第10話 黒翼の使徒と、命の契約
深い夜の帳が降りる中、王都の空に黒い影が舞った。
それは鳥ではない。翼を持つ者――だが羽ばたくことはなく、宙を滑るようにして神殿の尖塔へと降り立った。
「……来たわね」
私は静かにその気配に目を向けた。
祭壇の背後に広がる聖域の闇から、現れたのは黒き翼の男。漆黒の外套をまとい、その顔を深くフードに隠している。
だが、私は知っている。彼が何者であるかを。
「黒翼の使徒――“終焉の契約者”アゼル・ヴァルド。七年前、辺境で姿を消したはずじゃなかった?」
「契約の時が来たのさ。リュミエール。君が“神の座”を演じ続けるには……代償がいる」
アゼルの声は、闇を撫でる風のように低く静かだった。
「奇跡の維持には、命の火を喰らう核が必要だ。“異端の光”が目覚めた今、君は選ばねばならない。命を供物とするか、それとも――その座を降りるか」
私は無言で立ち上がった。
神託の中心。王国を統べる“聖女”という偶像。その核心にあるものは、希望ではない。
それは“循環”という名の、呪いの契約だった。
己が神を騙る限り、誰かの命を差し出さねば維持できない奇跡。祝福とは、犠牲によって保たれる偽りの恩寵。
……そのことは、誰にも言ってはならない。
それは契約に含まれていた。
“真実の開示は、契約者の意志によってのみ許される”
アゼルが指を一本立てた。闇が蠢き、一本の黒い羽が私の足元へと落ちる。
「選べ。リュミエール。王国の秩序を保ち続けるため、君自身の命を注ぐか。それとも……“彼女”の光を再び奪うか」
「エリシアを……?」
その名を出された瞬間、私の中で何かが軋んだ。
彼女の命は、奇跡の核として最も純粋だった。神に仕えず、神を信じぬままに人を救おうとした、“穢れなき異端”。
今、再びその命が“契約の器”として選ばれようとしている。
沈黙の中で、私は唇を噛みしめる。
(私は……この世界を、護ってきた。誰にも祈りを奪われない世界を作るために、血に手を染めても、偽りを演じてきた)
だが――
(それでも、私は“彼女”を……)
「私は、選ぶ」
私は静かに口を開く。
「契約の履行を拒否する。代償を他者に求めず、自らの命で神の座を満たす」
アゼルの目が細められる。
「……覚悟はできているのか? 一度この契約を破れば、君の存在は“聖女”として崩壊する。残るのはただの人間。奇跡も、力も、永遠に失う」
「奇跡が失われても、この手で“奇跡を見た”人間が残るなら、それでいい」
震える声ではなかった。だが、その言葉には苦味と、わずかな微笑が滲んでいた。
「ノア・フェルデン。彼が私の役を壊してくれるのなら――もう、神なんて必要ない」
アゼルは無言のまま手を振った。
黒翼が空間を裂き、リュミエールの足元に魔法陣が刻まれる。命の契約が彼女の中に再度刻まれ、その生命がゆっくりと削られていく感覚が、骨の髄にまで響いた。
「……では、契約は更新された。君の魂が砕けるその時まで、神の座は維持される」
影が去る。空が再び沈黙する。
私はゆっくりと床に膝をついた。胸に焼きついた契約の刻印が、かすかに熱を放っている。
視界の端で、報告書が落ちていた。ノアの行動記録。その先には、まだ知らぬ“決着”の運命が待っている。
「――さあ、来なさい。私を壊しに」
だが、その呟きは誰にも届かない。




