#6
香那紀がぼんやり目をさますと、外が明るい。そして見えてきた景色でそこがオフィスであることに気付きはっとして起き上がる。しまった、寝てしまった。ふと隣をみると館野もいない。香那紀が立ち上がろうとすると肩からコートが滑り落ちる。あやうく床に落ちる前につかみとると館野が来ていたコートであることに気付いた。まわりを見回してみる。すると一番近い応接室のドアが開いている。香那紀が応接室にいくとそこの長いソファに館野が横になって眠っていた。香那紀は手に持っていたコートを館野にかけてやる。
「お気遣いありがとうございます。これはお返しします。」
そう小声でいうとそっとその場を離れた。時間をみると朝の6:30だった。眠った分追いつかないとと思って自分の席に座るとデスクにメモが張ってあるのに気付いた。
『市場のデータ作成済み。君のフォルダに貼り付けしておいた。よろしく。少し睡眠をとるよ。あとで業績予測の積み上げの打ち合わせをしよう。館野』
館野の字は読みやすくしかもしっかりとした筆圧で館野らしさがにじみ出ている。香那紀は思わずにこっと笑う。
「館野部長のおかげで早く出来そうです。週末にこんなことに付き合ってくださり感謝してます。」
そうメモを持ち上げ一礼すると仕事の続きにもどった。それから30分ぐらいたって館野が起きたらしく、応接室から出てきた。
「おはよう、なんだもうおきて仕事してたのか、タフだなあ君も。」
あくびをしながら眠そうな顔をして香那紀に声をかける。
「すみません、コート。お気遣いいただいて。」
「ああ、女性だからね。いくら室内といっても冷えるだろうから。」
「ありがとうございます。館野部長はやさしいんすね。」
香那紀が微笑む。
「それも意外か?」
「え?」
「顔にそう書いてある。」
「え?」
香那紀は思わず手で顔にふれる。
「あっはっはっは。うそだよ。君がいちいち驚くような反応するから意外だとおもってるんだってすぐにわかっただけだよ。君は表情豊かだからな。おもしろい。」
香那紀は真っ赤になる。
「ああ、そうだ、目覚ましに向かいのカフェに行ってなんか買ってくるよ。君は何を飲む?」
「え、そんな、私が行きます。」
香那紀が立ち上がろうとする。
「いいよ、君のほうが仕事が多いんだから。それに眠気覚ましがてら外の空気をすってくるよ。」
「ではコーヒーブラックの濃い目ならなんでも。」
「OK。じゃいってくる。」
そういうと館野は腕を大きくのばして伸びをしながら外に出て行った。香那紀はいったんロッカールームにいって化粧品等の泊まったときのために置いてあるものをとってきて洗面所で顔を洗ったり、髪を整えたりした。化粧はしている暇もないので簡単にお手入れだけして結局そのままデスクに戻った。しばらくすると館野が戻ってきて、PCの前で仕事しながら食べるのも味気ないからと休憩室でささやかな朝食タイムを取ろうと香那紀を休憩室まで引っ張りだした。
「へえ、素顔なんだ。化粧、落としたのか。」
館野が微笑む。香那紀はすっぴんを指摘されて赤くなる。
「ええ、すみません。見苦しいとは思いますが、化粧している時間はないので、とるだけにしました。」
「いや、いつもステキだけど、素顔はもっといいな。綺麗だ。」
館野の言葉に香那紀はまた、どきどきする。
「部長、へんなこと言わないでください。私に言ってもなんにもメリットありませんよ。彼女にでも言ってください。」
香那紀は牽制するように冗談ぽくいった。
「なんだ、人がせっかくほめたのに。言っとくけど、俺には彼女なんていないんだから、気にしてくれなくてもいいんだ。」
笑いながら冗談ぽくむくれる。
「へえ、驚きました。館野部長は社内の女性にとても人気があるしもてるでしょうから彼女の一人や二人とっくにいらっしゃると思ってました。」
「俺はそんな器用じゃないよ。」
「そうですか?部長は女の人の心をつかむツボを心得ているような気がしますけど。」
香那気は言ってしまってからはっとした。
「へえ、たとえばどんな風に?」
意地悪っぽく館野がにやにや笑いながらつっこんでくる。館野の誘導質問につい思ったことを口にしてしまいそうになる。自分が昨日からどきどきさせられてばかりだということを白状するはめになってしまうのをなんとか回避しようと香那紀はあせる。
「あの、いえ、頭が良くて機転がきくのでそんな人じゃないのかなと思っただけです。」
香那紀はなんとかその場を繕う。しかし、館野はじっと香那紀の顔を覗きこんでくる。香那紀は恥ずかしくて耐えられず、思わず立ち上がる。
「さて、仕事に戻りましょう。部長。」
館野はくすくす笑っている。
「はいはい。君は面白い人だね。」
「もう、いい加減にしてください。」
香那紀は顔から火がでそうなくらい真っ赤になって足早に休憩室からでていった。香那紀が席にもどると館野も後から戻ってきた。まだ笑っている。
「もう、人をからかわないでくださいね。」
「からかってなんかないさ。なんだか、かわいくてついかまいたくなるのさ。」
香那紀はまた真っ赤になる。
「もう、仕事しましょう。部長。」
「はいはい。そうします。香那紀殿。」
香那紀は知らん顔してPCの画面に見入っているふりをしたが、館野が麻生じゃなくて香那紀と呼んだことに気付いて、どきっとして耳まで熱くなってしまった。それを気付かれないように香那紀はキーボードを打ち仕事に集中している振りをした。
「さて、業績予測の件だけど、少し打ち合わせいいかな。」
その言葉に香那紀はふっと仕事モードの顔になる。
「はい。」
「昨日まで現状のデータと市場のデータを調査していて気づいたんだが、インタープライムはうちがねらっていること以外に新たな戦略をもっているんじゃないかなと感じたんだ。」
「はい。私も同感です。それで、昨日外部のデータを調べてみて、そっちの筋に詳しい友人がいるのでメール飛ばして確認したんです。そしたら、新たな市場開拓をねらってデルメディア社に粉をかけていることがわかったんです。」
「なるほど、デルメディアか・・・。」
「しかもインタープライムの狙いですが、その内容をうちが獲得すれば、今の企画以上に利益が増大するかと思います。」
「その内容がわかるのか。」
「はい、詳しくはないですが、差しさわりのない程度にもらった情報からその辺のことは予想がつきます。」
「そうか、それじゃあ、企画変更といこうか。いまからやれる自信はあるか?」
「はい。やります。」
「なんだか、君と仕事しているとわくわくさせられるな。久しぶりだよ、こんな感覚。詳しく君の考えを聞こうか。」
二人で意見を戦わせながら2時間ほど詳しい打ち合わせをすませるとまた二人は手分けしてそれぞれの仕事に没頭した。昼も近くで簡単にすませ、時折休憩する以外は黙々と仕事を進めていた。夕方の5時頃になって、あらかたできあがったのでそこからはプレゼンしながらチェックした。数箇所見直しをしないといけないところはあるもののほぼうまくまとまった。
「君はほんとセンスがいいな。見やすいレイアウトと言葉の使い方もインパクトがあってわかりやすい。感心するな。繁野のところに置いておくのもったいないよ。うちの部に来て欲しいぐらいだ。」
館野が香那紀をほめると
「ありがとうございます。私も部長との仕事はとてもしやすいので一緒に仕事ができたらいいと思います。」
香那紀も素直に返した。仕事がひととおり一段落してほっとしたような表情だ。
「さて、夕方になったし、どうする?昨日帰ってないからしっかり寝たいだろう、あとは明日にして帰らないか。」
「あ、はい。そうですね。」
館野から今日はこれで切り上げるとつげられると香那紀は体は疲れているのになんだか、寂しい気がした。このままもうしばらく一緒にいたい気がしていたのだ。館野は香那紀の少し残念そうにしている顔を見てふっと微笑む。
「9時か、今からじゃたいしたとこいけないけど、食事して帰ろうか。」
香那紀がうれしそうに顔を上げる。
「え、いいんですか?」
「ああ、どうせ、このまま帰っても一人だしな。食べるものなんておいてやしない。」
館野はそういって苦笑する。
「え、じゃあ、ご一緒させてください。」
館野がにこにこ笑っている。
「やっと遠慮しなくなったな。」
「え?あ、すみません。」
香那紀はぱっと赤くなる。
「いいんだよ。そのほうが君らしくて。」
そういってクスクス笑いながらデスク周りを片付け始める。香那紀もPCの電源を落としてデスク周りの資料を整える。
「明日は昼間用事をすませて午後3時ごろ来るからそれまでにさっきの箇所の修正をしておいてくれ。明日は完全に仕上げるつもりだから何時までかかるかわからないぞ。そのつもりで支度してくるといい。」
「はい、わかりました。」
香那紀が仕事モードで威勢よく返事をすると館野はだまって頷いた。館野はまた、どこかに電話して予約をしていた。
「よかった、運よく空いてたよ。いくか。」
向かった先はイタリアレストランだった。カジュアルではあるがそこそこ洗練されていて上品な感じで嫌味がない。
「ここのパスタはうまいんだ。何食べたい?」
「へえ、いい感じですね。そうですね、じゃ、このきのこのホワイトクリームソースにします。」
「ワイン飲んでもいいかな。君は?」
「ええ、では少しいただきます。」
館野は頷くとコースで注文し、ワインは白を頼んだ。すぐに持ってこられたワインを館野が慣れた感じて香りを確認してテスティングをすませると、目の前にあった白くて少し黄味を帯びた透明の液体がグラスに注がれた。
「じゃ、明日の完成を祈って乾杯。」
館野の言葉に少し緊張した感じでグラスを重ねる。一口含むとぱっとあまずっぱいフルーティーな香りが広がる。
「おいしい。」
香那紀がおもわずにっこりする。
「口にあってよかった。」
館野も優しく笑う。
「普段から、君はお酒を良く飲んだりするのか?」
「いいえ、会社でなにかあるときぐらいです。お酒は好きですけど、そんな時間もないのでたまにしかいただきません。」
「へえ、じゃあ、あんまり強くないってことか?」
香那紀がニコニコしている。
「ぶ・ちょ・う、それは早とちりです。私世間では強いらしいです。」
得意げに香那紀がちゃめっけたっぷりに言った。
「へえ、そうなのか、なんだ、じゃ、つぶれたりしないのか。」
館野が残念がった感じのそぶりをする。
「なんか、変なこと考えていません?部長。」
香那紀も飲んでいるせいか気が大きくなって館野につっこみをいれる。仕事が一段落したせいで少しリラックスしているのか仕事以外の館野の話に臆せずついていく。
「そりゃあ、俺だって年頃の男だからな、美人を前にそれぐらい考えるさ。」
「残念でした。もう少しかわいげがある人とお食事できればよかったですね。」
香那紀が笑いながら軽く受け流す。
「いや、十分かわい気あると思うよ。君は。」
館野が少し真面目な顔して言ったので香那紀は急に緊張してどきどきする。
「部長、これおいしいですね。オリーブオイル好きなんです。私。」
話をはぐらかすように、目の前の前菜のオリーブオイル和えをほおばる。館野はその様子に目を細めながらワインを口にする。
「ここは時々くるんだ。なかなかいい店だろう?」
香那紀は話がそれてほっとしたという表情で頷く。
「お一人でですか。」
「誰と来ているのか気になるのか?」
館野が笑いながらもじっと香那紀をとらえたまま聞き返えしてきたので香那紀はまたどきっとする。
「いいえ、部長はこういうお店にお一人でよくいらっしゃるのかと思って聞いただけです。」
香那紀が口を膨らませている。館野はくすくす笑い出した。
「ここは知り合いの店なんだ。だから一人で来ているときもあるし、仕事がらみでメンバーを連れてきたこともあるよ。」
「そうですよね、会社に比較的近いですしね。こんなところにこんなステキなお店があるなんて知らなかった。」
香那紀は館野の回答に妙に安心して目の前に出された料理を積極的に口へ運んだ。このあとパスタを食べながらワインを二人で1本あけて、デザートとエスプレッソをたいらげると香那紀はもう大満足だった。
「もうおなかいっぱいです。おいしかったです。いいですね、このお店。」
「気に入ったか?じゃ、また来ような。」
香那紀はうれしそうに大きく頷いた。その様子に館野がまた笑う。
「君は飲むと子供みたいだな。面白い。」
「部長!私もういい年なんですよ。失礼な。」
香那紀がまた膨れる。館野がまたくすくす笑う。
「じゃ、遅くなるからそろそろ行こうか。送るよ。」
「いえ、あの、大丈夫です。私一人で帰れます。」
「一応、男として女性を遅くに一人で帰すのは気が引けるからな、送っていくよ。」
やさしく言っているが館野の言葉には有無を言わせない響きがある。
「・・・。はい、じゃあ、お願いします。」
香那紀は素直に受け入れることにした。外にでてタクシーを捕まえると先に館野が乗り込んでその後香那紀が乗りこんだ。車内は暖かく自宅まで向かう間じっとしているとぽかぽかしてきて眠くなってきた。窓の外をみてぼんやりしていると館野が近づいてきて香那紀の体を自分の傍に寄せた。
「眠いんだろう。寄りかかってもいいぞ。随分がんばったからな。」
香那紀は思いもよらない館野の行動に驚いてどきどきしたが、館野に体をあずけるとなぜかひどく心地よく穏かな気分になった。香那紀はしばらくぼんやりしていたがそのまま意識を手放した。自宅に近づいた頃、館野に呼ばれてはっと目が覚めた。その瞬間、自分が館野にもたれかかっていたことを思いだしてどきどきして体が熱くなる。
「あ、すみません、私ったら。酔っ払ってて。」
館野は優しい表情で香那紀をみつめている。
「いや、いいんだよ。疲れてるんだしな。」
「お客さん、どのへんですか?」
タクシーの運転手が二人のやり取りに割り込んでくる。
「あ、はい、その先の交差点を右にはいってもらってすぐの一方通行の道があるのでそれを左にお願いします。そこに学校があるのでそのすぐ向かいのマンションです。」
「はい、かしこまりました。」
「今夜はゆっくり休んで明日にそなえろよ。」
「はい、ありがとうございました。では、明日の午後、またお願いします。」
「ああ、必ず行くよ。」
そういって挨拶をすませると香那紀はタクシーを降りる。館野が手を振ると香那紀は深々とお辞儀をした。タクシーが見えなくなると香那紀は足早にマンションの中に消えた。