強欲な姉がいなくなって、それから
お読みいただきありがとうございます。
かなり昔の作品なので至らない点もあるとは思いますが、楽しんでいただければ幸いです。
姉に取られた物を一々数えたら、それこそ夜が更け朝が来てしまう。それならば朝日を眺めた方が有意義だ。
私――フィーネはその事実に、十三歳の時に気づいた。
十三歳。某日。
地味な私とて、婚約者の前では綺麗でありたい。そうして身に付けたドレスを、皺がつく程にキツく握りしめた。
お姉様の言葉に、目の前がすうと薄くなる。
「貴女の婚約者にしては、上等すぎると思わない? ヒリア様は、わたくしにこそ相応しいと思うの」
私の婚約者である金髪の男に腰を抱かれ、お姉様は悠然と微笑んだ。
お姉様は美しい人だ。
太陽を削り取った粉を纏わせた、美しい金髪。淡く色づいた薄桃色の瞳。顔や体からは、十七歳とは思えない色香が漂っている。
茶色の髪と目で、顔も体型も平々凡々な私とは違う。豪奢な姉にしなだれかかられ、愉悦の表情を浮かべる婚約者に、胸が痛んだ。
五歳も年下の私など、子供にしか見えなかったことだろう。
名誉のために言うが、私は断じて傲慢で性格に難ありの婚約者に裏切られたから胸を痛めたのではない。
もうこれが、何度も繰り返されてきたからだ。
最初に、お父様からの愛情を奪われた。次に、お気に入りだった人形や、ドレスを奪われた。
そして今日、婚約者も奪われようとしている。
「このことは、お父様はご存知なのですか?」
「いいえ、まだよ。でもわたくしが言うのだから、すぐ了承してくれる筈だわ」
その通りだろう。今までどれだけ私が泣き喚こうが、お父様は姉の願いを叶えてきた。今回もすべからくして姉の願いは叶うに違いない。
あれ? 不意に私は首を傾げた。
「お姉様にも、婚約者がいらっしゃいますよね?」
柔らかい緑髪を思い起こす。優しそうな顔立ちで、我儘を言う姉にも笑顔を絶やさない凄い人。
本当に凄いと思う。私は淑女教育の賜物を持ってしても無理で。大切なうさちゃん人形を取られた時は、鼻水を垂らし泣いてしまった。
「ハイルのこと? だって彼、刺激がなくてつまんないもの。ヒリア様といる方が楽しいわ」
ね、と顔を見合わせる二人に震えた。刺激とは、婚約者がいる身でありながら惹かれ合うことだろうか? 勝手に私たちを恋のスパイスにしないで頂きたい。断固拒否する。
「そうですか」
「えぇ、そうなの。納得した? おバカなフィーネにはちょっと難しいかもしれないけど、早く理解してね。じゃあこれからデートだから、ばいばぁい」
お姉様は軽やかに去っていく。
あ、そのドレス可愛いから後で頂戴ね。ちゃっかりと、ドレス奪うぞ宣言までされた。
胸の所がキツいであろうに、手直しする手間を惜しんででも私の物を取ろうとする姿勢にはいっそ感服してしまう。
嵐は去っていった。
ため息を零し、空を見上げる。
「……綺麗ね」
姉に奪われた物は、黒い靄でもかかったように汚く見える。
お父様。大切にしてた人形たち。紙が擦り切れるくらい読んだ本。大好きだった物は全部、汚れてしまった。
「空が綺麗に見えるのは、誰の物でもないから?」
いや、正確には違うのかもしれない。私の物ではないから、綺麗に見えるのだろう。
張り詰めていた糸が、高い音を立てて切れていく。一粒溢れた涙が、全てを押し流して芝生を叩いた。
――それなら、もう私は何も求めない。
なにも大切なものなんて持たないまま、生きていく。
青々とした葉っぱに紛れて、鮮やかな身を披露する花。
途切れてはまた繋いでいく雲。
私を照らす陽の光。
私のものではない世界は、どこまでも美しかった。
◇◇◇
「私、王宮の侍女として働きたいのです」
婚約が解消された日に、私はお父様へ告げた。
驚いた様子だったが、すぐに瞳に下卑た色が宿る。
「なんだ、王女様お付きの侍女にでもなりたいのか? 良いじゃないか」
「いいえ、私は下働きの侍女になりたいのです」
「お前、まさかあんな平民たちが働くような下女になりたいと言うのか!?」
一転して烈火のごとく声を荒げたお父様に、私は頷く。
「勿論絶縁して頂いて構いません。私はどうしても働きたいのです」
地位なんて海の藻屑の『下働き』なら、間違ってもお姉様は羨ましがったりしない。
それに、汗をかいて仕事をするなんてとても素敵だと思う。
私の気迫に押されたのか、邪魔者を体よく追い払えるからか。お父様は私が働くことを許可してくださった。
紙一枚で親子の絆は切れ。一週間後私は家を出ることに。
小さいトランクだけを持ち、私は頭を下げた。
「では、皆様もお元気で」
「ふんっ。お前はもう汚らわしい平民と変わらないのだ。二度と我が家の敷居を跨ぐなよ」
お父様は眉間に皺を寄せている。
対照的に笑顔のお姉様は、今にもるんるんと踊りだしそうだ。ヒリア様と身を寄せ合い、唇の端をくっと上げている。
「うふふふっ、下女として働きたいだなんて、フィーネは本当におバカなのねぇ」
「そうだな。こんな女が婚約者だったなんて寒気がするよ」
よし、計画通り。
生まれ育った、贅が尽くされた屋敷を目に焼き付けながら。私は振り返らず家を出た。
「……お母様、ごめんなさい」
私を産んでくれたお母様。産後の肥立ちが悪く、亡くなってしまったと聞かされている。
私を慈しんでくれたであろうお母様にだけ一抹の寂しさを抱き。すぐに頭を振った。考え事をしている暇はない。
……それに、私が悲しむ資格などないのだから。
門を出る。そこで、一台の馬車が目に留まった。お忍びで来ているとでも言いたげな、最小限の装備の馬車だった。
中からスラリと男性が出てくる。大人と言うにはまだ頬がまろい、緑髪の青年。彼が誰だか思い当たりはっと目を見開いた。
「ハイ――レーフィア伯爵令息様……どうしてここにいらっしゃるのですか?」
慌てて家名に言い直す。
私は困惑した。お姉様――いや元お姉様と彼の婚約も、既に解消されている筈だ。
こんな不愉快極まりない家に一秒だって訪れたくないであろうに、どうしているのだろうか。
「こんにちは」
彼はそのまま跪いた。
微笑みを浮かべている。
「俺と、結婚しませんか?」
「……え」
間の抜けた声が漏れた。
「絶縁届けであれば、一ヶ月以内であれば無効可能です。それに俺は一応伯爵家の次男ですし。伯爵夫人にはさせてあげられませんが、苦労しない生活を約束します」
ずずい、凄い勢いで捲し立てる彼に気圧される。
「例えば?」
「三食昼寝付き、というのに心惹かれませんか?」
圧に押され尋ねてみれば、きっぱりはっきり答えられた。
言い切ったのか口が閉じられ、しばしば沈黙が下りる。
次に言葉を発したのは私だった。
「……優しいのですね」
「へ? い、いえ俺は――」
私より三つ年上の彼は、元お姉様の婚約者になるまでは剣を好んでいたらしい。真面目に取り組み、かなりの腕前だったとか。
その実直さが多分に出ていて、思わず苦笑してしまった。
目を白黒させる彼に、私は笑う。
「嬉しいお言葉ですわ。けれど、私は望んで絶縁し、侍女になろうとしているので。心配はご無用です。レーフィア伯爵令息様が気負うことなど、何一つありませんわ」
虚を突かれ、膝をついたまま目を真ん丸くしている彼を、私は見下ろす形になる。
確かに、いつも眉尻が下がっている顔は刺激の少ない情けない顔なのかもしれない。
けれど私は、眉が吊り上がり不遜な振る舞いをする元婚約者のヒリア様よりも、よほど好感を抱いた。
「私、今が一番世界が美しいんです。全てが失くなったなら、後は幸せになるだけですのでどうか本当に、私にはお構いなく」
そろそろ辻馬車が来てしまう。話し込みすぎたようだ。
身を翻す。
「お元気で」
呆然と立ち上がった彼に数度手を振り、早足で歩き出した。
◇◇◇
あれから実に五年が経った。
私はつるりと光を反射する窓に、満足気なため息を漏らす。冬ということも手伝って布巾を握りしめる手は赤く震えているが、それでも達成感の方が大きい。
それに、最初の頃の私の仕事はもっぱら洗濯だったのだ。これくらいで弱音を吐いていたら、とっくに逃げ出している。
一年目。あの頃は元貴族というだけで下働きの子たちからは注目を受けた。
時には虐められることもあったが、王宮はそういうことに厳しく。また良い仲間に恵まれたために、私は下働き生活を楽しんだ。
問題が起こったと言うなら、二年以降か。
私は働きすぎたらしい。腐っても貴族ということも相まって、昇格させられそうに何度もなった。幾度侍女長と格闘したことか。
窓掃除のための梯子の上で、情けない声が出る。
昇格などしたら、それは特別なものになってしまう。それでは私のすっからかん幸せ生活の崩壊を意味する。
他に示しがつかない、という侍女長の涙に負け洗濯等はやらせてもらえなくなったが、これからも昇格するつもりはない。
むん、と気合を入れ直す。
さて次の仕事、と腰を上げた所で私は滑り落ちる感覚と共に浮遊感に襲われた。
足を滑らせたようで。迫りくる痛みに、目を固く閉じる。
「――きゃっ」
だが思っていた感覚はなく。代わりに、なにかに包まれていた。そっと目を開けると、眼前には男性の顔がある。
「間一髪、という所でしたね。痛い所はありませんか?」
緑髪には、見覚えがあった。
「……レーフィア伯爵令息様……」
「お久しぶりですね」
にこりと微笑まれ、きゅ、と布巾を握る手に力が入った。
横抱きから下ろしてもらった私は、気をつけろという旨をくどくどと説かれた。
話し終えた彼は、昔と変わらない柔らかい笑みを形作る。私は疑問を口にした。
「……それにしても、なぜここにいらっしゃるのですか?」
見間違いでなければ、その格好は――
「俺、王太子殿下の近衛騎士になったんです」
騎士の格好だった。紺色の制服が端正な顔に映えている。
「凄いですね」
「ありがとうございます」
かなりの努力を重ねたのだろう。そういえば、さっき私を横抱きにした手は固く、何度も豆が出来ては潰れたのだと察せられた。
それにしても、彼が王宮にいることに全く気づかなかった。
「王宮は広いですものね……」
「いえ、俺は気づいてましたよ」
あっさり否定され目を見開く。
「頑張って働く貴女が素敵だな、とたまに見掛けてはそう思っていましたから」
「まぁ、見られていたのですか……少し恥ずかしいですね」
髪の毛やらに無頓着だったツケがここで回ってきた気がした。慌てて、前髪を整える。
その手を取られた。彼の視線が、あかぎれだらけの手に注がれる。
「――そういえば、どうして手がこんなにも荒れているのですか?」
それは無頓着だったからです。
酷い辱めを私は今受けている。冷たい手をさわさわされて、羞恥で目の端に涙が滲んだ。
「怠惰な私を許してください……」
「えっ、いえそういう意味ではなく! 俺が渡した手荒れを治すクリームは使ってないのかと思って。去年から王宮で働き始めたのですが、貴女の手が荒れているのを見て贈ったんです」
なんだそれは? 首を傾げてから、一つ思い当たるものがあった。
去年、私宛にと硝子瓶いっぱいに詰められたクリームが贈られたのだ。
「あれは……同僚にあげてしまいました……」
「なぜですか!? 気持ち悪かったですか?」
「い、いえそうではなく……」
侍女長から渡された時。騎士から、とだけ告げられてレーフィア伯爵令息様とは知らなかった。
――それに。硝子瓶から漏れ出たオレンジの香りが鼻をくすぐり、心が舞い上がってしまったのだ。一度手に塗れば、私のものにして大切にしてしまいそうなほどに。
悪寒が走る。それは駄目だ。
「あまり、物は持たないようにしているのです。ごめんなさい、せっかくのご厚意を無碍にしてしまい」
「いえ、お気になさらないでください。俺の方こそ、配慮が足りませんでした」
気を使わせて申し訳なくなる。
視線を彷徨わせていると、彼がにっこりした。
「あの、俺に時間をくれませんか? 毎日、少しだけで良いので」
「……? 構いませんが」
一層顔を綻ばせる彼に、謎もまた深まっていった。
◇◇◇
約束の場所に、私は三時きっかりに来ていた。辺りを見回す。
ここは王太子殿下の執務室の隣の部屋。普段は応接間として使われている部屋はきらびやかで、居た堪れない気持ちになる。
「すみません、遅れました」
彼が部屋に入って来た。
「い、いえ待ってないです!」
苦笑するレーフィア伯爵令息様は、手に小瓶を持っている。
「あの、それは……?」
「クリームですよ」
「だから、私は受け取れないと言いますか……」
「心配ご無用ですよ」
ソファに腰掛け、横をぽんと叩かれた。
「俺が塗りますので」
「………………え?」
そこからの記憶は曖昧で。気づけば私は手にクリームをこれでもかと塗られていた。
満足そうに頷く彼から逃げ出したくて堪らない。
「では、これからも毎日塗らせてください」
「え、あの、それは……」
「駄目でしたか?」
私の意志はそこまで固くなく。呆気なく陥落した。
「よろしくお願いします……」
「はい」
そこから、摩訶不思議な交流が始まった。
最初に直されたのは呼び方だった。もっと気楽に呼んでほしい。そう乞われ今ではハイル様呼びに戻っている。
それからも色々なお話をした。話しているのは主にハイル様だったが、彼が笑顔で話す姿を見るのがとても楽しかった。
「――大分良くなってきましたね」
「はい、ありがとうございます」
手をそっと握られる。
それだけで、胸がどうしようもなくはしゃいでしまった。
手が綺麗になっていく度に、私はどんどんハイル様に恋に落ちていく。
綺麗な彼に優しくされて。好きになるなという方が無理な話だった。
――彼は今二十一歳。結婚適齢期。
きっとすぐに婚約者が出来て、この時間すら私の物ではなくなっていくのだろう。
そうして、この美しい顔も汚くなっていく。
「しかも今回は、私のものですらない」
小さな呟きに、ん? とハイル様が顔を寄せてくる。
胸の痛みを隠すように、私は精一杯の笑顔を作った。この平穏が続くことを願って。
壊れたのは、それから間もない初雪の日だった。
私は今日も約束の場所へ向かう。綺麗になってきた手を眺め、あと何度会うことが許されるのかと物思いに更けた。
扉は少し開いていた。話し声が聞こえた。
「……っシュネット様。一体なんの用ですか」
シュネット。
心臓の音が大きくなる。
それは、お姉様だった人の名前――。
「あら、元婚約者なのだしいいでしょう?」
「良くありません」
呼吸が浅くなって、上手く息が吸えない。目の前が暗くなっていく。
隙間から伺える元お姉様は、侍女姿でハイル様に体を寄せうっそうと微笑んでいた。
昔よりもなんだか痩せた気がするが、それでも元お姉様の美貌は衰えていない。なんのために来たのか分からないが、元お姉様はハイル様の心を取っていくのかもしれない。
震えた拍子に扉にぶつかって。私は二人の前に躍り出る形になってしまった。さぁと顔が蒼くなる。
猫撫声は鳴りを潜め、元お姉様は不愉快そうに眉根を寄せた。
「フィーネ、どうして貴女がここにいるの? みすぼらしい下女の分際で、おこがましいと思わない?」
俯いていると、影がかかった。ハイル様が私を背に庇うように立っている。
「俺が呼んだんです。このことは上の者にも許可を取っていますし、誹りを受ける謂れはありません」
「っなによ、ハイルがわたくしに口答えするなんて!」
そもそも、どうしてここに来たのだろう。ヒリア様と結婚しているはずでは。恐る恐る問いかければ、ふんと鼻を鳴らされた。
「あの男、我が家のお金で女に貢ぎ借金をこさえていたのよ? 離縁して慰謝料を取ろうと思ったけど、絶縁されたらしくて一文も取れやしなかったわ! お陰でお父様が最近怒りっぽくなったのよ、嫌になっちゃう!」
事ある毎にお前のせいで妻は死んだのだと私に鞭を振るったお父様は、早く隠居することを願っていた。お母様との思い出に、静かに浸りたかったのだろう。
ようやく悲願が叶ったと思ったら、借金があると告げられ。相当気分が悪いのだと察する。
ハイル様が険のある声を出す。
「確か、家は差し押さえになり爵位も返上する予定……と聞いておりましたがなぜここに来れたのですか?」
「お父様がこっそり入れてくれたのよ、侍女の格好なんて不快だったけどしょうがないわ」
「そこまでして来た理由は?」
つう、妖しい笑みが浮かぶ。
「ハイルと結婚するためよ。今近衛騎士なんですって? わたくしの伴侶に相応しいわ。お父様にも言われたのよ、『このままでは私の大事なドレスや宝石も差し押さえられてしまう。頼んだぞ』って」
ハイル様を袖にした人が何を言っているのかと、怒りが湧き上がる。
「そんな勝手な真似、許される訳ありません!」
「あらなにフィーネ、わたくしに口答え?」
薄桃色の瞳が歪む。
「おバカなフィーネ。わたくしの願いはいつも叶えられてきたことを忘れたの?」
「……っ」
「――いいえ、叶いませんよ」
ハイル様がきっぱりと否定した。
「なによ、わたくしの言うことが聞けないと言うの!? 昔はなんでも、笑って聞き入れてくれたのに!」
「はい、聞けません。だって俺は、今好きな人に求愛中なのですから」
求愛中。見上げれば、普段と違い瞳を蕩かせたハイル様がいた。ぶわりと頬に熱が集まる。
「全てを奪われたのに、あとは幸せになるだけと笑ったフィーネに恋をしました。なんて強い人なのだろうかと。だから俺も、騎士として大成できるように頑張ろうと心に誓ったのです」
あかぎれが見当たらなくなった手を取り、甲に口づけられた。ちゅ、という音と共に真摯な瞳に射抜かれる。
「貴女に求婚できる男に、俺はなりたかったんですよ」
何度も唇を落とされ、段々腕の方へと上がってくる。
「フィーネも俺のこと、好きですか?」
あまりのことにいっぱいいっぱいになりながらも頷けば、ハイル様の顔がこれ以上ないほど緩んだ。
「――は?」
冷たい声が、耳に届く。元お姉様もいたことを思い出し目を向ければ、彼女は昏い目でこちらを睨みつけていた。
「駄目よ、フィーネに告白なんて。……いえ、違うわね。奪えば良いのよね、今までみたいに」
ハイル様に手を取られながら、今までずっと聞けなかったことを問いかけてみた。
「あの……どうしてずっと、私の物を奪い続けたのですか?」
高価な装飾品ならともかく、サイズの合わないドレスに古びた人形まで取り上げていく。
その歪さが不思議だった。
「どうして、ですって? そんなの、フィーネがわたくしの一番大切なものを奪っていったからに決まっているじゃない!」
「大切な、もの……?」
覚えがなくて瞠目する。
けれど少しして、一つ思い当たるものがあった。
小さい頃からずっと言われてきた。お前のせいだ、と。
悲しむことすら許されなかった。お前が奪ったんだ、と。
それは。その人は――
「まさか、お母様……?」
「そうよ。わたくしの大切なお母様を奪った貴女を、幸せになんてさせない。大切なものができたのなら奪うわ。守りたい幸せなら壊すわ。貴女だけのものなんて作らせないわ。――だって、わたくしからお母様を奪った貴女が幸せになって良い訳ないじゃない……!」
ひゅっと息を呑む。
「わたくしにとって、お母様は光そのものだった。許さないわ」
「だから、私のものを……」
「えぇそうよ。バカよね、生前お母様を蔑ろにしたお父様は、わたくしが貴女を憎むよう仕向ければお母様に執着しだしたわ。ヒリア様は少し縋っただけでわたくしに傾倒した。貴女は、今の今まで罪を自覚することもしなかったし……。ほんっとうにバカばっかり!」
なにも言えなくなる。お父様に鞭で叩かれた背中が、ズキズキ痛む気がした。
「償って、一生を掛けてわたくしに償ってよ!」
悲鳴のような咆哮に、罪悪感で胸が潰れそうになった。
だがそこで、腰を掴まれる温かさに意識が浮上する。
足が地面につかない。目の前にはハイル様の顔がある。どうやら私は、持ち上げられたらしい。
「大丈夫? 背が丸まっていたよ」
「……はい」
ホッと気が緩むのが分かった。
ハイル様は私を下ろしてから、元お姉様に向き合う。
「確かに、シュネット様も辛かったんですね」
「っ、偉そうに言わないでよ」
「すみません。ですが、これだけは言わせてください」
凛とした、揺らぎのない瞳だった。
「母を想う気持ちは、貴女だけのものではありません。フィーネにも、悲しむ自由がある」
「奪ったのはそっちなのよ? なんて厚かましいの」
「そもそも、フィーネが母を奪ったという認識が間違っています。貴女が愛したように、フィーネも母を愛している。知っていますか? 彼女が毎月決まった日に天に祈っていることを」
見られていたのか。驚きと恥ずかしさが押し寄せる。
「シュネット様が母に生きていて欲しいと願ったように、フィーネも叶うことなら母と生きたかったはずです」
「……叶うことなら」
ふと、元お姉様は自身のお腹を一撫でした。急激に激情が収まっていくのが見て取れる。
そこで、ハイル様が彼女を捕らえた。彼女はなにも抵抗せず、そのまま連れられていく。
最後に私を一瞥した。
「知りたくなかったわ……貴女の気持ちなんて」
彼女はもう振り返ることはなく。扉の向こうに消えていった。
◇◇◇
結局、財産は全て差し押さえとなり借金は返せたらしい。
お母様の物も全て取られ、元お父様は気が散ってしまったとか。今はどこかの修道院で、日がな一日ベッドの上にいるのだと風の噂で聞いた。
元お姉様もきっと、どこかの修道院へ行くのだろう。
「フィーネはそれで良いのですか? 復讐などに興味は……」
「ないですないです」
今日も手にクリームを塗られながら、首を横に振る。
「逆にハイル様は復讐したいとは思わないのですか?」
あんなにこき使われていたのだ。さぞご立腹だろう。
「俺は特にそういう気持ちはないですね。剣の鍛錬の時よく伸されるので、シュネット様に我儘言われるくらいは全然平気でしたし。元々あまり深く考えない質なのかもしれません」
頭をかきながらはにかむ彼に、胸がきゅんと音を立てる。やだ、脳筋なハイル様も素敵……。
「でもそうですね……復讐ですか……」
改めて思案する。
「そうですね。確かにそれも悪くないかもしれません」
こうして私は、元お姉様改めシュネットに復讐を決意した!
「――ちょっと、勝手にシュネットって呼ばないでくれる? フィーネに呼び捨てされるなんて不愉快よ」
私と同じ侍女の格好をしたシュネットが濡れた布巾を投げつけてくる。それを手で受け止め、私は窓拭きを再開した。
シュネットはティーカップくらいしか重いものなんて持ったことのない元お嬢様。凄まじい暴力を振るえる訳でもなく、彼女に寝首をかかれる脅威は今の所ないだろう。冷静に分析する。
そう、復讐とは一緒に働くことであった。なんでわたくしが下女の真似事を……、ぶつぶつ言う彼女は一向に仕事に手を付けようとしない。
「シュネット、働かないとご飯食べられませんよ」
「っだから、わたくしに偉そうな口を利かないで!」
「今は私の方が偉いですからね、先輩です」
窓掃除をしながら笑っていれば、唸るような音が人気のない廊下に響いた。隣のシュネットの顔が真っ赤になっている。
「……お腹空いたのですか?」
「ふん、碌なもの食べていなかったもの。それでも、貴女より肉付きは良いけどね」
顔をツンと逸らしたが、やがて観念したのか布巾を嫌々持ち始めた。
汚らわしい、悪態をつきながら拙い手つきで窓を磨く。力が入ってないのか窓は全く綺麗になってないが、初仕事のシュネットを今は温かく見つめた。
二人で黙々と作業をしていると、コツコツと靴音が遠くから聞こえて来る。見知った姿に、思わず顔が綻んだ。
「ハイル様」
「おはよう、フィーネ。あとおはようございます、シュネット様」
にこにこと屈託のない笑みに、シュネットは屈辱からか顔を赤くした。
「なによ、馬鹿にしに来たの? 悪趣味ね」
「いえ、ただ様子を見に来ただけですよ」
シュネットは、揃いも揃ってバカな人たちと呟いて、また窓掃除に手を付けた。
苦笑し、ハイル様は手を振り去って行った。
ゴ――ン。ゴ――ン。
十二時を告げる鐘の音。塔から響く荘厳なる音に、私は顔をぱっと華やかせた。
「お昼、お昼の時間ですよシュネット。早速行きましょう」
「ちょ、手を引っ張らないで」
金髪を揺らし歩くシュネットの顔には、少しだけ笑みがあった。
――だがその笑みはすぐに真顔に変わった。こんなすんとした表情のシュネット、初めて見た。
トレーの上に盛られたシチューと数切れのパンに、唇を戦慄かせている。
「なにこれ、前菜?」
「これで全部ですよ」
「メインは? デザートは?」
「あるわけありませんよ、ここは主に下働きの者が利用する食堂なのですから」
私からすればこれで十分なのだが、フルコースを嗜んできたお姉様には少し物足りないようだ。
駄々をこね料理人に怒鳴ろうとしている彼女を宥め、テーブルまで背を押す。
まだ怒りは収まらない様子だったが、それでも渋々とシュネットはシチューを食べた。
「……まぁまぁな味ね」
「労働の後のご飯は美味しいですよね」
よっぽどお腹が空いていたのだろう。作法は美しいままだが、シュネットはぺろりと全て平らげてしまった。私はまだパンを一枚食べている途中で、シチューに浸したパンを口に放り込む。
「ご馳走様でした」
手を合わせハンカチで口元を拭うシュネットだが、その顔には物足りなさが前面に出ている。
すすす。シチューの皿をシュネット側に寄せてみた。
だがシュネットの態度は素っ気ない。
「ほら、早く食べ終わりなさい。トロいわね」
「……?」
もう一度。今度はパンも寄せる。変わらず、シュネットからの反応はない。
「何するのよ、こんなに寄せてきて。わたくしの隣で食べれるだけでも貴女からしたら有難いことなのに、これ以上なんて厚かましいとは思わないの?」
「いえ……私の食べるかなと思いまして」
おかしい。今までのシュネットなら、もう『絶対奪うぞ領域』に入っている筈だ。それなのに取ろうともしないなんて。
「……食べないわよ」
力なく、シュネットは頬杖をついた。
「もう貴女からは、なにも取らないわ」
「えぇっ。シュネットに、私の仕事いっぱい取って貰おうと思っていましたのに」
「そんなの最初から欲しくないわ。能無しなら能無しで口をつぐんで頂戴ね」
ふいとそっぽを向かれる。窓の外を見る彼女の背中は、なんだか小さく見えた。
◇◇◇
「その、今週末に一緒に出かけませんか?」
一週間経った。少しずつ仕事にも慣れてきたシュネットに言付けてから、いつも通りクリームを塗られに行く。一応誘ってみたのだが、ニベもなく断わられてしまったのだ。
そこで頬を赤らめた彼に誘われ、私は思わず頷いてしまった。
「カフェで一緒に食事でもどうかと……」
「はい。あの、是非……」
いつも話しているのに、言葉はぎこちなくなっていってしまう。
どこか浮ついた足取りで担当場所に戻る。シュネットが眉根を寄せた。
「締まりのない顔。わたくしに仕事を押しつけて良いご身分よねぇ」
「ご、ごめんなさい。ハイル様に遊びに行かないかと誘われて……」
「そう。服は持っているの?」
「勿論です!」
力強く頷く私を、シュネットは見据えた。
その晩。
「変な服ね。可が一つも見当たらないわ」
侍女たちの住まう寮で、私はダメ出しを受けていた。
一着しか持っていないワンピースは確かに変な柄だが、これが良いのだ。愛着なんて持つことのない、完璧な服だと言えよう。
「……わたくしの貸してあげる。胸元がゆるゆる過ぎるだろうけど」
「持っているのですか?」
「価値のない服は、わたくしの下に残ったわ。当然でしょ? 少し考えなさいな」
そう言って荷物を漁ったシュネットは、ふと体が固まった。
「……価値のない物と言えば、これもね」
その手に握られているのは、うさちゃん人形だった。
確かに古くてボロボロで、他の物と比べても粗が多いうさちゃん人形は売れないだろう。
「あげるわ」
ぶっきらぼうに、押し付けられる。
――瞬間。嫌悪感が込み上げ、シュネットの手を振り払ってしまった。人形が床を滑る。
真っ黒に汚れた、人形が。
「いらないです……」
「昔はあんなにビービー縋ってたのに」
「……っそんな汚いもの、もういりません!」
吐き気で口を手で覆った。
五年間見ることのなかった黒い靄。久しぶりに見たそれは、より一層汚く見えて。触れるのだって嫌な気がした。
お姉様は、目を伏せ人形を拾う。
「そうよね。こんな四歳児が作ったようなボロボロの人形、いるわけないわ」
ほら、このワンピースあげる。貴女のよりはマシだから。
言葉と共に、私は部屋を追い出された。
部屋に戻って、ベッドに倒れ込む。
「やっぱり大切なものなんて、欲しくない……」
涙が目尻を流れた。シーツに灰色の斑模様を作っていく。
綺麗な世界にいたい。私だけのものなんてない、美しい世界に。
そのためには。
「お別れしないと」
約束の日は、どこまでも空が澄みきっていた。水色のワンピースに、寒いからと着させられたコート。
赤くなった指先に息を吹きかければ、白い息が空気に溶けていく。
「お待たせしてすみません」
慌てたように駆けてくるハイル様は、ラフな格好だがとても格好良かった。
見惚れていれば、ハイル様が自身に巻いていた赤いマフラーを取る。そのまま私をぐるぐる巻きにした。
「うぷっ、あの……」
「首元が寒そうでしたので」
彼の、柑橘系の香水の匂いに包まれる。マフラーを鼻先まで引き上げた。
「では、行きましょうか」
今日だけ。今日だけだから。
戒めてから、私はハイル様に手を伸ばした。
彼とのお出掛けは、とても楽しかった。もう少しで訪れる聖誕祭を控えてか、街は美しく彩られていて見渡すだけで心が華やぐのが分かる。
「この置物、とても可愛いです」
「とても素敵ですね。フィーネはこれが欲しいですか?」
「い、いえ別にそういうわけでは!」
雑貨屋の店先の窓。そこに並べられた、聖誕祭で子供に贈り物をする聖人の置物に目を奪われてしまったのは確かだが、慌てて首を振った。
「そうなんですか? では欲しいのがあったらすぐ教えてくださいね。俺が贈りたいんです」
「……はい」
こくりと頷いた。
そのまま様々な所を巡り、鐘の音に合わせカフェに入る。
「何にしますか?」
「えっと……」
決めるのは得意ではない。けれど待たせたら迷惑をかけてしまう。そう思いメニュー表とにらめっこしていれば、ハイル様がメニュー表の端を指さした。
「生クリームパスタはどうですか? ほうれん草とベーコンが生クリームに良く合って美味しいですよ」
「ではそれでお願いします」
暫く経って運ばれてきた生クリームパスタは、塩っ気のある食欲を誘うベーコンの香りと、僅かに漂うチーズの香りが食欲をそそった。
ハイル様も、ミートソースパスタに顔を綻ばせている。
「いただきます」
手を合わせてから、早速頬張る。
幅広のパスタに、胡椒がピリッときいた生クリームのソースが絡んでいてとても美味しい。ぷりっとしたベーコンと、こっくり煮込まれたほうれん草も良いアクセントになっていて、食べる手が止まらない。
「美味しいです……!」
「だね。同僚が教えてくれたんだ」
「美味しいパスタが食べれる店をですか?」
ハイル様の目元が赤く色づく。
「いや、特別な日に行くのにぴったりな店はどこかと……」
私にまで、熱さが伝わってしまった。
「あ、そうなんですね……。本当に美味しいです……」
食べることに集中する。
黙々と食べていれば、ずいとミートソースパスタが巻かれたフォークを差し出された。
「美味しいので、良かったらフィーネもどうぞ」
心臓が止まった。
慌ててまた動き出したが、鼓動は恐ろしいくらいに速い。
「では、失礼して」
食べれば、トマトケチャップの酸味とバターのまろやかさが、ひき肉の旨味を引き立てていた。
「どう? 美味しいですか?」
「とっても……」
口を押さえながらふるふる頷けば、破顔した彼がまた差し出してくるが丁重にお断りする。
私も……と思ったが勇気は出ず、結局平らげてしまった。
「では、次はどこに行きましょうか」
「えっと……」
鼻をズビ、としながら問われて、私は辺りを見渡した。
とある店が目につく。
「あの、ハイル様。少しここで待っていてもらえませんか? すぐ戻ってきますので」
「っはい! 勿論です、フィーネのお願いならいつまでだって!」
「いえいえ、すぐ戻ってきますから……!」
きらきらと手をぐっと握りしめる彼に断りをいれ、私は駆け足で店へと向かった。
そこは毛糸で編んだ小物を売っている店だった。店内は人でひしめき合っていて、背を丸めながら私は目当てのものを探す。
「あった」
チョコレートブラウンの温かそうなマフラー。私に巻いたせいでハイル様のマフラーはなくなってしまったから。代わりにこれを贈りたいと思った。
ラッピングしてもらい、さっきの場所へ戻る。
だが、あと少しという所で歩みは止まってしまった。
「お兄さんお一人ですか?」
「それでしたら、私たちと一緒に回りません?」
ハイル様が美女に囲まれてる。
ラッピングを握る手に力が入った。クシャリと音が鳴る。
「あ、フィーネ!」
ハイル様に呼びかけられ、意識が引き戻される。
お姉さん方から棘のある視線を貰い動けずにいると、傍にきた彼に腰を抱かれる。そのまま額に柔らかな感覚があった。
唇が触れたのだと、遅れて理解する。
「すみません、俺はフィーネにしか興味がないんです。大切な人ですから」
手を取られ緩く引っ張られる。
「さ、行きましょうか」
私も気づけば足を動かしていた。
◇◇◇
広場の端にある、人目につかないベンチに腰掛ける。
「あの、握りしめたせいで皺が寄ってしまったんですが、良かったらこれ……」
「俺にですか?」
紙袋を開けた彼は、感嘆の息を漏らした。
「マフラー……」
「寒そうにしてたので、良かったら。あ、でも考えてみたらマフラー二本になっちゃいますね」
「でしたら、赤いマフラーはどうぞそのまま受け取ってください」
いりません。瞬発的に言葉が口をつこうとして、私は唇を噛む。
代わりに、
「ハイル様、私とお別れしてくださいませんか?」
そう話した。
「俺がなにか失礼なことをしてしまいましたか?」
「いいえ」
そうではない。
どう誤魔化そうか悩んでしまった。けれど真っ直ぐな瞳に射られ、考えを改める。
そうだ。ハイル様はきっと、私の話を笑ったりしない。
「ハイル様、私ね、お姉様に色々な物を取られていたんです。大事な人形に、本。可愛いドレス。奪われた物をお姉様が身につけている度に、寒気が止まりませんでした。だって、大事だったはずの物が汚く見えたのですから」
口を挟まず、私の拙い話に耳を傾けてくれる。
「大切な物を二度と作らないと心に誓いました。だって」
――大好きだったはずの物を、これ以上嫌いになりたくなかったんです。
目頭が熱くなり、ほとりと涙が零れた。
「だから、お別れしてください」
「嫌です」
「……ハイル様」
そっと手を取られた。
「俺は酷い人間です。幼い貴女を追い詰めた中の一人なのですから」
「……? ハイル様にはなにもされていませんよ」
「いいえ。俺はフィーネとシュネット様の間に、何らかの確執があることは見抜いていましたが、俺は行動しませんでした」
ハイル様が腕まくりをする。そこには、一本の長い傷跡があり、皮膚が歪に盛り上がっていた。
「昔腕を負傷して。そこで剣を握れなくなり、全てに投げやりになっていたんです。何もかも笑って受け流して。貴女に初めて求婚した日もそうでした」
骨張った手が、ティーカップを扱うように繊細に私の目元に触れ、涙が拭われる。
「激怒した父にじゃあ妹の方と結婚しろと尻を蹴られまして。内心、嫌々求婚したんですよ」
「では、今はどうして――」
「フィーネをとても、綺麗だと思ったからです。沢山のものを失って傷ついているはずなのに、俺のように腐らず凛と立つ貴女に、恋をしました」
ちゅ。こめかみに、きすをされる。
にこりと微笑まれた。
「――だから結婚しましょう!」
「はい?」
手を取られ立ち上がる。
「ここから一番近い教会は……あぁ、すぐそこですね」
「話が全く見えないのですが」
「安心してください。俺は、性懲りもなくまた剣の道に進むくらいには一途ですよ」
「そういうことではありません」
横抱きにされた。そのまま歩き出されて、頭の中がめちゃくちゃになっていく。
「ハイル様が一生私のものなんて、そんな保証はどこにもないんです。私は、貴方を嫌いになるのが怖い……!」
「じゃあずっと好きでいればいい。俺も、フィーネを一生をかけて愛すると誓います」
足は止まらない。どんどん広場を離れ、おそらく教会があるであろう所へ向かっていく。
「好きだったものを、嫌いになる。それはきっと、フィーネが心に折り合いをつけるための防衛反応だったのでしょう。その考えに呑まれていることも、それの象徴だと思います」
ぎゅう。持ち上げられたまま、抱き締められた。
「だから、それが薄れて影もなくなるくらい、幸せになりませんか? 俺は貴女が、大切なものに囲まれて笑う顔が見たい」
「……――」
不思議なくらい、涙がぴったり止まってしまった。
切れた二つの糸が、また一つに結び直されるような。温かい感情が心に満ちていく。
ハイル様の頬に手を添えた。
「一生、傍にいてくれますか?」
「はい」
「愛してくれますか?」
「もうとっくのとうに」
「――大切なもの、私に沢山作って欲しいです」
「勿論です」
ふにゃりと笑う彼。
そのまま教会に着き、紙に署名する。
ハイル様が書く姿を眺めながら、私はあっと声を上げた。
「私はもう平民ですし、ハイル様と結婚なんて許して貰えるでしょうか?」
「確かに両親は厳しい人ですが……騎士の道を志すと言った際、怒られ勝手にしろと半絶縁のような状態になりまして。問題ないと思います」
あっはっはと笑う彼の軽やかさに、私も吹き出してしまった。
スルリと手を取られる。
「まぁ、もし反対されたら俺も絶縁するだけですよ」
そのまま、指輪をはめられた。小さな花が真ん中に咲く指輪に、思わず見惚れてしまう。
「俺のものだと見せしめたいので、用意していたんです。良かった、ぴったりですね」
「可愛いです」
「それは良かったです」
そのまま持ち上げられ、いつかのように甲に口づけられた。
「手、大分綺麗になりましたね」
「ハイル様がお世話してくれましたから」
ふふんと胸を張れば、ハイル様の口角がくっと上がった。
「俺が育てた? ……いい響きですね、癖になりそうです」
「…………」
私はもしかしたら、とんでもない人に愛されているのかもしれない。
でも――。
全身が一個の心臓になったみたい。ドクンドクンと脈打つ。
顔が真っ赤になっているのだろうなと自覚してニヤけた。
「私今、幸せ者ですね」
◇◇◇
シュネットの部屋に来る。ノックをすれば返事はなく、少し経ってから扉は開けられた。
出てきたシュネットは、肩で息をしている。
「なによ。今忙しいの」
「シュネットにどうしても謝りたかったんです。手を叩いてごめんなさい。それから、服ありがとうございました」
「……そう。用は済んだのなら帰りなさいな」
背を向けた彼女。その足元がきらりと光って、私はかがんで拾い上げた。
「これは……針? シュネット、縫い物をしていたのですか?」
「詮索しないで頂戴」
ぱっと取られる。
またもや追い出されそうになって、私は慌てて温かい紙袋を取り出した。
「じゃーん。これは今日のお土産です。シュネットの大好きなワッフルですよ」
ぴく。シュネットの動きが止まった。甘味なんて久しく食べていない彼女にとって、これほど魅惑的なものはないだろう。
「一緒に食べましょう? ね?」
押しの強いハイル様を真似てみれば、長いため息をつかれた。
「しょうがないわね。少しだけよ」
二人でベッドの上に腰掛ける。
絶対零さないでよ。私に念押しした彼女は、ほんの僅かに口角を緩めながらワッフルに歯を立てた。
私も食べれば、ふんだんに使われたバターの豊かな風味がまず鼻をついた。次に、サクッとした食感が甘い味と共に口を満たして、幸せな気持ちになる。
食べ終わり人心地ついていると、とっくに食べ終わっていたシュネットはベッドのシーツを握りしめていた。
「わたくしは、謝らないわよ」
「え?」
「貴女にして来た仕打ち全部、謝ったりなんてしないわ。だってわたくし、今も変わらず貴女が嫌いだもの」
美しい薄桃色の瞳が私を穿つ。
「でももう、本当に貴女のものを奪う気はないわ。誓って良いわよ」
「……理由を聞いても良いですか?」
暫しの逡巡の末か。唇を引き結び、シュネットが自身のお腹を撫でる。
「わたくしね、お腹に赤ちゃんがいたの。流れて、いなくなってしまったけれど。そこから、ヒリア様との関係も悪くなっていったわ」
母が子守唄を囁くように、シュネットは話を続ける。
「ハイルが言ったでしょう? 『叶うことなら母と生きたかったはずです』と。この子も、そう思ってくれていたのかなって」
瞳は私ではない、宙を見つめている。
「無事に生まれてきて欲しい。守ってあげたい。どうか、幸せに。――思い出してしまったわ、昔の拙い祈りごとを」
だから、貴女のものはもう奪わないわ。
話は締めくくられた。
私はゆっくり慎重に、言葉を選ぶ。
「――でしたら、私も貴女を許しません。ずっとずっと、嫌いでいます」
「そうしなさいな。急にフィーネに懐かれたら、それこそ気味が悪いわ」
「うふふ、私たちってば陰険姉妹です」
「もう絶縁したのに、おバカ過ぎて忘れてしまったというの?」
私は歯を見せて笑った。
「今はシュネットも平民なので! あれは無効になったも同然でしょう!」
思いっきり苦虫を噛み潰した顔をされる。
「不愉快な子。……ところでその指輪なに?」
「あ」
存在を思い出す。私は指輪をシュネットの眼前に差し出した。
「実は今日、結婚しました」
「バカだバカだと思っていたけれど、かなり深刻だったのね」
「嘘じゃないですっ」
それから二人で色々なことを、ポツリポツリと話す。
寝るのが遅れて、揃って翌日の仕事に支障をきたしたことは言うまでもない。
◇◇◇
聖誕祭前日。私はウキウキと仕事に精を出す。
実は聖誕祭に、ハイル様と贈り物をし合うのだ。
「凄く、夫婦っぽい……」
「ちゃんと掃除しなさいな」
シュネットに怒られ、私はシーツが入った籠を持ち直した。今は、洗濯担当の子たちに布などを運びに行く途中なのだ。
「それにしても冷えるわね」
鼻を赤くしたシュネットが白い息を吐く。
「そうですか? むしろ丁度いいくらいかと」
「おかしなこと言わないでよ」
ぱっと振り向いたシュネットが目を見開く。
「フィーネ、顔が赤いわよ」
顔が赤い? 籠を置き、頬に手を当てる。確かに、頬が熱を持っていた。
「……あれ?」
視界がグニャリとする。そのまま、私の世界は暗転した。
目を覚ますと、私はベッドの中にいた。部屋の中は薄暗い。
体を起こしぼんやりしていると、扉が開く音がし部屋に光が差し込む。
「あら、起きたの?」
シュネットだった。
手には水差しとコップを持っている。
「飲む?」
「はい、頂きます」
喉を通る冷たい水に幾分か落ち着きを取り戻す。
「ハイルが丁度お昼休憩だからと、貴女を探していたらしいのよ。それでばったり会ったから貴女をここまで運んでもらったわ」
「そうなんですか……では、後でお礼を言わないとですね」
シュネットが遠い目をする。
「さっきも、俺が夫ですとか言って看病を申し出ていたわ」
「今は?」
「同じ騎士の人に引っ張られていったわよ」
「まぁ、職務怠慢だなんていけない人……」
ふふ、と笑う。
布団に再度潜り込んでから、シュネットの顔をじっと見つめた。
「なに? そんなに見ないで」
「夢を、見たんです。小さい頃から、ずっと見る夢を」
「夢?」
こくりと頷く。
「お父様と私とお姉様、三人で仲良くする夢です」
「…………」
お父様に黒い靄はかかっていなくて。お姉様は優しくて。三人で幸せそうに暮らす夢。
何度も見た夢。
「お母様はいないのね」
「肖像画がなくて、顔知らないので」
「それもそうね。お父様、一枚も描かなかったこと後悔してたもの」
唇を歪めたシュネットに、私は笑いかける。
「凄く、良い夢でした」
「そう? とんだ悪夢じゃない」
「いいえ、とても良い夢でした。シュネットと一緒に、働いたら……夢の中と同じ関係になれないかな、と思ったくらいには」
復讐なんて口実で、ほんの少しの夢想が始まりだった。
「わたくしは貴女が嫌いよ」
「私もです。夢なんて、所詮夢ですね」
シュネットは目を瞑った。
「本当に最悪。わたくしは堕ちた時から、ずっと悪夢の中にいるみたいだわ」
眠気が押し寄せてくる。
トロトロ、意識の糸が解れていく。
「……悪夢の中なら、その悪夢に倣った動きをしても、誰も咎めたりしないかしら」
最後に、そんな言葉が耳朶を打った。
◇◇◇
ぴちち、鳥の囀りに揺り起こされる。起き上がれば、熱はすっかり下がったようであった。
「仕事休んじゃった……その分、今日は目一杯働かないとな」
伸びをして。枕元に置かれている紙袋が目についた。
なんだろうと思いながら、紙袋を開けてみる。
そこには、うさぎの人形が入っていた。可愛らしいピンク色の生地で、首には緑色のリボンが巻かれている。
「なにかに、これ似てるような……」
言ってから気づく。うさちゃん人形にそっくりなのだと。表情や耳のタレ具合がそっくりだった。
けれど、うさちゃん人形より上等な出来で。しげしげと見つめてしまう。
「もしかして、手作り……?」
一体誰が? ううん、答えは一人だけ。
何かを隠しているようような態度。床に落ちていた針。
そして――
『無事に生まれてきて欲しい。守ってあげたい。どうか、幸せに』
この祈りは生まれてくるはずだった彼女の子供だけに向けたものだと思っていた。
でも、違ったら?
私が生まれる前にも、同じ祈りを捧げていたとしたら。
人形を抱き締めた。
言葉にできない複雑な思いが喉から迫り上がってくる。
「お姉様……」
ずっと、生まれて来なければ良かった思っていた。そうすれば、幸せな家族を壊さずに済んだのにと。
冬の冷たい空気が、私の呼吸に合わせて震えた。
「……私は、生まれてきて良かったんだね……」
望まれて、愛に請われて、生まれてきた。
その事実に、私は暫く瞬きさえできなかった。
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