前編
人生に「初めて」は付き物である。
初めて見た一面の銀世界。
初めて感じた凍てつくような寒さ。
初めて触れた柔らかな雪。
そして、ただ握手をしただけで大火傷を負わせてしまった初対面の王子。
「アッッッッッッヅ!!」
右手から立ち上る湯気と共に分厚い積雪の中へ飛び込んだ王子に、その場に居合わせた全員が騒然となる。
「何だ!?」
「リヒャルト殿下が身を隠しておられる!! 敵襲か!?」
「衛兵! 衛兵!!」
「マヒナ王女殿下、こちらへ!!」
違う、待ってほしい、そうじゃない、とりあえず絶対に敵襲ではない──婚姻のために遠路遥々やってきた王女マヒナは、蜂の巣をつついたような大騒ぎに揉まれながら、妙に熱い右手を挙げて必死にそう訴えたのだった。
◇
王女マヒナは、年中ぽかぽかとした日差しが降り注ぐ太陽の国で生まれ育った。
エメラルドブルーの海に白い砂浜、混じりけのない青空の下で揺れる帆船の群れ。島に築かれた王国は、人々が自らの魔力で灯す無数の火によって美しく彩られることから、他国では「聖炎の都」と呼ばれている。
更には保存状態のよい遺跡が幾つも発見されたことも相俟って、かの国は太古の神聖な空気が現在も息づく場所として広く知られていた。
さて、そんな大自然と神秘に包まれた島国でのびのびと過ごしていたマヒナに、婚約の話が舞い込んだのは突然のことだった。
「氷雪の国の、第三王子……?」
「うむ。どうだ?」
「どう、って……政略的なものではないのですか?」
「まぁそうだが、あちらはお前の意思を尊重すると」
王族しか立ち入ることのできない大部屋。涼しげなラグの上にだらりと寝そべる国王の言葉に、マヒナは首を傾げた。
近頃、航路の発達に伴って近海では海賊行為が横行しており、商船の荷物を奪われるだけに留まらず、残虐な行いによって船ごと沈められたという事案が後を絶たない。
しかし長らく外敵に脅かされない生活を送ってきた太陽の国に、凶悪な海賊を完全に鎮圧できるほどの軍事力はなく、困り果てた国王は貿易相手の国々に助けを求めたのだという。
それにすぐさま応じてくれたのが、軍事大国として名高い氷雪の国だった。
彼らは戦力提供の条件として、島でしか採れない特別な木材の供給を提示した。その他諸々の条件に双方が納得したところで、氷雪の国から同盟を持ち掛けられたのだと国王は語る。
「氷雪の国は、年々寒さが厳しくなっておるようだ。もしもの場合に備え、島の魔法使いの助けを借りたいと言っておった」
「そうでしたか……深刻な状況なのですね」
マヒナは神妙な面持ちで頷いた。
人間や動植物には魔力が宿る。そして彼らが持って生まれる魔力の種類は、その地域に依存するとも言われていた。
一年を通して安定的に日光を浴び続ける土、芽吹いた樹木、そこに生る果実を食む獣──そうした自然のサイクルによって、魔力は大地と生き物に定着するのだ。
この島では強力な炎の魔力が生成されるため、王族を始めとした住人にも質の良い魔力を持つ者が多い。豪雪や雪崩に悩まされている氷雪の国にとっては望んでも得られない代物ゆえ、いざというときのためにも魔法使いに常駐してほしいのかもしれない。
自分が嫁ぐことで双方の交流が盛んになることは勿論、失われる命の数を減らすことにも繋がるのならと、マヒナは快く縁談を受け入れることにした。
「分かりました。そのお話、お受けします」
「そうか。ほほ、どうせ雪を見てみたいだけではないか?」
「え!? そ、それもありますけど私はちゃんと王族としての義務をですね……!」
末っ子だからと何かと子供扱いしてくる国王に反論しつつ、マヒナはすぐに輿入れの準備に取り掛かったのである。
して、氷雪の国へ向かう長旅の途上、侍女のクラからもたらされた顔も知らぬ結婚相手の情報は、どれもこれも素晴らしいものであった。
第三王子リヒャルト。彼はマヒナより二つ年上の二十一歳で、士官学校を首席で卒業した後、その類まれなる剣術と魔法の腕を民のために活かすべく、精鋭が揃う王国騎士団に入団したそうだ。
氷雪の国はマヒナの故郷とは対照的に、年中凍てつく寒さに覆われている。過酷な環境で生き抜く人々は、体だけでなく魂までもが高潔で屈強と名高く、古くから無敵の軍事国家として名を馳せてきた。近年では大規模な戦をする機会が減ったとはいえ、氷雪の国出身の騎士や傭兵は今もなお各国から引っ張りだこと聞く。
そしてそんな国を統治する王族もまた、「騎士の中の騎士」と謳われるほどの実力者ばかりだ。騎士たちの腕を競うトーナメントにおいて、三人の王子と互角に渡り合える者は一握りだそうな。
「トーナメントは毎度、三人の王子の誰かが優勝するようですよ」
「凄いわ。うちのお兄様が出場したらきっと一回戦負けよ」
魔法の腕は良いが武術はからっきしな兄を思い浮かべるマヒナの傍ら、クラは気まずそうに咳払いをするに留まった。
「マヒナ姫。国境の街までリヒャルト殿下がお迎えしてくださるそうですから、今のうちにあちらの礼儀作法を復習しておきましょう」
「そうね。またお辞儀をするだけで足が攣ったら恥ずかしいもの」
そんな軽口を叩きながらの旅路は、マヒナが思っていたよりも気楽で新鮮なものだった。
街道に並ぶ、故郷のものよりも一回り小さな木々。草むらに咲く花でさえ小ぶりで可愛らしいのに、遠くに見える山々は驚くほど大きい。大陸の人々はマヒナの故郷を神々の住まう地のように扱うが、隣の芝生が青く見えているだけではないかと彼女は感嘆した。
その緑豊かで雄大な景色が、次第に白く染まってゆく様はマヒナの心を更に躍らせた。
「見て! どこも真っ白だわ! これは砂じゃなくて雪なの? 全部?」
「さようでございますよ」
はしゃぎ倒すマヒナの隣、いつも冷静なクラもさすがに興奮を隠しきれないようだった。それに触発されたのか、彼女たちの体内にある炎の魔力もぽかぽかと温まり始める。
せっかく氷雪の国から厚手の衣服を用意してもらったというのに、これでは太陽の国と同じように半袖で過ごすことになるかもしれないと二人は笑った。
で──察しの通り、笑えていたのはそこまでだった。
◇
「魔力が過剰に活性化しておられます」
「え」
王子の護衛団に同行していた魔法使いの言葉に、マヒナは口を押さえた。
わざわざ国境の街まで迎えに来てくれたリヒャルトの右手を出会い頭に焼き、場を大混乱に陥らせて半刻ほどが経った頃。領主の館でマヒナの状態を注意深く診察した魔法使いは、暑そうに汗を拭いながら言葉を続けた。
「王女殿下もご存じでしょうが、ここ一帯は氷の魔力が満ちておりまして。もしかすると、相反する性質の魔力をお持ちである殿下の体内で、これに対抗しようとする力が生じたのかもしれません」
「た、対抗!? 魔力が勝手に張り合っているのですか!?」
「恐らく……」
言われてみれば確かに、氷雪の国に近づくにつれて体が妙にぽかぽかしているとは思っていた。あれは初めての遠出に興奮していたがゆえの現象ではなく、マヒナの魔力が周囲に満ちる氷の魔力に対してオラついていただけらしい。自分の魔力に「我が強い」という感想を抱くことになるとは思わなかったマヒナである。
「ど、どうしたらいいのでしょう? こんなこと初めてで……」
「ええ、我々も初めて見るケースですが……ううむ、その」
魔法使いはそこで顔を覆った。
「申し訳ございません、少し涼んでまいります」
「あ、どうぞ」
彼も人生で初めて「涼む」という言葉を使ったのだろう。変な顔をして部屋を出て行った。
残されたマヒナは後ろに立っているクラと顔を見合わせ、ごくりと唾を飲み込む。
「どうしましょう、近くにいるだけでも暑いみたいだわ」
「まさか我々が歩く暖房になるとは……」
「あら? でもお父様が会談を開いたときは大丈夫だったの?」
「主に書簡でやり取りをされていたようですので。同盟の締結も、互いの負担が少なくなるようにと草原の国が場をお貸しくださったと伺っております」
「そういうことか……!」
親切すぎる国として有名な草原の国。遠く離れた二つの国が同盟を結ぶと聞いて、既にそれぞれの国と同盟関係にあったことから「ウチで話し合ったらいいよ!」とでも言ったのだろう。あの国に満ちている風の魔力はどちらの魔力とも拮抗する性質ではないため、さぞ快適な会談だったに違いない。
「我が国に満ちる炎の魔力は、他の地域と比べても質が異なると耳にしたことがございます。私はてっきり、それが魔法の威力に限った話だと考えていましたが……」
「性格の話だったみたいね」
どうしたものかとマヒナが頭を抱えたとき、部屋の扉がノックされた。
「マヒナ王女。失礼する」
この声は──マヒナが慌てて立ち上がると、現れたのは予想通りリヒャルトだった。お辞儀をする傍ら、チラッと彼の右手を見てしまったのは仕方ないことだ。
「王子、先程は大変失礼いたしました」
「いや、どうか気にしないでほしい。誰も想定していなかったことだ」
そうは言っても怪我をさせてしまうところだったのだから、マヒナの罪悪感は拭えない。結婚相手とは良好な関係を築きたかったのに……と、彼女が落胆を露わにすると、その気落ちした表情を見たリヒャルトが口を開く。
「マヒナ王女。君の魔力についてだが、一生そのままというわけではないはずだ」
「えっ?」
「魔力が常に活性化状態を維持し続けたとして、君の体が持つわけもない。その症状は一時的なものだろう」
「そう、でしょうか?」
「ああ」
リヒャルトが真面目な顔で頷くのを、マヒナは救いの神を仰ぐような気分で見つめた。つい先程クソデカい声を上げて積雪にダイブした男と同一人物には思えない。
魔法使いたちの見立てでは、マヒナの魔力は今、見知らぬ地に来たことで極度の警戒状態にあるという。恐らくは十九年間、太陽の国から一度も出る機会がなかったことも大きな要因だろうとも。
「この地でしばらく過ごせば、症状も和らぐかもしれん。だから……」
リヒャルトはそこで言葉を区切ると、窺うような視線を寄越した。
「落ち込む必要はない。俺もなるべく協力しよう」
「王子……」
「リヒャルトでいい」
この国の青空によく似た、薄氷色の瞳が微かに微笑む。知らずのうちに緊張してしまっていたマヒナは、そこでようやく肩の力が抜けるのを感じた。
「はい、えっと……リヒャルトさま。私のこともどうぞマヒナと」
「マヒナ。よろしく──」
再び手を差し出しそうになったリヒャルトは、無言でその手をゆっくりと下げたのだった。