それは、ことばにならない
出ると決めてから、構内コンクールまでは本当にあっという間だった。
年末年始が間に入ったせいもあるのだろう。
本選に残ってから、黄波戸は、頑張れよと肩を叩いてくれて、桃澤は差し入れだと、よくおにぎりをくれた。
普段以上に教授とのレッスンが入ったお陰で、バイトも短期休暇を貰うことになったが、報告に行ったときのマスターはどこか嬉しそうで、紫村も特に茶化す様子もなく、おめでとうと笑った。
結局、あれから雪之丞にも会っていない。
文化祭以来だから、二ヶ月近くだ。
思えば、出会ってから、まだ半年にも満たないのだと、舞台の袖でカフスを直しながら、春真は今更のように思い出す。
「エントリーナンバー3。ピアノ専攻三年、紅野春真君」
舞台のスポットライトが眩しい。
僅かに震えそうになる足に、春真は解らないように苦笑する。
紺谷に頼まれて出た劇ではこんな風にはならなかった。
『舞台には魔物が棲んでいる』
あの日、黄波戸の舞台を見に言った時、雪之丞と交わした会話。
「仲良くしよう。君は多分、いままで俺の中にいたんだろう」
椅子を引いて、春真は呟く。
魔物は闇で、魔物は光だ。
紅野春真の存在そのもの。
指揮者のタクトが振り下ろされた。
「ブラボー!」
割れんばかりの拍手とは、こう言うものかと、春真はどこか冷静な部分で思う。
鍵盤を離れた手が微かに震えていた。
立ち上がって、頭を下げて、舞台袖を抜ける。
途中でかけられた賞賛は耳に入らなかった。
熱にでも浮かされているようだ。
廊下に出た春真の耳に、入り乱れた足音だけが、どうしてか届いて、
「春君!」
「春真!」
目を、疑った。
「凄く良い演奏だったわ」
「あぁ。じんときたぞ」
「母、さん?父さん?どうして、」
随分と久しぶりで、何を口にしたらいいのかも、春真には解らない。
頭が思考を完全に放棄して、春真はただ目を丸くしたまま立ち尽くした。
「どうしてって、春君の晴れ舞台じゃない」
「だけど、仕事は」
「あのな。春真の演奏を優先できないほどじゃないよ」
「来年は、春君も授業少ないのよね?落ち着いたら夏ちゃんの演奏会にも一緒に行きましょうね。お父さんと頑張って仕事片付けちゃうから」
「姉さんに、聞いたの?」
姉には、一応報告はしていたが、とっくに外国に帰っている。
「夏ちゃん?違うわ。春君の彼女がチケット持って職場まで来てくれたの」
「随分可愛い人だな、春真」
それが示す人物は一人しか思い至らなかった。




