ナキリノミコト
昔々、山深くに忘れ去られた小さな社があった。その社には、誰が祀られているかも、いつからあるのかも分からないまま、ただ静かに佇んでいた。
ある日のこと、子宝に恵まれない夫婦が山を通りがかったとき、社の前に赤ん坊が捨てられているのを見つけた。夫婦はこれを神からの授かりものと信じ、赤子を『ミコト』と名付けて大切に育てることにした。
ミコトは健やかに育ち、心優しく勇気ある若者となった。村の人々に愛され、両親とも仲睦まじく暮らしていた。しかしミコトが十五歳になったある日、狩りから戻る途中で胸騒ぎを覚える。急いで村へ戻ると、村は火の海となり、黒煙が空を覆っていた。
村は、巨大で角を持つ恐ろしい鬼たちに襲われていた。人間ではとても敵わないほどの力を持つ鬼の前で、村人たちは無残にも次々と殺されていく。ミコトの目の前で、両親もまた、鬼の一撃で命を落としてしまった。両親の最後の言葉は「来るな」であった。
物陰に隠れ息を殺すミコトに、鬼たちは不思議な言葉を残して去った。
「ここでもなかったか」
ただ一人生き残ったミコトは鬼への復讐を誓った。その日を境にミコトの人生は復讐に捧げられた。毎日毎日、狂気に近いほどの過酷な鍛錬を繰り返し、まるで彼自身が鬼のようだと恐れられるほどになった。
十年後、ついにミコトは鬼が住む島に乗り込んだ。そこは鬼の根城であり、多くの人々を苦しめてきた邪悪の巣窟であった。島に入るなり、ミコトは遭遇した鬼たちを容赦なく切り捨てていった。
しかし、斬られた鬼たちは苦しみや恐怖ではなく、どこか歓喜のような表情を浮かべていた。
「ナキリだ!」
「ついにナキリが来た!」
鬼たちのその言葉は、ミコトには理解できなかった。ただ怒りと悲しみが、彼の剣をより鋭く、容赦ないものにした。
そうしてついに、鬼の頭領と対峙することになった。頭領は、他の鬼より一段と巨大で禍々しい威圧感を放っていた。
「待っていたぞ、ナキリ」
「ナキリとはなんだ、俺の名はミコトだ」
ミコトの問いを無視し、頭領は続けた。
「我々は幾星霜もの間、お前を待っていた。ようやく我らの悲願が叶う」
言葉の意味も分からぬまま、激しい戦いの末、ミコトは鬼の頭領を切り捨てた。返り血で全身が赤く染まったミコトは、ついに復讐を果たしたという安堵に包まれる。
これで終わりだ。すべてを終わらせるため、ミコトは自身の喉元に刃を押し当てた。その瞬間、頭の中に謎の声が響いた。
『勝手に死なれちゃ困るぜ、お前だけの体じゃねえんだ』
その言葉とともに、忘れ去っていた幼い頃の御伽噺が頭をよぎった。
『百の鬼の血を浴びた者、その者もまた鬼となる』
ミコトの体に染み込んだ血は百を超えている。つまり、ミコト自身が次なる鬼となる運命にあるのだ。
なぜ鬼たちは自分を待ち望んでいたのか。その真意がようやく理解できた。鬼たちは不老不死の呪いを受けており、その呪いから解放される唯一の方法が『ナキリ』の剣に斬られることだったのだ。
ミコトは自分が復讐に燃えるあまり、自らが次なる鬼になる運命を背負ってしまったことを知り、絶望に崩れ落ちた。しかしその瞬間、再び脳裏にあの声が響いた。
『絶望するには早ええぞ。今度はお前が、次のナキリを待つ番だ』
ミコトの体に、じわりじわりと鬼の力が満ちていく。自らが討った鬼たちの悲願の意味をようやく悟りながら、ミコトは静かに立ち上がった。
やがて彼は、自らが鬼として再び誰かに斬られる日を待ち続けることになるのだろうか――。
かつて平和な村で家族に愛されていた青年ミコトは、その瞬間から人の道を外れ、長い呪いの連鎖の中へと飲み込まれていったのだった。