第4話 偽りの契約と聖女を演じる罠
王城の朝は、冷たい静寂と、張りつめた緊張に満ちていた。
窓の外、遠くにそびえる神殿の尖塔を見下ろしながら、私はそっと仮面を外す。
「……動いたわね」
昨夜の仮面舞踏会は、ただの社交ではなかった。
王太子との再会。
そして――仕掛けた罠が、ひとつ動き出す音がした。
* * *
その朝、王都中に広がった知らせはひとつ。
〈聖女候補三名のうち、一人に“神託の印”が降りた〉
誰の名かは伏せられていたが、私には分かっていた。
(選ばれたのは――私)
そうなるように、仕組んだのだから。
十年前の記憶があるからこそ、知っていた。
“神託の印”とは、純粋な信仰でも奇跡でもない。
――ただの政治的判断。
巫女長がいかに賄賂に弱いか。どの貴族派閥がどこへ影響するか。誰が神殿を動かしているか。
すべては計算済みだった。
私は、〈聖女〉の座を目指しているわけではない。
私が演じているのは、“聖女の仮面をかぶった悪役”。
それは王国の中心に座し、王太子すら取り込む――支配者の道。
* * *
「リュミエール・アークライト。神託により、貴女を聖女候補筆頭に指名いたします」
荘厳な神殿の中央、神官の言葉が響く。静まり返った空気に、ざわめきが広がる。
「なんだあの娘は……?」
「無名の平民上がりか?」
「どこの派閥の後ろ盾だ?」
――嘲笑と疑念。だがそれこそ、彼女の狙い通り。
(いいわ、その目。そのざわめき……もっと、私を見て)
選定の儀で注がれる聖水。その瞬間、私の額に“神の印”が浮かび上がる。
もちろん、それも彼女自身の手によって偽装された“光”だ。
(奇跡なんて、作り出せる)
この世界では、“本物”より“もっともらしさ”のほうが、よほど人を動かす。
私が静かに目を伏せたとき。
一人の視線だけが、鋭く、そして深く私を見据えていた。
――王太子。セシル・アルベール・アストリアス。
(また……その目)
十年前、彼のその目を信じた。
そして裏切られた。
今度は――騙す側に回る番。
* * *
「おめでとう、リュミエール。まさか君が選ばれるとは」
選定の儀の後、セシルが声をかけてきた。微笑みを湛えながらも、その瞳の奥には、測りきれぬ思惑が渦巻いている。
「偶然でしょうね。私も驚いていますの」
「……そうかい?」
セシルはわずかに首をかしげると、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
「これは“協力契約書”だ。君が王族と連携し、今後の神殿改革に協力するなら、全面的に後援しよう」
――まるで、取引。
けれどそれは、私が望んでいた展開。
(ふふ……思ったより早く食いついたわね)
「ひとつだけ、条件があります」
「なんだい?」
「……私の正体に気づいたとしても、決してそれを暴かないこと」
その言葉に、セシルは瞳を細めた。
「……なるほど。やはり、君はただの“聖女”ではないようだ」
「その問いには、契約の後でお答えしますわ」
しばし、静寂。
やがてセシルは笑い、契約書にサインを入れる。
「成立だ。リュミエール・アークライト」
「ありがとう、殿下」
握手の瞬間、彼は低く囁く。
「仮に君が“悪魔”であったとしても……僕は君に惹かれてしまうかもしれない」
……一瞬、私の心が揺れる。
だが、それもすぐに打ち消した。
(ならば、その心ごと奪ってやる)
王太子の“恋”すら、利用するための道具。それが、元聖女にして悪役のやり方。
* * *
その夜。
王太子の執務室に、フィリップ・ヴァルハイトが姿を見せる。
「……王太子殿下。契約はお済みで?」
「ああ。リュミエール・アークライト。名前も顔も、過去とは似ても似つかないが……目だけが、あの頃と同じだ」
「お気づきに?」
「十年前、彼女は“聖女”として選ばれた。しかし今、彼女は――“悪役”として戻ってきた」
フィリップがわずかに眉をひそめる。
「危険です、殿下。もし彼女に情が移れば……」
だが、セシルは笑う。
「毒は、使い方次第で薬にもなる。――あの女は、必要なんだ。……それが、王国にとっての“救い”になるのか、それとも“終焉”になるのか……」
答えは、誰にもわからない。
ただ確かなのは。
かつて“祈り”で人を癒した少女が――
今、“契約”と“偽り”で、王国を支配しようとしているということである。