2,捕われの少女
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堯黎三年、禁泗絨国号では、三百と二十と三年になる。
先帝崩御から間も無く楚太后が一子靜円が即位する。その年頃は二十と五つ。若き新皇帝は見目麗しく、精悍かつ威厳に満ち溢れ、誰しもが、泗絨国の安泰と更なる繁栄を信じていた。
だが、新皇帝即位より僅か三年余り……三百年以上続いた泗絨の繁栄は目に見えて翳り、国政は傾き始めていた。
三年とは余りにも短く、しかし皺寄せをくらった民にとっては余りにも長い。城下に広がる帝都嵩洛は相も変わらず栄えていたが、周辺の県ではもう何万と云う民が命を奪われていた。
否…その実、嵩洛も決して安康では無かった。
皇帝にとって邪魔になれば、身分の高い者ですら適当な罪状をあてがわれ、惨殺されていたのだ。
花嬌の父もその一人である。
姓を蒿名を禦英。先帝の頃より寝所側使として、宮廷内に住まいを置き仕えて来た。側使といっても官吏とはの身分の場所が違い、寝所においての側使とは、神官に位置する。
代々皇帝の側に在り、神事を行い、また楽師として神式を行う。
楽師一族は独自の武術を身に付けているが為、寝所にて護衛をするもまたその役目であった。
『人』として誰かと話したのはどのくらいぶりだろうか、思い出そうとしてみたが、遠い昔に両親と交わした言葉さえ、自らの意志でとうに忘れ去ってしまったのだ。
天涯孤独となった後に過ごした『あの場所』に会話らしい会話など当然ある筈も無く、無条件に誇示された絶対的な力を前に、只々平伏すしかなかった。
幸せだった頃の思い出に浸れば、たちまち心が壊れてしまいそうだった。だから忘れる事にしたのだ。
欲望、策略。常に如何にして甘汁を掠め取ろうかと、そこいらじゅうに潜む強欲な狐狸達の狭間では、体身に刻み込まれた武は何の意味も成さなかった。
花嬌にとって、唯一救いになったのは、彼女の為に作られた美しい庭園だった。色彩豊かな四季折々の木々達が、こぞってその美しさを花嬌へと差し出す。一日の間で自由になるのはほんの一刻足らずであったが、花嬌にとってその時間こそが、人としての尊厳を思い出させる重宝とも言うべき時間なのだった。
ここに来てから幾日が過ぎたが、紫稀と夜兎との奇妙な生活は思いの他気楽だった。
相変わらず正体は不明だが、それは紫稀とて同じこと。
何より、今の花嬌にとって紫稀の気安さはとても居心地が良く、ささくれ立っていた心を少なからず癒やしてくれた。
紫稀の住む小屋は山の麓の開けた場所にあり、近くには何も見当たらない。飲み水を確保する為の小さな泉と、あとは背の高い雑草が茫々とどこまでも広がっている。
「夜兎」
すっかり慣れた獣の名を呼ぶと、遠く天から朝日を背に、黒い塊が四肢をしならせ、目の前に降りて来た。
「紫稀がご飯だって、今日は何だか沢山あるみたいよ」
そう言うと、夜兎は花嬌の腕の下に体を潜らせながら、擦り寄ってくる。
纏珠が皆こうなら良いのに…と花嬌は思う。
花嬌の居た宮中でさえ、不運にも纏珠の腹の中に納まってしまう人間がひと月の間に何人か居たのだ。纏珠がみなこうならば、彼らも命を落とさずに済んだだろうに。
「夜兎は人を襲わないのにね…」
言いながら夜兎の大きな額を撫でてやる。
「用事が無ければ…って言ったろ?」
振り返ると、紫稀がすぐ背後に立っていた。
「全く人を襲わない訳じゃねぇな」
「用事って何なの?」
軽く眉を寄せ、首を傾げる花嬌。
「例えば、もし花嬌が何者かに危害を加えられそうになった時、夜兎は相手にいきなり襲いかかるだろうなぁ…」
「えっ!?本当に?」
夜兎を見ると、肯定するかの様にぐるぐると喉を鳴らしている。
「ああ。纏珠は自分に素直な生き物だから…夜兎は花嬌をえらく気に入ってるみてぇだし」
と言い、紫稀は花嬌の体にまとわりつく夜兎を見て笑った。
「本当なの?だとしたら嬉しいわ、夜兎」
花嬌は夜兎の鼻先に顔を寄せ、大きな漆黒の背に腕を回した。
紫稀は、そんな花嬌の頭にぽんと手を乗せ、続ける。
「あとは夜兎自身に危険が迫った時…まぁ、これは人も纏珠も同じか。他の纏珠も人だから襲うんじゃねぇ、腹が減ったから狩りをするだけだ。食欲さえ満たされれば、普段はおとなしい」
「じゃあ、本当は人間の方が恐ろしいのね」
「そうだなぁ…人間の欲は満タンにならねえからなぁ」
人間の欲…。
花嬌の脳裏に、今まで関わって来た人達の顔が幾人も浮かんでは消えた。
顔面には完璧な笑顔を貼り付け、平気で本心とは真逆を口にする。
そういった人間しか、花嬌の周りには居なかったのだ。そして、あの領主もそうだった。
紫稀は、神妙な面持ちで夜兎の背を撫でる花嬌をからふいと目を逸らし、
「花嬌、今日ここを離れて、藍才県に向かうんだが…」
と言った。
「あい…さい?何処なの?」
「位置で言えば、花嬌が居た樂県の隣になるが、かなり遠いから心配するなって。見つかる事は無いだろ」
と、横目でちらり花嬌を見る。
「え…。あたしも連れて行ってくれるの?」
花嬌が問う。
「だって行くとこねぇんだろ?」
紫稀の問いに言葉が詰まった。
花嬌には最初から、帰る場所どころか行くあてすら無いのだ。
「そんくらい分かってる。安心しろ、俺は何も聞かねえから」
そう言い、紫稀はにかっと笑った。
「どうして…」
「ん?」
「どうしてそんなに良くしてくれるの?」
不思議そうに、だが半分切なげな面持ちで花嬌は紫稀を見上げた。
すると紫稀は、さもばつが悪そうに頭をかきむしりながら
「実は…花嬌にもちょっと手伝って貰いてぇんだけど…」
と言う。
「あたしに?」
紫稀はそうだ、と頷き、手に持っていた籠を夜兎の前に下ろした。
夜兎は、やっと朝食にありつけると云う風に短く鼻息を一つつき、ゆったりした動作で頭を籠に突っ込む。
「藍才は一度なかに入れば割合自由だが、県に出入りする人間にはやたら厳しくてなぁ、なにしろ隣の樂県は領主があの暴君だ。樂県から逃げて来る人間を藍才に入れない様に、藍才の周りの道々至る所に関がある」
「何故樂県の人が藍才に入ってはいけないの?」
外の世界を知らない花嬌の素朴な疑問。だが、紫稀は不審げな顔一つしない。
「よその県の人間は税貢を納めなくていい。藍才を住処にするなら籍を藍才に移動すりゃあ良いんだが、相手は樂県から逃げて来る人間だ。税貢なんか納められる状態じゃねぇ」
「ああ…だから関で選るのね、その…身分を…」
言いながら嫌なものが胸の真ん中辺りで靄を作った。何が理由かは分からなかったが、えも言われぬ不快感に花嬌は一瞬眉を寄せた。
「そうだ。だから関を出入りするには籍証を出さなきゃならねぇ。俺はずっと昔にこしらえた物があるが、花嬌は持ってねぇだろ?」
「それなら、あたしを置いて行けば…」
「藍才に入るのは、俺と花嬌だけじゃねぇんだ」
遮る様に紫稀が言った。
「他にもいるの?」
紫稀の表情が途端に厳しく重いものに変わる。
「花嬌、俺は樂県の領主の城に火を放った。これには訳があるんだ…」
「ええ…」
「新皇帝が即位して一年位経った頃から、各地で宮女狩りが始まった。皇帝の妃を決める為だ。これは帝位が交代するごとに毎回ある事だから、半年もすりゃあ帝妃も決まって落ち着く。普通ならな。だが今回の宮女狩りは、どう云う訳かもう二年も続いてるんだ」
花嬌の目がみるみる大きくなる。
後宮で女の数が減っていたのは知っていたが、まさか更に宮女狩りをしていたとは。総勢三百を超える妃がいると云うのに、それでも尚宮女狩りをしていると云うのか。
「小さな村なんか、年頃の若い娘が居なくなったって話だ。」
「ちょっと待って!宮女ってそもそも審査されて上がるものなんじゃないの、若い娘なら誰でもって訳じゃ無いはずよ?それに、一つの村から出るのは一人って決まりに…」
「だか、それを知ってるのは高官だけだ」
はっとした。
思わず口元を両手で塞ぐ花嬌。
だが、紫稀は素知らぬ顔をして続ける。
「花嬌を捕らえていた樂県の領主は、高官しか知らねぇのをいいことに、宮女狩りと銘打って、若い女達を手当たり次第かき集めてんだ。その内宮女に上げるのはほんの一握りで…」
紫稀は花嬌から目を逸らし、息をひとつ吐き出し
「あとは売り払うんだ」
と言った。
「売る…って…」
信じられなかった。
そうまでして財を肥やしたいのか、と呆れ、だがすぐに怒りが込み上げて来る。
「売るって事は、買う人間がいるって事よね?」
「買い手は…妓楼、つまり遊郭だな。しかもただ売るだけじゃねぇ。どうやら、その女達が稼いだ金子の殆どは領主の懐に納まっているらしいんだ」
目眩がした。
花嬌と同じ年頃の娘達が、
騙され
売られ
タダ同然で働かされている。
きっと、金子と引き替えにされた娘達は、二度とそこから脱け出す事は出来ないだろう。
「なんてことなの…」
それ以上の言葉は出て来なかった。
「この一件だけじゃねぇ。今この国では、そういうことが、他にも沢山あるんだ。だから俺は、そいつらから、『盗む』ことにした。樂県の城に火を放ったのは、その為だ。娘達を盗み出したんだ」