#7
翌朝は目覚めてみると、天気はどんよりしていた。とても寒く、夜には雪になりそうな感じがする。
「ホワイトクリスマスか。」
香那紀は気分がよかった。ハードな仕事だったが、ほぼ一段落であと少しの修正のみとなったこともあるが、それよりも今回は一人ではなく、館野がいろいろ協力してくれた上に、館野がいたことで重苦しい仕事の時間がこの上なくたのしい時間となったからだ。おまけに昨夜は睡眠不足の上、ワインを飲んだこともあって深く眠れた。朝になって熱めのシャワーを浴びて気分は爽快だった。香那紀は早く会社に行って修正を済ませたい思いに駆られていた。午後3時には館野に会える。そう思うと心が踊る。そして香那紀ははっとする。
「私、部長のこと・・・。」
香那紀は急にどきどきしてきて体が熱くなる。好きな気持ちに気付いてしまったがために、はやる気持ちが抑えられない。香那紀は食事もそこそこに身支度して会社にでかける。会社につくとすぐにPCを開けて作業にはいった。昨日館野に指摘されたところを丁寧に修正し、追加する。ひとつひとつ仕上がるたびにうれしさが増してきた。二人で作り上げた仕事が一歩一歩完成に近づく瞬間は香那紀にとって至福のときだった。修正が完了したときまだ昼すぎだったので、香那紀は食事がてら外へ出ることにする。会社は繁華街の中心にあるため、このあたりにはデパートやショッピングセンターが立ち並ぶ。香那紀はたまに行くお気に入りのカフェに足を伸ばし、カフェ飯で軽くランチを済ませるとまだ時間があったのでクリスマスイヴで盛り上がるにぎやかしい街の雰囲気をもう少し楽しむことにした。こんな気分で街を歩くのは久しぶりだった。以前は時々街にぶらぶら出かけてショッピングしたり、映画を見たりということもしていた。しかし、いつのまにか、そんなことも忘れてただただ仕事に費やす日々になって毎日心も体も疲れてきっていた。つまらない人間だってみんなは思うだろう、ふとそんな風に思えた。時々はこうして気分転換したり、新しいことに挑戦したりという時がないと本当に魅力のないただの仕事ばかになってしまう。年齢も年齢だからいつまでも惰性で人生やっていくわけにもいかない。ふと、香那紀は館野のことを思った。館野は自分より3つ年上で独身だ。特に決まった女性もいないといっていた。自分の人生をどう考えているんだろう。仕事以外にも何か自分らしい時間をもっているのだろうか。この先どう生きていこうかなんていうことも考えているのだろうか。そんな疑問を持ったが香那紀は自分が考えたことを心の中で笑う。あれだけ頭のいい人だし、自分自身をはっきりもっている人なのだから、なんらか自分の人生ぐらい考えているはずだ。もしかしたら、だから決まった女性を作らないのかもしれない。結婚という文字がいい意味で似合わない人だから仕事や自分の何か他のステージでスマートに生きていく人なのだろう。そのために決まった相手は不都合なのかもしれない。それに館野は容姿も良くもてる人なのでその時その時で女性には不自由しないだろう。香那紀は急に自分が館野を好きでも叶うはずもないような気がしてきた。そう思うと切なく心が痛くなる。柄にもなく、男の人を好きになるからだ。しかもかなり上等なレベルの高い男の人を。それでも、香那紀は館野に何か自分の気持ちを表現したいと思った。何もしないで終わってしまうのは寂しすぎる気がしたのだ。社内なので告白して断られて気まずくなるのも困るが、思いを違う形で自分なりに表現するぐらいならと思い立って足早にデパートに向かった。
香那紀は午後2時半には会社に戻り、館野を待った。館野は3時少し前にやってきた。
「おつかれさん、出来上がってるか?」
「はい。完了してます。」
しっかりとした口調で香那紀がいうと館野は頷いた。
「じゃ早速見せてもらおうか。」
「はい、あちらの会議室に準備してございます。」
会議室で事前プレゼンのプレが始まった。香那紀はできるだけ冷静に理論的に話をすすめた。館野は厳しい顔でじっとスクリーンを見つめて話を聞いている。中盤にさしかかったときだった。
「麻生くん、やはり、そこのところははじめに出しておいたほうが説得力がでるんじゃないかな。どう思う?」
「はい、やっぱりですか。とても悩んだんです。こちらを先に出しておいたほうが前提が理解できてあとの納得度も高いですよね。わかりました。そうします。」
香那紀はそういうとノートにすばやくメモする。
「じゃ、そのあと続けてくれないか。」
「はい。」
仕事のときの館野は表情ひとつ変えず、端正で厳しい顔をしている。その表情は話を聞きながら別のところでなにか頭の中で計算してもっと違う展開を考えているようでもある。事実、館野と仕事の話をすると先の先まで見越してさまざまなことを多角的に考えているのが伺える。香那紀は館野の広い視点で物を客観的に見ているからこそ出てくる意見にいつもおどろかされた。その意見に刺激されて香那紀もさまざまなアイディアが浮かぶようになるのだ。きっとこの仕事も館野がいなかったらこんなに充実したものにならなかっただろうと思った。それだけに内容は自信が持てるものに仕上がってきた。香那紀は緊張しながらもすべての資料で説明を無事終えて、大体自分が言いたいことが表現できていたように感じて満足できた。
「よし、なかなかいい物になったな。一箇所いれかえてそれで完成だ。早くやってしまおう。明日の統括プレゼンがんばれよ。繁野じゃなくて直接君がプレゼンできるように段取りしておくから。」
「え?私ですか?」
館野は笑顔で頷く。
「そりゃあ、そうさ、こんな内容繁野じゃ話できやしない。君か俺じゃないと無理だよ。」
「そんな、でも、それなら部長がお話なさった方が信頼感があって統括もご納得されるのではないですか。」
館野が首をふる。
「君がここまで努力して仕上げたんだ、君が話をするべきだよ。しかも俺は一応部外者だからな。これは営業企画部の仕事だよ。」
そういうと館野が香那紀の手をとる。
「大丈夫だ。君ならうまくやれる。」
香那紀は館野の大きくて暖かい手にどきどきしながらも昨夜タクシー中で感じたような安心感が生まれて明日のプレゼンもなんとかやりこなせるような気がしてきた。内容も館野がいたせいでかなり緻密に積み上げられ、どこにも損傷はない。
「はい、わかりました。がんばります。」
香那紀はそういうと館野の手から自分の手を離してプレゼン用につかったPCの電源を落とし、一礼してデスクに戻っていった。一時間ほど作業に集中していた。その間、館野は会議室でなにやらいろいろなところに電話しているようだった。最後の修正が終わり、もう一度館野に確認してもらって最終承認をすませると香那紀は急に緊張してきた。もうこれで、この仕事は明日のプレゼンを成功させるだけだった。直接館野と一緒に仕事をするのはこの後はない。香那紀はPCの電源を落としながら、出来るだけ平静を装って館野に声をかけた。
「あの、館野部長。」
「どうした?なんだ緊張してるのか?明日のことなら大丈夫だよ。」
「あ、いえ、違うんです。あの、これ。」
そういって香那紀はリボンがついた包みを差し出した。館野は驚いた顔をしている。
「すみません、あんまり気が利いたものじゃないと思うんですけど、週末でしかもクリスマスなのにほとんど仕事につき合わせてしまったので、お詫びと感謝の気持ちです。もらっていただけませんか。」
「へえ、君からのプレゼントか。うれしいね。あけてもいいかい?」
香那紀は照れくさそうに頷いた。館野が包みを丁寧に開けるとそこから淡いグレーのカシミアの上品なマフラーが現れた。館野がうれしそうに箱から取り出す。
「ありがとう。大事にするよ。」
そういって大事そうに首にかけた。香那紀は館野に喜んでもらえてほっとしていた。そして名残惜しかったが、丁寧に挨挨拶するとコートとバッグをもってあわてて館野に背を向けた。そのとき館野が呼び止めた。
「ああ、麻生くん、俺も君にプレゼントがあるんだよ。」
「え?」
館野の思わぬ言葉に香那紀は驚いた。そして館野のほうに振り返ると館野がすぐ後ろに立っていた。香那紀はあまりに近くに館野がいてびっくりした。館野はその様子にくすくす笑っている。
「なんですか、急に後ろに立たれるとびっくりするじゃないですか。」
香那紀がバツが悪そうにふくれっ面で館野に噛み付く。
「ごめん、ごめん、君があわてて帰ろうとするものだからちょっとあせってしまって。」
香那紀は自分の行動をぴたりといい当てられてしまい、さらにどきっとした。
「あの、そういうつもりじゃないんですけど、すみません。」
「じゃ、どういうつもりだったんだい?」
香那紀は応えにつまってしまった。館野があまりに至近距離にいるので誤魔化してその場を繕うこともできない。館野は困っている香那紀の顔を楽しそうに覗きこんでそのまま香那紀の唇に軽くキスをした。香那紀はおどろいて呆然としている。
「プレゼントはこれ。」
館野が笑っている。
「えっ?」
状況を把握できてない香那紀にさらに館野が言葉を続ける。
「仕事じゃなくて今からプライベートでつきあって欲しいんだけど。都合は?」
香那紀ははっとした。
「えっ、あ、別に予定はないです。」
急にどきどきして体が熱くなる。
「じゃ、きまりだ。せっかくのイヴだから今からデートしよう。」
館野は優しく微笑みながら、まだ驚きの顔をしている香那紀の手をとり引き寄せると優しく抱きしめる。香那紀の体は館野の胸にすっぽりと納まっていた。どきどきして体が熱い。でも、不思議と館野に触れられると暖かく包まれるようで気持ちが休まるのだ。香那紀は館野に体をあずけて目を閉じた。館野は体を預けてきた香那紀をしっかりと受け止めて強く抱きしめるとゆっくりと香那紀の顔を覗きこむように頭を下げる。香那紀が目を開けると目の前で端正で知的な館野がその漆黒のように黒い瞳をまっすぐに香那紀に向けていた。香那紀は少し照れるように顔を赤くしながらその瞳に応えて見つめ返した。
「香那紀、好きだ。」
館野は一言そういって香那紀にもう一度口づけする。今度は香那紀もそれに応えるように唇を重ねた。いつのまにか日が暮れて暗くなった窓の外には白い雪が空から舞い散り、イヴの夜にロマンチックな甘い華やかさを演出していた。