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情熱を捧ぐ

作者: 昏々
掲載日:2026/01/30

 真面目に働きすぎた。

 そのせいで、入園してからの数年間、成長を見守ってきたカバの担当を外され、よりによって「12番」の担当になってしまった。でも、12番はこれからずっとここで暮らすわけじゃない。一年間の期間限定展示だ。その後は本来の場所へ帰り、命を全うすることだろう。だから、今、わたしが抱いているこの後ろめたさも事故のようなもので、来年の今頃にはきれいさっぱり消えているはずだ。

 12番の展示スペース兼飼育舎へ向かう。12番のためだけに建てられた専用のそれは、園内で際立って真新しく、よそよそしい雰囲気を醸し出している。内装も、他の動物たちの飼育舎とは異なり、壁は全面真っ白で、煌々と明りが灯っている。足を踏み入れるたび、異空間に迷い込んでしまったかのような錯覚を起こす。

 バックヤードにあたる白い部屋は清潔で臭いも少ない。12番は床の上にぺたんと座っていた。こちらの気配に気づくと、ゆっくりと顔を上げ、その大きな瞳でわたしを捉える。

〈一、目を合わせてはならない〉

 12番の担当になる際、園長から分厚いマニュアルを手渡され、注意事項を厳守するよう何度も念押しされた。わたしは「はい」と素直にうなずきながら、今、園長の言葉もマニュアルの注意事項も無視している。12番としっかり目を合わせる。室内は監視カメラが取りつけられているけれど、よっぽどのことが起きない限り確認されることはない。

「こんにちは。調子はどう?」

〈一、声をかけてはならない〉

「わたしの名前、そろそろ覚えてくれた?」

 12番に反応はない。ただじっとこちらを見るだけ。

 わたしは床に膝をつき、12番と目線を合わせる。

「風香、だよ。ふ・う・か。わたしの名前。呼んでみて? ね?」

 わたしは笑顔を作って唇を「ふ」の形に尖らせる。「『ふー』って。できる?」と、根気強く語りかける。12番の黒々とした瞳に映る自分を見つけ、胸が恐ろしさに震えるけれど、笑顔は絶やさない。

「やってみて? 『ふー』って」

 12番の唇が微かに動いた。そこに確かな「意志」を見て、わたしはハッとする。……うれしい。恐る恐る手を伸ばし、12番の頭に触れる。頭蓋骨の形を確かめるようにゆっくりと手を滑らせる。

「ちゃんと成長してる。えらい」

〈一、接触してはならない〉

 無視する。ただ12番だけを見つめて、「いい子、いい子」と撫でてあげる。これは愛なんだよって、自分自身に向かって叫びながら、目の前の生き物を見つめ続ける。


 ほんの八十年前に世界が滅びかけたなんて、今は信じられない。

 八十年前、未知のウイルスの大流行によって、世界は一変した。ウイルスの標的となったのは、人間を除くあらゆる動物だった。感染力と致死率が極めて高く、家庭のペットから国立公園で保護されている絶滅危惧種まで、あらゆる生き物が犠牲となった。流行から数年足らずで動物の数は激減し、それは生態系に多大な影響を及ぼすと同時に、当然ながらわたしたち人間の命を脅かすこととなった。

 食料危機だ。家畜のみならず、海や山や川……地球上のどこにも動物がいない。少ないながら生き残った動物は、国際的なしかるべき機関が速やかに保護に動き、並行して、各国で「動物を獲ること・食べること」を禁止する法律が制定された。

 穀物や野菜、果物、木の実、海藻、昆虫……。肉や魚、乳製品などがなくなっても、それらはある。人間は食料の全てが奪われたわけではなかった。しかし、今まで食事の大部分を補っていた動物性食品の穴を、それ以外の食品で埋めることは、現実的にも心理的にもまず不可能だった。

 誰もがそれをわかっていたから、世界各地では貴重な食料を奪い合う形で争いが勃発し、生き残り動物の保護施設が襲撃されるなどの事件も頻繁に発生した。世の中の不安定さや将来に対する悲観から、自殺者の数も増えた。動物の激減から間もなく、人間の存続が危ぶまれた。

 世界は行き詰まっていた。そんな中、とある国が定例会見の場で一つの打開策を提案した。

「我々は、ついに、我々を食べなければならない時がきたのです」

 その国の広報官は言った。淡々としていながらも、切実な口調だった。

 我々を食べる――つまり、人肉食の提案だった。

 八十年経った今でこそ人肉食は当たり前で、人類が人肉食に至るまでの経緯は教科書に十数ページでまとめられているけれど、当時はおそらく世界中で議論が紛糾したことだろう。人間が人間を食べる。昔の人にとってはこれ以上ないくらいおぞましい所業だったと、わたしの祖父母より上の世代の人がテレビのインタビューなどで語っているのを、何度か見たことがある。

 最初の「人肉」は、クローン技術を用いて生み出された。そこからどんどん数を増やしてゆき、ウイルスが収束し、動物の数が徐々に回復してきてからも、人肉食という選択はなくなっていない。

 人肉はあくまで人肉として生まれ、育てられる。人間と姿形は同じだけれど、教育を受けたり、感情を育んだりすることはない。あくまで「食料」だ。その命は生まれた瞬間から見ず知らずの他人のためにある。

 ちなみに、人肉は不味い。調理しても独特の臭みみたいなものが消えないため、人肉は解体前に「入れ炭」を行う。入れ炭とは、人工的に味付けした食用の炭を、専用の器具を用いて人肉の皮膚に着色する工程だ。そうして身体に模様を描くことは、太古から様々な用途や理由で一般の人々も行っていたらしく、それこそ八十年前はファッションの一部だったという。が、今はもちろんそんなことをする人はいない。入れ炭=人肉の証なのだから忌避して当然だろう。


 12番は、まだ入れ炭を行っていない。

 わたしは、12番の透き通るような白い肌を見つめる。12番は、わたしたち人間の基準で測ると、痩せている方だと思う。ただ、二の腕、胸、太腿などにはほどよく脂肪がついていて、食料として不良なわけじゃない。

 12番はまぎれもなく人肉だ。いずれ出荷される。それがなぜこの動物園で期間限定展示されることになったかというと、ひとえに12番が「時の肉」だからだった。

 12番は元々、地方の牧場で育てられていた。その牧場は、他にも少ないながら牛や馬などの家畜を飼育しており、牧場を一般開放することで、来場者が動物と触れ合える機会を設けていた。しかし、人肉との接触や声掛けは厳禁とされている。そのため12番だけは、他の動物たちのように人と触れ合うことはなく、飼育小屋で過ごすその姿を来場者が一方的に観覧するという、動物園の展示と似た方法がとられていた。

 そこで話題になったのが、12番の容姿だった。

 12番は、きれいな顔立ちをしていた。アーモンド形の大きな瞳、しっかりと通った鼻筋、きゅっと口角の上がった唇。人間的に言うなら「美少女」だ。アイドル顔負けのその容姿は、「食べちゃいたいくらいかわいい人肉」としてSNSで瞬く間に拡散され、牧場には12番の姿を一目見ようと大勢の人が押しかけ、通常業務に支障をきたし出した。

 人々が求めるこの「時の肉」を、大々的かつ安全に、そして意義深く展示する方法はないものか。どこかでそういう話し合いがなされたのだろう。結果、国内唯一のこの動物園に白羽の矢が立ったのだ。

(情けなくないわけ?)

 12番展示の話を聞かされた時、わたしは瞬間的にそう思った。どこからのお達しか知らないけれど、動物園が人肉を飼育するなんて……プライドはないの?

 昔と違い、現代の動物園は希少な施設となっている。世界全体でも両手で数えられる程しか存在しない。そのため日本でも飼育員は国家資格であり、合格は非常に狭き門となっている。わたしが猛勉強の末なんとかそれを突破できたのは、幼い頃から抱いていた動物に触れてみたいという、その強い気持ちがあったからこそだ。そして、飼育員となったわたしは、カバの皮膚の硬さに感激し、ライオンの威厳に圧倒され、ウサギのぬくもりに胸を震わせた。日々が感動の連続だった。それがなぜ……ありふれた人肉の世話などしなければならないのか。

 でも、本当はわかっていた。人肉だって動物なのだ。同じ食肉用でも、これが牛や豚や馬だったら、動物園で展示することに疑問を持たなかっただろうし、喜んで担当を引き受けたはず。つまり、わたしは人肉が嫌いなのだ。だから、日に日に12番のことも嫌いになっていく。だって、12番は愛されている。連日後を絶たない展示ガラスの向こうの大勢の人々から、ではない。わたしが気に入らないのは、幹くんの愛を一心に受けていること……それがどうしても我慢ならないのだ。

 12番を振り返る。わたしを見ている。笑顔で「なあに?」と訊ねると、12番が大きな瞳を瞬いた。そして、血色のいい唇をゆっくりと「ふ」の形に尖らせた――。


 幹くんは、わたしの恋人だ。早いもので、もう六年の付き合いになる。

 幹くんと出逢った当初、彼のXのプロフィールには「20/大学生」と書かれていた。それが今は「人肉食反対活動家/反人肉食活動団体『choose what to eat』代表/人肉食に疑問を持っています。人間が人間を食べること、それは人間として最も罪深い行為です。また、入れ炭の味付けには危険な添加物が使用されており――」となっている。

 プロフィールは変わっても、幹くん自身はきっと最初から何も変わっていない。わたしが今になってもまだ、幹くんという人を計り知れないだけだ。

 幹くんと知り合ったのは、大学四年の夏休みだった。わたしは飼育員国家試験を半年後に控え、最低限の外出以外はアパートの部屋に引きこもり、夜も昼もなく机に齧りついていた。精神的にかなり追い詰められていたと思う。周囲との連絡も途絶えがちになり、見かねた友だちの一人がわざわざ家までやって来て、「サークル主催の集まりがあるから行こう」と、半ば引きずるような形で外に連れ出してくれなかったら、閉め切った室内でひっそりと発狂していたかもしれない。

 その集まりの会場は、都心から少し離れた地域の河川敷だった。炎天下、数十人の学生がバーベキューを行っていた。どの網の上にも野菜ばかりが並べられ、バーベキューそのものよりも、賑やかな雰囲気を楽しむことが目的のようだった。

 その光景を目の前にしても、しばらくは試験のことが気になっていた。でも、陽射しの強さや川のにおいを感じ、たくさんの笑い声を聞いているうち、久しぶりの「外の空気」に心がほぐれ、次第に気持ちが上向いていった。

 そして、幹くんに出逢う。

 わたしはトウモロコシを焼いていた。なかなか火が通らず、ふと顔を上げた時、川べりに立っている幹くんの姿が目に入った。幹くんは、友人と思しき男子が水切りしているのを、背後からにこやかに見守っていた。

 日当たりのいい角部屋に住んでいそう。その窓際で、背の高い観葉植物を育てていそう。それが幹くんの第一印象だった。静かで、清潔。川面がきらきらと光っていた。水切りの石が、光を散らした。散らばった光が幹くんに降り注ぐのを、わたしは確かに見た。……一目惚れだった。

 その瞬間、全てのことがわたしの中から飛んでいった。試験勉強のストレス、将来の不安、トウモロコシの焼き加減……。大声で呼びかければ振り向いてくれるかもしれない距離にいるたった一人の男の子が、世界の全部になった。

 心臓の早鐘に急かされるように、わたしはその場を離れ、幹くんに近づき、意を決して声をかけた。振り返った幹くんは、やっぱり光の粒をまとっていてきらきらと眩しかった。

 この時、自分が何を話したのか、わたしは覚えていない。覚えているのは、幹くんのことばかりだ。見ず知らずのわたしの話をにこやかに聞いてくれたこと、やさしい声をしていたこと、快く連絡先を交換してくれたこと、別れ際に手を振ってくれたこと……。

 バーベキュー会場からの帰り道、わたしはスマホに登録された幹くんの連絡先を眺めながら、今日で一生分の運を使い果たしたかもしれない、と本気で思った。そして、家に帰り、机の上に広げたままの勉強の跡を見て、どうして一生分の運を使ってしまったんだろう、と本気で落ち込んだ。

 その後、思い切ってメッセージを送ってみると、幹くんから返事がきた。それにまた反応を返すと、意外にもやり取りはしばらく続いた。わたしは運が目減りしていくのも構わず、幹くんが話を聞いてくれるのをいいことに、自分の話ばかりした。飼育員を目指していること、今は国試の勉強ばかりしていること、こうやって話を聞いてもらえてうれしいこと。幹くんにわたしのことを知ってもらいたかった。でも、本当に知ってもらいたいのはこんな表面的なことじゃなかった。もどかしい、と思った。それでも言葉は止まらなかった。止まってしまったら、そこでつながりが途切れてしまう気がした。だから、幹くんのことが知りたい、という一番強い気持ちは、幹くんの言葉を止めることになったら……と思うと、なかなか言い出せなかった。

 メッセージのやり取りは、いつしか通話に代わっていた。他の人からの連絡はスルーするくせに、幹くんには自分からマメに掛けていた。スマホ越しに幹くんの穏やかな声が聞こえると、胸いっぱいに痺れるような安堵が広がった。

 幹くんは、わたしに対して常に肯定的だった。

 この時のわたしは、幹くんとトントン拍子で仲良くなることに全く疑いを持っていなかった。それどころか「波長が合うんだ」という、今になってみるとおめでたいとしか言えないけれど、間違ってもいない一言で片づけていた。べつに、後になって、幹くんの裏の顔が判明したとか、わたしを利用していただけだったとか、そういうことじゃない。ただ、互いをつないでいるものに対する認識がズレていたことに、気づいたのだ。わたしはそれがシンプルな「恋愛」であると信じて疑っていなかった。でも、幹くんは違った。幹くんが見出していたつながりは、きっと「生物愛」だった。

 だから、あの時、幹くんは泣いたのだ。

 国試を一か月後に控えた、冬の日。わたしはいよいよ精神の限界を迎えた。閉め切った部屋で、ボロボロ泣きながら、けれど勉強を止められず、それなのに頭には内容が入ってこない。焦りが募り、不安が濃くなる。呼吸が苦しくなってきたところで、スマホに手を伸ばした。幹くんの声が聞きたかった。今すぐあのやさしい声で名前を呼んでもらわないと、この狭い室内で窒息する気がした。

 幹くんはいつも通り応答してくれた。

 わたしが泣きじゃくっていることに驚いている様子だったけれど、面倒そうにするでもなく、こんがらがった紐をほどいていくように根気強くわたしの話を聞いてくれた。そして、「今すぐそっちに行くね」と言ってくれた。

 わたしは何度も「うん、うん」とうなずいて、「ありがとう」と繰り返した。

 通話を終え、人心地ついたところで、我に返った。……幹くんが来る? この部屋に?

 幹くんとはスマホ越しにしょっちゅう話をしていたけれど、実際に面と向かって言葉を交わしたのはあのバーベキュー会場が最後だった。お互いの学部が別々のキャンパスだったこともあって、大学で顔を合わせる機会もなかった。

 わたしは室内を見回した。何日も掃除しておらず悲惨な有様になっている。中でも、際立って薄汚れているのがわたし自身だった。鳥の巣のような髪、泣いて腫れた瞼、食べ零しの染みがついたスウェット……。とてもじゃないが幹くんに見せられる状態ではない。しかし、今さら「来なくていいよ」とも言えず、わたしは涙を引っ込めると、早急に身だしなみを整えた。鏡の前で念入りに髪を梳かしながら、一か月後には試験なのに何やってんだろう……、と白けたものの、インターホンが鳴った瞬間、そんな気持ちは吹き飛んだ。さっきまで息苦しさに止まりそうになっていた心臓が、勢い余って飛び出しそうになるくらい拍動した。

 玄関扉を開けると、幹くんが立っていた。わたしを真っ直ぐに見ると、安心したようにふわりと微笑んだ。

「よかった。泣いてない」

 すごい。目の前に、幹くんがいる……。

 バーベキュー以来直に聞くその声と、手を伸ばせば触れられる距離に感動を覚え、どこか夢心地のまま、わたしは幹くんを迎え入れた。

 幹くんは「おじゃまします」と言って、何の気負いもなく部屋に上がった。室内をぐるりと見回したものの、散らかり具合にコメントすることはなく、思い出したようにパッとこちらを振り返った。

「おみやげ買ってきたんだ」

 肩に提げていたバッグの中を漁る。そうして、りんご、みかん、カットされたパック詰めのパイナップル……と、ローテーブルの上に次々と果物を並べていった。

「食欲ある? 食べられそう?」

 幹くんが心配そうに眉を下げる。

 わたしは慌ててキッチンへ行き、フォークを二本取って戻った。幹くんにクッションを勧め、ローテーブルを前に並んで座った。

 カットパインをつつきながら、わたしはぽつりぽつりと話はじめた。さっき通話した時とほぼ同じ内容の繰り返しだったけれど、今度は落ち着いて言葉を選ぶことができた。ただそれは、気持ちが落ち着いてきたからというわけではなく、幹くんの肩に自分の肩が触れていることにドキドキして、気がそぞろだったからだ。

 出口のない話をしているうち、幹くん、絶対つまんないだろうな……と、だんだんと不安になってきた。頭の中は、話を聞いてもらうことより、どう話を切り上げるかにシフトしていた。だから、それまで相槌を打ってくれていた幹くんが急に静かになった時、わたしは慌てて顔を上げた。

「……えっ、」

 こんな愚痴ばっかり聞かせてごめんね、と、謝ろうとしていたわたしは、幹くんを見てぎょっとした。

 幹くんは、泣いていた。音もなく涙を零しながら、鼻を啜っていた。

「ど、どうしたの?」

 わたしは慌てて、ボックスティッシュを差し出した。

 幹くんは俯いたまま軽く顎を引き、ティッシュを二枚抜き取った。それを目元に当てながら、くぐもった声で「すごいよ……」と呟いた。

「風香ちゃんは、すごい。動物のこと、本当に好きで、愛してるんだね。自分がすり減るくらい、深い愛なんだね」

(あ、愛……)

 それも、「深い愛」……。そんな言葉が同年代の男の子の口から飛び出したことに、わたしは呆気にとられた。

 ティッシュを丸め、深呼吸を繰り返した幹くんが、身体ごとこちらを向いた。目が赤くなっていた。ウサギみたいでかわいいと思った。

「俺は何もできないけど……、風香ちゃんのこと、ここで見守っててもいい?」

 瞬きの拍子に、幹くんの右目からポロっと涙が落ちた。

 あぁ……幹くんが本当にウサギだったなら。わたしは何を躊躇うこともなく、ありったけの気持ちで抱きしめられるのに。その体温を分けてもらうことができるのに。……しかし、この時のわたしはウサギのぬくもりをまだ知らず、幹くんのそれを知るのも、もう少し先なのだった。

 それから、幹くんは本当にわたしの勉強を見守ってくれた。時間がある時に部屋を訪れ、ただただじっとしている。観葉植物みたいに静かで、慎ましやかで、そこにいてくれるだけで心が安らいだ。

 幹くんの献身は試験前日までずっと続いた。当日も、朝一番にメッセージをくれた。そのおかげで、わたしは無事、合格することができた。幹くんの支え失くして、その後のわたしが存在することはなかった。

 まだ肌寒い四月、わたしはこの世の春を先取りし、全身で謳歌していた。晴れて飼育員となり、動物園への就職も決まり、こうして幹くんと手をつないで歩いている。人生が完成されてしまったような気がしていた。

「お腹空いたね、お昼どこで食べる?」

 言いながら、わたしは少し先の通りにできている行列を見ていた。事前に、ここに人気の洋食屋があることは調べていた。実際にこれだけ並んでいるのを見ると、絶対に間違いないと、期待が膨らんだ。

「ちょっと待つけど、ここにする?」

 店の目の前まで来たところで、わたしは訊ねた。

「いや、ダメ。ここは」

 幹くんは即答した。見て、と言って、メニューが書かれたボードを指す。「人肉を使った料理がある。人肉を扱ってる店には入りたくない」

「え……あ、人肉……。嫌い、なの?」

「味がどうとかじゃなくて、人肉を食べること自体が嫌なんだ。人肉を食べてる世の中が、嫌。受けつけられない」

 わたしは面食らった。肯定的な幹くんしか知らなかったから、こんなふうにはっきりと何かを否定する姿ははじめてだった。

 その時、視線を感じた。行列に並んでいる人たちが、胡乱な目で、わたしたちを見ていた。……心の中で言われているだろうことは、想像に難くなかった。

「じゃあ、別のとこ探そっか」

 まだボードを睨んでいる幹くんの手を引く。見知らぬ人たちの視線から逃れるように、わたしはそそくさとその場を後にした。

 人肉を取り扱っていない店を探して回った結果、チェーンのコーヒーショップに行き着いた。

 わたしたちはそれぞれホットコーヒーと、大豆ミートのボロネーゼを注文した。

「ごめん、歩き回らせちゃって」

 窓際のカウンター席に着くと、幹くんはしょんぼりとうなだれた。「普段は、人肉取り扱いの店に我慢して入ることもあるんだ。でも、風香ちゃんの前で取り繕うのは違う気がして……。てか、俺、人肉のこと、風香ちゃんに話してなかったんだね。ずっと一緒にいたから、もう話したつもりでいた」

「いつもわたしが自分のことばっかり話してたから……」

 幹くんのことを知りたいと思いながら、わたしは、幹くんについてほとんど無知だった。

「俺、人肉食の反対活動をしてるんだ。今はまだサークル活動の範疇だけど、今後はこれをきちんとした組織にしていきたいと思ってる」

 そうして幹くんは自分のことを語りはじめた――

 幹くんは、本人も言った通り、反人肉食を掲げ、それに基づいた活動を行うサークルに所属している。サークル名は『choose what to eat』……食べる物を選択する、というような意味らしい。わたしたちが出逢ったあのバーベキューも、このサークルが主催したものだった。野菜ばかり焼いていたのは、肉が高価だから雰囲気だけでも楽しもうという理由などではなく、あえての菜食だった。幹くんは「人肉食反対」だが、サークル内には「肉食」そのものを忌避する人もおり、それぞれが食べる物を選択した結果というわけだ。

 今は幹くんが代表になっているが、元々は幹くんの三つ先輩にあたる男子学生が立ち上げたサークルだった。その学生は周囲から「師匠」と呼ばれていたらしく、通称通りならカリスマ性が窺える。

 幹くんは、元々うっすらと人肉食に抵抗があったらしい。しかし、家庭や学校や店で人肉料理が出てくれば食べていたし、そもそも「食べること」自体について深く考えたこともなかった。しかし、大学入学後間もなく、「choose――」と、そして師匠と出逢う。師匠から(サークル勧誘の一環で)「choose――」の理念を聞かされると、幹くんは「なるほど」と腑に落ちるところが多々あったものの、入会を即決することはなかった。すると、師匠から一冊の小説を手渡された。何でも、「choose――」は、その小説を元に作られたという。

 その内容は、一言で言うと「食べる物を選択する」話だった。「choose――」のスローガンそのものだ。主人公は、自分を形作る「食べる」という行為に重きを置き、味や質ではなく、食材の見た目の美しさを重要視している。美しい物を口に入れることで、美しい自分を形成しようということだ。食事はなるべく非加熱で、味つけはしないというこだわりも持っている。

 あらすじを聞く限り真新しさもおもしろさも感じられないが、幹くんには刺さったらしく、この主人公のように生きたい、と感銘を受けた。そして、自身の食事を見つめ直すと同時に、心の底にあった人肉食に対する違和感が浮き彫りになった。そんな幹くんを、「choose――」は歓迎してくれた。

 そうして、幹くんは「choose――」の一員として反人肉食活動に精を出していった。SNSの積極的な活用や、各地での公演などを精力的に行い、今では自他ともに認めるサークルの顔だ。創設者である師匠はとっくに卒業し、活動から手を引いている。卒業前、後輩たちに「好きにしていい」と言い残したらしく、幹くんはその通りにさせてもらうつもりらしい。

「卒業まであと一年あるから、その間に『choose――』をもっといろんな人に知ってもらって、大きくしたい。卒業してからも活動は続けるよ。今は都内がメインだけど、全国各地で講演会とかするつもり。で、俺たちの考えに賛同してくれる人が増えて、実際に『choose――』が大きくなってきたら、政界への進出も視野に入れたいなって。最終目標はもちろん、世界から人肉食をなくすことだけど、まずは身近な人たちに人肉食の異様さに気づいてもらうことが大事なんだって、そう思ってる」

 わたしは深く相槌を打って、コーヒーを一口飲んだ。

 正直、話を聞いていて、幹くんの思想というか、そのバイタリティの方向性に冷や汗が止まらなかった。わたしは、幹くんのことが好きだ。好きな人を「やばい」と思いたくはない。だけど、窓ガラスに映る幹くんを見つめながら、わたしはその「やばさ」を測ろうとしていた。

 ……卒業してからも活動を続けるって、就職はどうするの? 政界って、嘘でしょ? 世界から人肉食をなくして、それで世の中の人は喜ぶの? というか、全部、現実にできると思ってるの? 思ってるんだとしたら、幹くん、それはやばいよ。

 わたしはコーヒーを飲んだ。幹くんの前で言いたいことを言えない時が来るなんて、今朝の時点では夢にも思っていなかった。

 それから、幹くんは、人肉食がいかに外道な行為であるか、また、人肉に施される入れ炭がいかに危険な添加物であるかを、熱心に語りはじめた。

 パスタはのびる。コーヒーは冷める。

 幹くんってXでもこういうこと呟いてるんだろうなぁ、それで叩かれたりしてるんだろうなぁ、と、わたしはぼんやり思った。いや、叩かれはしないか。ただ、玩具にはされてそうだ。

 行列に並んでいた人たちから向けられた視線を思い出す。あれは反人肉食に対する世間の声だった。

「――だから、風香ちゃんも人肉は食べないでほしい」

「えっ、……それは……」

「風香ちゃんには人の道を外れてほしくない。あと、ずっと健康でいてほしいんだ」

 人肉はただの「肉」だし、得られる栄養を考えると食べない方が健康に悪い気がする……。

 貴重な動物性食品を一つ失うのは、辛い。幹くんが人肉食を非難しているのは、人肉の「人」を、人間の「人」だと捉えているからだ。でも、それは違う。人肉は、「肉」だ。食べられることを前提に生まれる。その時点で「人」ではない。人「肉」を食べることを外道とするなら、食事そのものが外道となりかねない。また、入れ炭の添加物だって、しかるべき機関のしかるべき検査をパスしたものだろうから、人体に影響があるとは思えない。その証拠に、この八十年で人肉食が直接の原因となった健康被害は存在しない。

 でも、幹くんは信じているのだ、自分の中の真実を。そして、わたしにもそれを疑わないでほしいのだ。

 幹くんが潤んだ瞳で見つめてくる。チワワみたいでかわいいと思った。……そうだよ、反人肉食は幹くんの一部でしかない。幹くんという人は他の多くのことで構成されている。わたしはその中の「かわいさ」だったり、「やさしさ」だったり、「思いやり」だったり、そういうたくさんの部分を知っている。そして、何より、わたし自身が一番辛かった時、ただ黙って寄り添ってくれた幹くんを思い出すと、反人肉食活動をしているなんて些末なことのように思えた。

「……そう、だね。幹くんの話聞いてたら、人肉は食べない方がいいのかなって気になってきたから……今後はそうするね」

「ほんと? よかった」

 幹くんはホッと息を吐くと、満面の笑みを浮かべた。

「今度またサークルの集まりがあるんだ。風香ちゃんも一度参加してみて。今の世の中がどれだけおかしなことをしているのか、気づくことができると思うから」

「……うん」

 この日から、わたしは、「やばい」のは幹くんなのか、それとも自分なのか、揺れることになった。幹くんは真剣に反人肉食活動に勤しんでいる。それを「やばい」と一蹴してしまったわたしこそ、世の中に疑問を持たないやばい人間なのではないか。

 煩悶しているうち、幹くんに誘われていた「choose――」の活動日になった。てっきり大学の教室に集まるのかと思っていたら、活動場所は区の文化センターだった。しかも会議室のような話し合いを行うスペースではなく、普段はコンサートなどで使われている小ホールだ。一〇〇ほどある座席はほとんど埋まっている。「choose――」の活動を支持する人がこんなにいるのか……と、わたしは純粋に驚いた。

 通路を移動する人の動きが緩慢になり、ホール全体の空気が落ち着いてきたところで、開演を報せる時のようなブザーが鳴った。客席の照明が落ちる。反対に、舞台上の眩さが強くなった。

 舞台袖から、幹くんが登場した。拍手が起こった。わたしも慌てて倣う。両手の平にじっとりと汗を掻いていた。

「みなさん、こんにちは。本日はお集りいただいてありがとうございます――」

 幹くんはいつものやさしい声で挨拶すると、おそらく「choose――」の理念に共鳴する者だけに伝わるジョークを言って、会場の笑いを誘った。

 舞台慣れしている様子の幹くんと違い、わたしはずっと緊張していた。幹くんがこんなに大勢の人の前でちゃんと話せるのかという大きなお世話と、ここにいる人たちのほとんどが幹くんと同じような思想の持ち主であるという圧迫感に、苛まれていた。

 幹くんが無事話終えられますように。わたしがこの場の空気に呑まれませんように。幹くんのやさしい声を聞きながら、わたしは心の中で祈った。

 しかし、十分ほど経つと、次第にその緊張は霧散していった。そして反動のように眠くなってくる。というのも、正直、幹くんの話が全く響かないのだ。「人肉食を選択した世界は間違っている」ということを、言葉を替えながら延々と繰り返している。話が前進することも、停滞することもない。出口のないループを彷徨っているみたいだった。

 そして、さらに十分ほど過ぎると、今度はだんだんイライラしてきた。幹くんたちはなぜ、これほど人肉食を目の敵にするのか。幹くんが「外道」と断罪する一方で、世界には人肉による恩恵が確かに存在していた。人肉食という選択が生まれたことによって、世界各地で勃発していた食料を巡る争いが沈静化した。栄養失調で亡くなる人の数が減った。人の生活に余裕ができたことで、動物の復活に目が向けられるようになった。そうして復活した動物――主に、肉食動物――は、人肉という餌があったから命を繋ぐことができた。

 それを失くしたら、世界はどうなるだろう。動物の数が回復し、動物性食品がある程度復活した今でも世界から人肉食という選択肢が消えていない現状こそが、その答えじゃないだろうか。

(そういうことは考えてる?)

 思わずぎゅっと眉を寄せた瞬間、ふと気づく。わたしは、出逢ってから今はじめて、幹くんに対して苛立ちを覚えていた。

 幹くんの言葉、視線、表情、わたしには理解できない思想を大勢の人と共有していること自体、全てに文句をつけたくなっている。立ち上がって、「おかしいよ!」って叫びたい。

 わたしは反人肉食ではないけれど、人肉に対して思い入れがあるわけでもない。世界が人肉食をやめるというのなら、べつにそれでも構わない。それなのに、どうして、こんなに反発しているんだろう。こんなに熱くなっているんだろう。

 幹くんは話し続けた。照明の下、生き生きと、人肉のために世の中を敵に回していた。

 わたしはそこで、あぁ、と思う。

(今の幹くんには熱があるんだ……)

 情熱的だった。観葉植物みたいにわたしに寄り添ってくれていた幹くんからは想像もつかない熱が、その全身から迸っていた。

 ――自分がすり減るくらい、深い愛なんだね

 今まさに幹くんは深い愛を提示していた。幹くんの中で人肉は肉でも選択肢でもない、「存在」なのだ。食肉という運命を背負って生まれた、存在。「存在」だから、守る。想う。人生を懸ける。それを愛と呼ばずして、何と言おう。

(……おかしいよ)

 わたしはやっぱり叫びたい。幹くん、おかしいよ。人肉なんかじゃなくて、幹くん、その情熱、その愛、わたしに向けてよ! ねえ!

 ホール内はしんとしたまま、その後も出口の見えない話がしばらく続いた。


 12番の展示スペース前には今日も黒山の人だかりができている。わたしは他の動物の飼育舎を掃除しながら、そちらの様子を窺っていた。

 展示スペースには横長の大きな窓が嵌められていて、その向こう、真っ白い室内を12番が行ったり来たりしている。12番に意図はなく、ただうろうろしているだけなのだろうが、人だかりからはスマホのシャッター音が鳴り止まない。

 多くの人がSNSに12番の姿をアップするだろう。人肉は、人間と同じ身体の作りをしいるものの、あくまで「肉」だから、たとえ全裸の写真が出回っても法律で規制されることはない。これは(中には例外がいるとしても)ほとんどの人間が、人肉を「肉」として認識しているためだ。動物が生まれたままの姿で過ごすのが当然であるように、人肉に対しても同じ感覚を持っている。人肉が人間のようなことをするのは、むしろおかしい。 八十年の間にわたしたちの脳と心はそういう「常識」を獲得していた。

 12番が窓に近寄る。歓声が上がる。

 わたしは12番のきれいな顔を見つめる。それから人々の笑顔に視線を移す。展示スペースの裏は飼育舎になっている。12番がそのきれいな顔とはかけ離れた、人肉としての「ありのままの姿」を晒していることを、想像する人はいないだろう。それは、普段口にする人肉がどのような工程を経て肉となるのか知ろうとも思わないことと、よく似ていた。

 12番が額を窓につけた。視線を彷徨わせている。目が合った。12番のアーモンド形の瞳がすっと細くなる。

「かわいいー……」

 一際大きくなった歓声の影に隠れて、わたしは吐き捨てた。


 ちょっと前から、12番に絵本の読み聞かせをしていた。もちろん禁止事項であり、バレたらクビだ。それ以前に、わたしが12番に対して行っていることは全て、明るみになった場合、12番の所有者である牧場主から訴えられる可能性があった。

 飼育舎の壁に背を預け、絵本を広げる。12番は言葉の意味がわからないはずなのに、熱心に耳を傾けていた。最近は時折、眉を寄せたり目を細めたりと表情の変化を見せるようになっていて、何かを吸収している節はあった。ちょっとした蓄えを持った脳味噌は珍味になるかもね、と、わたしは12番に寄り添いながら思う。

「ふー」

 絵本を閉じると同時に、12番がすり寄ってくる。小さな頭をわたしの肩に埋め、そのままイヤイヤするように首を振る。長くてしなやかな腕がわたしの身体をぎゅっとする。

 この世界で生きていくことを前提としていない、無防備な姿。

 ……もしも、幹くんが12番を見に来たら。来園者の大多数が12番を肉として見ている中、幹くんだけは12番を「存在」として見るだろう。それは12番がこんなふうにきれいな顔をしていなくても、人気者でなくても、変わらないはずだけれど、実際に12番はきれいな顔をしていて、人気者だ。愛すべき、という言葉がよく似合う。

 少しだけ身体を離して、12番の瞳を覗く。

 わたしはたぶん、幹くんが反食肉を掲げ、食肉用の牛や豚を救おうと情熱を注いでいたとしたら、こんな気持ちにはなっていない。人肉だから、落ち着かない。人の姿をしているから、見逃せない。それは、わたしも幹くんと同じように人肉の「人」の部分に重きを置いてしまっている証拠である気がして、その矛盾に苛立つのだ。

 だから、わたしは12番を抱きしめる。

「わたしのこと、ちょっとは好きになってくれた?」

 12番、わたしを好きになって。別れの日はさみしくなって。牧場に帰ったらわたしを思い出して。また会いたいって思って。そうやって人間みたいになって。そうしたら、きっと絶対怖くなる。怖くて怖くて堪らなくなる――人肉という運命も、出荷も、入れ炭も、解体も、食べられることも。自分が存在していること自体も。

 12番が「ふー」と呼ぶ。人肉の舌って食べられるんだったっけ? 後で調べよう、とわたしは思った。


「12番の様子はどう?」

 幹くんに訊ねられ、わたしは皿をシンクに落としそうになった。幹くんは洗い終えた皿を拭きながら、「相変わらず人気みたいだね」と続ける。

 12番の担当になってもう半年ほど経つけれど、幹くんにはそのことを話していない。幹くんは当初から人肉展示に反発しており、動物園に抗議文まで送っていた。動物園が人肉食推奨のため展示を引き受けたわけではないと承知しつつも、「こういうのは姿勢を示すことが大事なんだ」ということらしい。

「12番は……いつも大勢の人に見られてはいるけど、特にストレスとかは感じてないみたい。毎日の健康報告でも問題は上がってないよ」

「そうなんだ。よかった」

 険しい表情のままうなずいた幹くんに、わたしは内心イラっとする。……人肉の心配してる場合じゃないでしょ、幹くんは。

 幹くんは、卒業後、わたしの一抹の不安を他所に一般企業に就職した。が、去年、退職した。理由は「choose――」の活動に専念するため。幹くんが学生時代に野望を語っていた通り、「choose――」はそれなりに大きな組織となっていた。現在は会員からの会費と、「特製代替肉」や「入れ炭の添加物に効くお茶」などの(わたしだったら絶対に買わない商品の)販売によって、活動資金を賄っている。

 幹くんとは、幹くんの就職を機に一緒に暮らしはじめた。しかし、日増しに「choose――」に傾倒していく幹くんを見ているうち、最近ではわたしの中で、このままでいいのか、という気持ちが膨らんできている。

 幹くんは、反人肉活動にどんどん情熱的になっていく。反人肉は幹くんの一部だったはずなのに、今では大部分を占めている。

 幹くんが世間話のように人肉について語るたび、わたしの心は幹くんから遠ざかる。そのまま離れられたら楽なのに、わたしは幹くんの情熱にしがみつき、躍起になって遠ざかった分の距離を縮めようとする。まるで一目惚れしたあの瞬間みたく幹くんに振り向いてほくして仕方ないみたいで、みっともない自分に嫌気が差す。

「――で、今度、〇〇駅前で街頭デモすることになったんだけど、」

「デモ?」

 わたしは今度こそ手を滑らせた。シンクに皿が落ち、鈍い音が立つ。

 〇〇駅は、わたしが勤める動物園の最寄り駅であり、目と鼻の先だった。

「デモって……」

 言葉を失うわたしに、幹くんは「危険なやつ想像してるでしょ」と笑った。

「もちろんちゃんと届け出して許可はもらうから、安心して。参加者の大半はうちの会員だし、道行く人に自分たちの考えを聞いてもらうだけだから、暴動が起こるとか、そんなことにはならないよ」

「………」

 以前、幹くんが政界進出を仄めかしていたことを思い出した。このデモは、その第一歩なのだろうか。幹くんには、政治家になってほしくない。「反人肉食」を掲げる政党の党首として人前に立ってほしくない。

「土曜なんだけど、風香ちゃんはどう? 参加できそう?」

 えっ絶対無理なんだけど、と言いそうになって、わたしは唾を飲み込んだ。

「ごめん、仕事……」

 でも、おそらく幹くんの声は動物園まで届くだろう。と想像して、わたしはハッとした。ということは、12番も幹くんの声を聞くことになる。展示スペースのガラスは厚いけれど、外の音を遮断しているわけじゃない。拡声器を使うだろう幹くんの声は……愛は、12番に届く。

「そっかぁ、仕事か。残念」

 ちっとも残念がっていない様子で、幹くんが言った。


 飼育舎に入ると、部屋の隅でぼんやりしていた12番がパッと立ち上がった。こちらを見てにっこり笑う。12番に「笑顔」の意図はなく、おそらく筋肉の運動によるものだろうが、自然な反応だからこそそれは人間的に映った。

 動物園の正門前には、すでに開園を待つ列ができている。ほとんどが12番目当てだろう。展示スペースの少しでも前の方で12番の姿を見たいのだ。

(どいつもこいつも……)

 わたしは腕時計に目をやる。幹くんのデモは十時からはじまる。動物園の開園と同時だ。刻一刻とその時が近づくにつれ、何かに追われているような苛立ちが募っていく。

「ふー……」

 12番を展示スペースへ移動させようとしたその時、12番に顔を覗き込まれた。

 12番は、眉を下げていた。苦しそうに、辛そうに、眉間に皴を寄せている。その表情は「胸が痛い」と物語っていた。

(心配してるの……?)

 わたし、を。わたしのこと、を。

(――人肉のくせに!)

 わたしは、12番のきれいな顔に右手を伸ばした。両頬をありったけの力で掴む。12番の顔が今度は本当に痛みで歪んだ。

 ……わたしは人肉が嫌いだ。人肉に情熱を注いでいる幹くんが嫌いだ。幹くんと人肉を結びつけたものは、何? 何のせいで、幹くんはわたしの嫌いな幹くんになってしまった? 師匠のせい? 小説家のせい? 世界のせい? ……違う。

「おまえたちのせいだ!」

 幹くんは元々人肉食に抵抗があった。人肉なんて食材が生まれさえしなければ、幹くんは反人肉活動家になどならなかった。人肉を生み出したのは人間だが、人間を安心という餌付で懐柔したのは人肉だ。

 なんて……八つ当たりであることはわかっている。それでも、わたしは苛立ちの全てを指先に込めた。12番の頬肉に爪が食い込む。頬は人気の部位だから、傷がついたら価値に影響するだろうが、構わない。

 12番の顔がみるみる歪む。そして、ついに泣き出した。人肉には本来感情がない。だから、泣き方を知らない。涙を垂れ流し、咆哮のような声を上げるその様は、産まれたばかりの赤子のようだった。

 12番が、わたしの手首を掴む。なぜわたしがこんなことをしているのか、自分がこんな目に遭っているのか、処理しきれないのだろう。力任せにわたしの手を振り払うと、狂ったように暴れ出す。

 12番が大きく身を捩った。振り上げた腕が手加減なくわたしを突き飛ばす。わたしは尻もちをついた。あっ、と思ったときには、12番が外に通じる扉の向こうに消えていた。

 わたしは慌てて後を追った。

 開園して間もない園内を、12番が駆けて行く。展示スペースの前に詰めかけていた人々からどよめきが起こる。他の飼育員たちが12番に気づき、大慌てで捕獲に動く。

 幹くんの声が微かに聞こえた。耳を澄ましても、何を言っているかまでは聞き取れない。でもきっと出口のない愛を叫んでいるのだろう。12番は正門と正反対の方向にどんどん遠ざかっていく。

 わたしはその場にへたり込んだ。

 これから、わたしが12番にしていたことが明るみになるだろう。そうしたら、間違いなくクビだ。おそらく飼育員資格も剥奪される。12番を所有する牧場から訴えられる。幹くんにバレる。わたしには「深い愛」なんてなかったことが、バレる。

 全部、終わりだ。

 幹くんの声、12番の奇声、来園者たちの喧騒、飼育員たちの怒号、すべてが混ざり合い渦をなしている。情熱の渦。そこからはじき出されたことに、わたしは泣きながら息を吐いた。


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