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1、銀の男と黒耀の獣


1



見事に細工の凝らされた玉の柱を伝う錦糸の滝。

辺り一面に繁る紅葉は風に揺れ、一枚また一枚と色づいた葉を湖面に落としては浮かぶ様を楽しむかの如くまた枝を震わせる。

水を吸い、耐えきれなくなった者達はゆるりと水底に落ち、それはまるで朱のみずを湛えた椀の様であった。


今この時が止まればと、幾度思っただろうか…。しかし幾ら願おうとも叶わぬ事を彼女は知っている。

昨日も、その前も、去年も、同じ景色を眺めては祈り、暫く時が過ぎるとまた辛い現実が待っていた。


祈りなど無駄な事、それならばと心に蓋をする。そうしなければ此処では生きて行けないのだ。


ふいに名を呼ばれる。



ああ……。



またあの地獄に戻らなければならないのかと、振り向きもせず肩を落とし、それから心に蓋をする。

途端に麗らかで美しい情景は色褪せ、濁った水と枯れ枝の群れを細く見やった。


ー。


もう一度呼ばれる。

急かさずとも何処へも逃げはしないのに。

生気を失った目を向け、足を動かした。




……ところで目が覚めた。



最初に見たのは天井、それから薄汚れた石壁。窓は無く、そういえば牢に居たのだと思い出す。

背に当たる硬い板の長椅子の感触には憶えがたる。


溜め息を一つつき、身を起こそうと肩を捩らせたところで、初めて体の上にある毛布に気が付いた。


何だこれは?


と手を伸ばすと、右と左が離れ自由に動いた。

鋼で出来た手枷が勝手に外れる筈が無い。そして気付く。此処が牢では無い事を…。



ぐるり見渡すと同時に、足元の先にある木戸が開いた。



「よう、目が覚めたか?」


無遠慮な足音を立て入って来たのは、見た事の無い男だった。


上着なのか端切れなのか、黒ずくめのとにかく襤褸を着込んだその面は似つかわしくなく、意外にも端正で、どこか違和感を覚えた。


雑に短く切られた髪は白銀。

襟足だけを結び、細く鳥の尾の様に背に垂れ、その下、肩から覗く浅黒い肌は南方の国を連想させた。


「大丈夫か?」


何も言わず、男を観察していたのが呆けている様に見えたのか、男は心配そうに顔を覗き込んで来た。


「怪我は無いみたいだったけど、あんまり女の子の体をベタベタ触る訳にもいかねえからさ、どっか痛むか?」


あまりにも気安いそれに一瞬面食らう。


「大丈夫よ」


一言だけ言い放つと男はほっとした風に破顔した。


「悪かったなあ、まさかあんな所に人が残っていたなんて思わなくてよぉ」


頭を掻きながら言った。

この男は今、悪かったと言わなかったか?

では火を放ったのはこの男だと云う事なのだろうか…。

と眉を寄せたを気付かぬのか気付かぬふりをしたのか、粗雑に額の髪を掻き上げ、


「水、飲むか?」


と言った。


そう言えば喉の奥が張り付き、ちりっと痛む。


「煙を吸ったろうから、喉が痛むだろ?」


そう言って差し出された椀には、少々汚した水が入っている。手に取るのを躊躇っていると男が笑った。


「薬草が入ってんだよ、心配すんなって」


そして無理やり手に持たせ、すっくと立ち上がった。


「あの…」


部屋を出ようとする足を引き止めるべく声をかけると、男は立ち止まり、再び長椅子の方に顔を向けたが近寄りはせず、側の壁に凭れた。


「あなたが火を点けたの?」


少女の問いに静かに頷き、『紫稀しき』と 言う。

何を言ったのか分からず首を傾げると、


「俺の名前だ」


と言った。


ここで突然名乗るのかと思ったが、


「あたしは花嬌かきょうよ」


つられて少女も名を告げた。


「花嬌か、良い名だな」


「ありがとう」


花嬌は口だけできゅっと笑う。


「ここはあたしが元居た場所とは違うようだけど…」


「火の中に倒れてたから、連れて来た。牢に居たみたいだったし、あの場所から消えても大丈夫だろうと思ってなぁ」


「そう……じゃあ、あたしは助けられたのね……ありがとう」


その言葉に紫稀は目を丸く見開き、困ったように銀の髪をわしわしと掻いた。


「あのなぁ…俺が親切で連れて来たたぁ限らねえんだぞ。礼なんか言っちまって良いのかよ?」


「何かするつもりなら、とっくににしてると思うわ。それに、手足の枷も外したりしないだろうし」


と言い、花嬌はにっこり笑ってみせた。


「なるほど…」


紫稀は感心した様子で花嬌をまじまじと見た。


「これ、いただくわ」


そう言うと、花嬌は濁った水を一気に飲み干した。

置かれた状況が突然変わったにも関わらず全く動じていない花嬌を紫稀が不思議そうに見ていたが、気にしない。



むしろ良くなったのだ、状況は。


目の前の男が、ただの善意であの場所から連れ出してくれたのだとは思わないが、それでも花嬌にとって好転には違いない。

これまでに比べれば、既に自由を手にしたも同然だった。


「何かしようって気は無いけどなぁ…暫くはここに居てもらうようになるけどさ」


「何故?」


かろうじて平静を装えたが、花嬌は自分が何者であるかを悟られたかと、内心ぎくりとした。


「見ず知らずの人間を介抱するのには、理由があるって事だ。だいいち、手足にそんな枷の痕を付けて外うろうろしてみろ、奴隷と間違われて即売られるぞ」


「そう…ね」


この男は『奴隷と間違われて…』と言ったか。

という事は、枷を填められ牢に居た花嬌を、紫稀は奴隷とは思わなかったという事になる。

そういった場合、普通ならば奴隷女が何らかの罰で牢に入れられて居たと考えるのが、自然ではなかろうか。


「紫稀は…何故あたしが奴隷では無いと思うの?」


それを聞き、紫稀は面白そうに鼻を鳴らした。


「その質問自体が答えだな。花嬌は奴隷が何かをを知らねえ」


言いながら腕を組み直す。


「奴隷はそんな大層な着物なんか着せて貰えねえし、そんな堂々とした振る舞いはしねえよ。」


花嬌は首を傾げた。

無理も無い。

大層と言われた着物は、花嬌にとっては夜着にもならないほど色褪せた粗末な物なのだ。


「これが…大層な着物?」


その疑問は、無意識に口から出ていた。


「それに、奴隷は牢なんかには入らねえ。普通は何かやらかしゃぁ、その場で切り捨てだろうよ」



そうなのか…。確かに。

石壁の牢はそれだけで充分に拘束する力がある。

枷は本来、重罪を犯した男に使う物であって、女に使う物では無いのだ。



「花嬌…お前一体何者なんだ?」


紫稀の瞳の奥が鋭く光る。


「何者か…ね……紫稀、そう云うあなたこそ何者なの?火を点けたのはあなたなんでしょ?いち県の領主の城に火を放つなんて、民が暴動を起こしたって恐れ多くて出来っこないわ。」


花嬌は薬湯が入っていた椀を傍らの台に置くと、音も無く長椅子から降り、立ち上がった。


途端に押し黙る紫稀。

沈黙はすなわち肯定を意味する。簡単なこと、違うのならば即座に否定するだろうから。


「別にいいのよ、そうだとしても。少なくとも事実、私は助かったのだから。あの性根の腐った領主が慌てふためく姿を見られなかったのは、とても残念だけど」


花嬌は薄く笑みを浮かべながらも、その

「領主」

と言う口調は嫌悪を露わにした辛辣なものだった。


「あたしを利用したいのならすれば良いわ。あなたがこれから何を行おうとしているのかは分からないけど、もしそれが領主の城を落とす程度の小さい事なら止めておくのね」




先程は『恐れ多い』と言い、しかし今度は『小さな事』と言う。

つまり紫稀にとっては『恐れ多く』花嬌にしてみれば『小さな事』なのだ。

おそらく花嬌はそういった身分の人間なのだと、紫稀は悟った。


「まあ良い」


と紫稀。


「暫くは養生しろ、だが捕らわれたとは思うな。俺はお前を牢から連れ出し、枷を外してやった。そして更に、得体の知れないお前をここに置いてやるんだ」


「恩に着ろって?」


「考え方次第だな。これは俺の想像だけどよ、お前は誰かにか、何かにか、捕らわれていた時間が長すぎたんじゃねえか?俺を信用しろとは言わねぇが、なら枷の痕が消えて両手足が慣れるまで俺を利用すれば良い。お前が言ったように、何かする気があるならとっくにしてる。つまり俺にはお前に危害を加える気が無いって事だ」


「それって…あなたに何か得があるの?」


「あるいはな。だが損はしねぇよ、だから利用しろって言ってんだろ?」


花嬌は大きな瞳をぱちくりさせ、壁にもたれたままの紫稀の顔をまじまじと覗き込んだ。


「紫稀……あなたってもしかして、本当は良い人なの?」


「本当はって何だ?俺がいつ悪人っぷりを披露したよ」

言いながら、紫稀は豪快に、かかかと笑った。


「それに、賑やかだと夜兎やとも喜ぶ。いつも俺と二人きりだからなぁ」


「夜兎って?」


「俺の相棒の黒纏珠こくてんすだ」


『黒』は姿態の色。纏珠とは、四つ足の獣の種の名だが、夜の闇に紛れ天を駆ける姿から、天主てんしゅと呼ばれる事もある。

本来人と交わる事の無い獰猛な生き物の為、あまり目にする事は無く、万が一対峙したとあらばその瞬間に命が消えると言われている程だ。


「黒纏珠!?纏珠が相棒ですって!?」


花嬌は驚きのあまり、掴みかからんばかりの勢いで紫稀に詰め寄った。



「ちびの頃拾ってな、大丈夫。夜兎は賢いから用が無え限り人は襲わねぇよ」


あっけらかんと言う紫稀を、花嬌はやや呆れ気味で凝視した。纏珠を飼い慣らす人間など聞いた事が無い。


人里離れた山河や平原には、獰猛な肉食の獣が自らの縄張りを誇示し、時には人を狩り、時には人に狩られ、そういった関係をもう何百年も続けて来た。中には人に飼われ使役される程柔和な性質の種もいるが、纏珠はそうはいかない。

人と纏珠は、そもそもの性質が交わる様に出来ていないのだ。


纏珠に出会い、奇跡的に生き延びた者が書き記した書物によると、纏珠は人語を理解し、裏を掻き罠を張る程狡猾だと言う。

決して群れず常に単体で行動し、縄張り意識が強い為、纏珠の住まう場所に他の獣は近寄りさえしない。


「窓から外を見てみろよ、夜兎がいる筈だから」


いる…筈?

まさか放していると云うの?



言われるまま窓に手を掛け、恐る恐る外を覗いてみると、それは居た。

しかも手が届く程すぐ傍に、何をするでも無く、ただじっと此方に背を向け鎮座している。


大きく滑らかに曲線を描く背を、しっとり伝う艶やかな漆黒の毛並み。上質な天鵞絨びろうどを思わせるそれは、獣のものとは思えないほどに美しい。


「これが……黒纏珠?」


かの纏珠を前に、だが不思議と恐怖感は無い。堂々と淑やかに在る姿からは、むしろ神々しささえ感じられた。


「夜兎」


紫稀が声を掛けると、夜兎は獣独特の低い唸りを上げぐるりと振り返った。

鼻面は短く、豹に似ているが全体の大きさがまず違う。腰を低くした状態で紫稀の二まわり半はあるだろうか。前に向いた耳は鋭く尖り、その下二つの瞳は深海の黒。


「花嬌だ、しばらく一緒だから宜しくな」


紫稀が言うと、夜兎は喉の奥をグルグルと鳴らしながら立ち上がり、体ごと花嬌の前に歩み寄って来た。


「す…ごい…こんなに美しい生き物だったのね、纏珠って……」


思わず花嬌の口から漏れた言葉に、夜兎の目が細くなる。

それはまるで微笑むかの様に…。


「はじめまして、あたし花嬌よ。宜しくね、夜兎」


と花嬌。


すると夜兎は鼻先を花嬌の右手首に擦り寄せ、くうっと一つ鳴いた。


「気に入られたみてぇだな、花嬌」


花嬌の背を軽く叩きながら、紫稀は夜兎の眉間辺りを指先で撫でた。



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