけど、ずっと増えたんだよね。彼の演奏目当てにくるお客さんもいるしねぇ」
「そうだったんですか」
「うん。そうなんだよね」
珈琲を飲み干して、雪之丞はマスターを見上げてふわりと笑う。
「自分も、此処の雰囲気が好きです。働かせていただいて、ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうね」
マスターの言葉に被さるように、裏口のベルが開閉を告げて響いた。




