これは、ちょっぴりおまけのそのご
辞書を捲りながら洋書と睨めっこをしていると、不意に高い呼び鈴の音が響く。
深淵から浮上するようにふっと持ち上がった意識と同時に時計を確認すれば、短い針がいつのまにか随分と歩を進めていた。
思い切り伸びをして立ち上がると、雪之丞は足早に部屋を出る。
「紅野君?」
「久しぶり、雪さん」
玄関を開ければ、其処にいたのは年下の友人で、きょとんと首を傾げて見せると、「これ、お土産」と大きな紙袋を押し付けられた。
「お土産、ですか?」
「うん。姉さんの所に行ってきたから」
「あぁ、銀木さんの所へ。そうでしたか。久しぶりの家族旅行は如何でしたか?」
「楽しかったよ。だから、お裾分け」
にこりと笑う春真が紙袋を示すので、雪之丞はかなり重いそれに視線を落とす。
「これ、随分量が多いようですが」
「あ、緑川さんの分も入ってるから、今度来た時に渡して」
あっさりとそう答えた春真に、雪之丞はなるほどと頷いて肩を竦めた。
「そういうことですか」
「うん、そういうこと。上がっていい?」
「どうぞ」
「お邪魔します」
横に退いて道をあけると、春真はすたすたと上り込んで奥へ向かう。
そういうこと。
つまり春真が連絡もなしに訪れたのは、緑川の差し金ということである。
全てに片が付いて、雪之丞は緑川を誘って春真のピアノを聞きにマスターの店を訪れた。
その翌日、何故か緑川と春真は揃ってこの家にやってきて、意気投合してしまったのである。
それから何だかんだと学生に戻ったように三人で飲み明かして、緑川にも事の顛末を話してしまった。
それから春真と緑川は良く連絡を取りあっているらしく、雪之丞の知らないところで結託して動いていることが良くある。
「それで、今日は何を言われたんですか?」
入れたばかりの珈琲のカップを差し出せば、春真は小さく笑って「ありがとう」とそれを受け取る。
「根詰め過ぎた雪さんに、御飯を食べさせろって」
「どうして紅野君にお願いするんですか。あの人は」
あまりに呆れた命令に雪之丞がこめかみを押さえると、カップに口をつけた春真が僅かに目を細めた。
「緑川さん、今日は抜けられないんだって」
「紅野君に連絡したということは、メールくらいは打てる状況だと思いますけど」
「だって雪さん、メールじゃ聞いてくれないよね」
「そんなことありませんよ」
「あるよ。この間だって、夜中まで何も食べずに仕事してた」
「あの時は、そんな暇がなかっただけで」
「見張りが来たら、食べざるを得ないでしょ」
「それはそうですが」
カップをおいてにっこりと笑う春真に、雪之丞は小さくため息をつく。
それを見てから、春真は鞄の中から四角い包みを取り出した。
「ということで、これ」
「何ですか?」
「マスター特製お弁当」
「え?」
「マスターの所にもお土産届けに行ったから。そのついでに適当に詰めてもらったんだ」
ぱかりと開けられた重箱には、サンドウィットがぎっしり詰まっていて、雪之丞は敵わないと首を振る。
これは準備が良すぎるというものだ。
時計は、もうすぐ17時になろうかというところで、確かに雪之丞は7時に朝食を食べたきり、何も口にしてはいない。
多分春真が来なければ、そのまま深夜まで洋書を眺めていたことだろう。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。それにしても、緑川さんって、本当に雪さんのこと良く解ってるよね」
「まあ、長い付き合いですからね」
肩を竦めて椅子に座れば、春真がちらりと視線を投げた。
「雪さん、緑川さんの彼女だって勘違いされたことあるよね?」
「それはまあ、ありましたけど。どうかしましたか?」
「緑川さんの彼女になる人は大変だね」
「どうしてですか?」
「雪さんが美人だから」
「言っておきますけど、星野さんはとても明るくて元気な方で、彼にとてもお似合いですよ」
「星野さん?」
きょとんとした春真に、雪之丞はあっさりと頷く。
「えぇ」
「ちょっと待って。それ、誰?」
「大学生の時から彼と付き合っている女性です」
「緑川さんの彼女?」
春真が驚いた様に目を丸くした。
珍しい表情の変化に、雪之丞は目を瞬く。
「えぇ。そうですよ」
「緑川さん彼女いたの?」
知らなかった。ぽつりと零した春真に、雪之丞は彼女と会った時のことを思い出す。
『可愛いものに目がない』
事前に緑川にはそう聞いていたが、会って早々あんなに目をキラキラさせて洋服のモデルに口説かれるとは思わなかった。
デザイナーをしてる彼女は、多分春真に会っても同じことを言いそうだ。
「ちょっと待って、あの」
「はい?」
「雪さんも、彼女いるの?」
「今はいません」
「今は?」
「はい」
「過去にはいたってこと?」
「そうですね。過去にはいました」
サンドウィッチを摘まみながら答えると、目に見えて春真の表情が沈む。
「紅野君?」
「狡いなあ」
「狡い、ですか?」
「雪さんは、俺と同じだと思ったのに」
拗ねたような物言いに、雪之丞は小さくため息をついて見せた。
「紅野君だって、不特定多数の彼女がいたようなものだと思うのですが」
「そう?」
「そうです」
「それは心外かな」
「彼女、欲しいんですか?」
「いつかね。今はまだ、雪さんや緑川さんたちと遊んでる方が楽しいから」
「紅野君だったら、素敵な人に出会えると思いますよ」
「雪さんもね。ま、それまでは緑川さんや俺が面倒見るってことで」
「はい?」
「雪さんが、頑張りすぎないように」
「こちらの方が年上なのですが」
「そう思うなら、ご飯位ちゃんと食べてほしいなぁ」
「サンドウィッチ、美味しいです」
「それは何より」
くすくすと笑って、結局春真は食べ終わるまで其処にいた。
「じゃ、また」
「わざわざありがとうございました」
「緑川さんにも、また飲みましょうって伝えてね。あ、黄波戸がまたヒーローショーやるから、良かったらって」
「本当ですか? ありがとうございます」
「うん。じゃあ、また連絡するね」
玄関まで春真を見送って部屋に戻ってから、ふと思い至って窓を開ける。
あの日のように街灯の下にいた春真が、気付いてひらひらと手を振った。




