宰相さま、こっちにファンサしてください!
「はぁ……」
その日、何度目かのため息を耳にした。
王国の中心で王族が住む住居であり、毎日何百人もの文官や使用人が働いている王宮の中でも一際部屋の空気が重たいのがこの場所だ。
「どうされたのですか? 先程から手が止まっていて、いつもの宰相さまらしくありませんよ」
最近手に入れたとっておきの茶葉を使い紅茶を淹れる。
脳の疲れを癒す効果があるからという言いつけを守って砂糖をたっぷり入れるのも忘れずにまだ湯気の出ている温かい紅茶を執務用の机に置く。
ありがとう、と礼を言って彼はひと息でそれを飲み干した。
宰相のローレンス・フォーゲルさま。
まだ二十代という若さで要職に抜擢され、国を運営する大役を担っている方で、わたしが担当として配属されたこの執務室の主人だ。
「いつもの私か……。確かに普段ならばとっくにこの紙の山を片付けているが、この件だけはどうも」
端麗な顔立ちが歪んで眉間にしわが寄っている。
困っている顔もまた美しくて心の中のわたしが気絶しそうになっているけどグッと我慢。
この職場で働かせてもらっているのだから彼の手助けをするのがわたしの仕事だ。
「どれどれ、失礼しますね」
積み重なった書類の山から一枚だけ離された紙をわたしは覗き込んだ。
メイドが主人の大切な書類を盗み見るなんて他の人が目にしたら怒るだろうが、生憎とここにはわたしと彼しかおらず、このやり取りも何度か経験済みだ。
「今年度の予算表ですか。あれ? でも、既に議会で採決して陛下にも認可されてませんでしたか?」
「追加の予算案だ。先月の嵐で被害を受けた領地や王都内の一部施設で老朽化による事故が起きた」
ふむふむ。
確かに酷い嵐だったと記憶している。
わたしの住んでいる寮でも屋根が飛ばされてしまうのではないかと思うくらいに風が強かった。
王宮の厨房で聞いた話だと農作物にも影響が出そうなんだとか。
一方で王都内の施設リストに目をやると、公共物として国が管理している由緒正しい歴史ある建造物の名前にバツ印がつけられている。
「どれもこれも緊急性が高いですね。放っておいたら二次災害が発生しそうです」
「やはりアニスもそう思うか。私としても国民のためにいち早く行動を起こしたいのだが……」
さらっと名前を呼ばれて内なるわたしが嬉しさのあまりのたうち回るが最優先はこの難題だ。
宰相であるローレンスさまの元に来てから得た知識で解決策を模索する。
「陛下にお願いするしかないですね。各領地から徴収する税を増やせば乗り切れると思いますよ」
「そうしたいのは山々だが、貴族達からこれ以上の金を巻き上げれば王家への反感を買うことになる」
「そこは必要経費として陛下に頑張ってもらうしかありませんね」
ローレンスさまは首を横に振った。
「陛下と貴族達の仲を君は知っているか?」
「えーと……まぁ……」
質問に対してわたしは歯切れの悪い回答をした。
今となっては大きな声で話をする者はいないが、わたしの親の世代、今の陛下が貴族院に通う学生だった頃に話は遡る。
当時の陛下はそれはたいそうな我儘で、ぶっちゃけ手のつけられないクソガキだったらしい。
王妃さまと結婚して、国王に即位してからはその豪胆で滅茶苦茶な言動も落ち着いたそうだけど、あの頃の恨みや苦手意識を持つ貴族は少なくない。
それこそ当事者ではないわたしのような人間でも知ってるくらいには広まっている王家の黒歴史だ。
「今の貴族達は半ば義務感と慣例に従って陛下に尽くしてはいるが、万が一や先の未来のことを考えるとあまり陛下に頼むのは……」
言葉が尻すぼみになり、額を手で覆うローレンスさま。
若い彼が陛下の側近になれた理由の一つに人望の薄さというのも含まれているのは事実。
お労しやローレンスさま。
今度医務室から胃薬を頂いてきますね。
「となると、ここはローレンスさまが直々に貴族達に頭を下げて融資を募るしかありませんね」
「やはりそうなるか。だがしかし、それをするとなると身を固める決意をしなくてはならないか」
「えぇっ!? どうしてそういう話になるんですか!?」
「何を驚く必要があるんだ。今の私は未婚で国の重要なポストにいる。……見合いのことを思い出すと精神的な苦痛が蘇るが背に腹は変えられない」
もの凄く苦しそうな顔で歯を食いしばるローレンスさま。
どれだけ辛い思い出があるのか詳しく聞かなくても理解出来る。
彼は昔から社交界でも一際目立っていて、それこそ舞踏会でダンスパートナーになるために女性陣が乱闘騒ぎを繰り広げるくらいにはモテる。
真面目で知性的な顔立ちの整った宰相さま。
それでいて女性関連の浮ついた話も無いとくれば我こそはと強者達が牽制し合うのだ。
「あっ、でもこの予算の額だとどこかの家が払うにはかなり無茶な金額ですね。現実的じゃないかもしれませんよ!」
「そうか。それは仕方がないな」
ほっと胸を撫で下ろして安心するローレンスさまの姿にわたしも額の汗を拭う。
彼が家庭持ちになったら今みたいに配属されたメイドの立場を利用して観察するのが困難になる。
夫の側に女性を置いて置けないと言われて転属させられるのだけは絶対に御免被る。
わたしがどれだけの倍率を勝ち抜いて宰相さま付きのメイドになれたと思っているの? こんな美味しい立場を手放してなるものですか!
「しかし、そうなるとどうしたものなのか本当に困ってしまうな。あぁ、家に帰ってエリザベス三世を抱き締めたい」
彼から厳格な宰相さまオーラが霧散し、引き出しから取り出したもふもふの犬のぬいぐるみに顔を埋めた。
優れた才覚と恵まれた顔立ちに反比例して友人が少ない彼は幼少から共に育った愛犬にメロメロだ。
わたしが最終選考で選ばれた理由も愛犬の瞳と毛色がわたしの目と髪の色が同じだからということでもその溺愛度がわかる。
「エリザベス三世のもふもふが恋しい……」
切なそうな表情で甘い声を漏らすローレンスさまの普段とのギャップに脳内で天に召されかけるわたし。
クールインテリな人が見せる可愛らしくも色気が溢れる一面がクリーンヒットして瀕死だ。
「知っているかアニス? 屋敷の者が言うにはエリザベス三世は私が帰宅する時間になると散歩を切り上げて走って玄関に向かうそうだ。食事も私が帰るまで口をつけないらしいのだ」
現実逃避をして愛犬のエピソードを自慢げに語り出した。
犬の話をする時だけ顔の筋肉が柔らかくなって笑みを浮かべるローレンスさま。
この成人した仕事人の無邪気な子供のような笑顔を見れるなんていくら注ぎ込めばいいんですか!
尊さだけで大聖堂建築できちゃいそうだよ! 歩くガチ恋女性製造機だよ!!
「……あっ」
「どうしたんだアニス?」
「ローレンスさま。国のため、民のために自らの身を捧げる覚悟はお有りですか」
「結婚だけは気が進まないが、それ以外ならこのローレンス・フォーゲルは祖国のためになんでもしよう」
はい。言質取りました。
今、なんでもするって言ったよね。
♦︎
「今日はお集まりいただき感謝する。私の拙い演奏会だが、最後まで楽しんでいってくれると嬉しい。それでは聞いてくれ……麗しいレディーたち」
ステージの上に立ち、ピアノの鍵盤に指を置くローレンスさま。
今の彼は真っ白なタキシードに普段はしないワイルドなヘアスタイルで女神に信仰と愛を捧げる曲を奏でる。
そんな彼の姿にうっとりしているのは王妃さまに近しい立場の貴族の奥さまと抽選で選ばれた令嬢達だ。
「いやぁ、楽器の演奏は得意で趣味だって言ってましたけど、やっぱりプロ顔負けですね」
熱気に包まれる演奏会場の入り口でわたしはローレンスさまの奏でる音に聞き惚れたい気持ちをなんとか抑え、仕事仲間のメイド達に指示を飛ばす。
「この後にグッズの販売会を行います。A班は会計を。B班は在庫の補充と物品の手渡しを。残りの人達は列の整理と会場の忘れ物チェックをお願いします」
テキパキと動くメイド達の目は使命感に燃えている。
彼女達こそはわたしと宰相さま付きメイドの座を競い合ったライバル達。
しかし、今はローレンスさまからのお願いとグッズの優先購入券のために通常の倍以上の実力を発揮する有能スタッフへと進化した。
「アニス! バーバード伯爵夫人があるだけ全部グッズが欲しいって言ってたんだけどどうする!?」
「グッズは一人一個の購入制限をかけてあるでしょ。それを無視して権力やお金で押し通ろうとするなら会場警護の騎士に引き渡して。それでもって次回からは出入り禁止にしていいから。この演奏会は王妃様の主催だからガンガンやっちゃっていいわ」
「アニス! フェルナンド侯爵が娘を宰相様に会わせたいって言ってるけどどうすればいいの!?」
「執務に関係無い人との面会はトラブルになるから却下して。ただし、寄付金とか活動支援に関わる話は別途相談に乗ります」
次から次へとやってくるトラブルを処理しながらわたしは裏方の役目をこなしていく。
ごく一部のファンが強行手段をとろうとしたけれど、そこは王妃さまが先頭に立って諌めてくださった。
まさか王妃さまがローレンスさま推しだった話を耳にした時は驚いたけど、本当に助かった。
こうして、わたしが立てたローレンスさま偶像計画は順調な滑り出しを果たした。
衣装もどんどん煌びやかなものにしていき、専用のグッズも展開していった。
中でも一番人気なのはローレンスさまのイメージカラーであるグリーンをあしらったレース付きの扇子だ。
普段使い用にする者もいれば、扇子に文字を書いて演奏会で掲げる者もいた。
「きゃー! ローレンスさま!! こっちにファンサください! ウインクして!!」
「ちょっとアニス落ち着いて! 宰相さまも目を丸くしてるから! あー、でもアタシにも流し目ください!!」
わたしももれなくオリジナルグッズを作成して同僚と共に最前列でローレンスさまを讃える舞を披露すると、なんかそれが応援の常識みたいになったのだけは恥ずかしかった。
ローレンスさまの活動は多岐に渡り、最終的には踊りながら歌を歌うことになるのだった。
♦︎
「アニス。実は私、今度の演奏会を最後に活動を休止しようと思う」
「えっ゛!?」
ある日、演奏会で披露する曲の順番について打ち合わせをしている最中、唐突なローレンスさまの衝撃発言。
手を滑らせたわたしは運んでいた紅茶を執務室の床にぶち撒けてしまう。
「な、何故ですかローレンスさま! 活動はまさに絶好調で今後の集客もどんどん見込めるのに!!」
気が動転しながらもわたしは彼へと詰め寄った。
「その件だが、これまでの活動で得た資金で復興支援や建物の修繕費の完了に必要な目標額に達した」
そういえばそういう目的で活動を始めたんだった。
キラキラと輝くローレンスさまの姿に目が眩んでわたしは当初の目的を忘れかけていたようだ。
「来年度の予算案については予め多めに申請をしている。今後同じような事にならないよう策を打ってあるからもう大丈夫だろう」
流石は優秀なローレンスさま。
でも、その段取りの良さが今は悔しい!
「ソ、ソウデスネ……」
「応援してくれたレディー……コホン。観客達には申し訳ないが、中には破産ギリギリまでお金を出そうとする者もいたようだし、この辺りが引き時だと思ったのだ」
活動がすっかり板についてきたせいか、ごく自然にファンをレディー呼びしたローレンスさまは咳払いをして引退理由を語る。
「いつまでも宰相の仕事を他人に手伝ってもらうのも悪いし、あまり王妃さまが演奏会にのめり込み過ぎると陛下からの嫉妬の目が痛い」
それが一番の本音なのかローレンスさまが目を逸らした。
陛下が大人しくなったのは愛妻家だからですもんね。
演奏会で城で一番広い会場を貸し出す許可も陛下が出してくださったし。
「残念ですがローレンスさまがそうおっしゃるなら活動休止は仕方ないですね。でも、それなら次はド派手にやりましょう。一生語り継がれるような伝説的な演奏会にしましょうね」
こっそり立ち上げられたローレンスさまファンクラブの一桁メンバーとして全力を尽くさなくてはと、内なるわたしが燃え上がる。
関係者各位に計画の変更を伝え、工房に掛け合ってグッズの増産を依頼し、宣伝のためのチラシもデザインしなくては!
「ふふっ。全くアニスには敵わないな」
「はい? わたし何かしちゃいましたか?」
やる気に満ちたわたしをローレンスさまが口元を押さえながら笑って見ていたので首を傾げる。
「とんでもないことをしてくれた。まさか私を偶像に仕立て上げるなんて何をどうすれば思いつくのか。最初は嫌々だったが、趣味の演奏を褒められるのは悪い気分ではなかった」
「客席の女性達を見て緊張されていましたもんね」
思い返したのは最初期の演奏会の頃だ。
お見合い戦争のこともあり、多くの女性に見守られて表情が強張っていたローレンスさまのためにわたしは愛犬のエリザベス三世を抱き抱えて最前列に座ったりしていた。
回数を重ねる度にそういう対策をしなくても笑顔が増えていき、今では愛想のいい歌って踊って演奏できるスーパーエリート宰相さまに進化した。
「それは君が目の前で変な舞を披露したりするものだから緊張どころではなくなったんだ」
「あれは忘れてください! 自分でも黒歴史なんですからね!」
まさか馬鹿真面目に観客に推しへ捧げる舞の講座なんて開くことになるとは思いもしなかった。
「ふふふっ。しかしアニスには本当に世話になった。宰相としての仕事だけではなく、この活動のプロデュースまでしてくれた。どうだ、特別給金を出すから故郷に戻るのも考えてみるか?」
ローレンスさまから善意の籠った提案を出されたが、わたしは返答に困ってしまった。
城で働くメイドの多くは嫁ぐための箔をつけたり、結婚相手を探すためだったり、結婚式の資金を貯めるためにいる人が殆どだからだ。
代々仕えている人達とは違い、彼女達は数年で故郷に帰っていくのが通例だ。
「有難い申し出なんですが、わたしは故郷に帰るつもりは無いんです。というか、帰れません」
「それはどうしてだ? 君は家の長女だと言っていたし、これだけ要領が良いなら相手もすぐ見つかるだろう」
「実はですね……」
ローレンスさまの質問に、わたしは城に来る前の話をすることにした。
貴族院を卒業して、どこにでもいる田舎の平凡な貴族令嬢としての役割を果たそうとして失敗した過去を。
わたしには幼馴染の婚約者がいた。
お互いに恋愛感情があったかと言われたら返事は難しいけれど、でもそれが当たり前だった。
嫌な気はしなかったのが本音だった。
婚約者はわたしよりも少し年上で、妹もよく懐いていた。
この人とならわたしの家族も喜んで結婚を後押ししてくれると思っていた。
事件が起きたのは、わたしが彼より遅れて貴族院を卒業して地元に戻った時だった。
妹のお腹に子供がいることが発覚した。
わたしよりも成績が優秀ではないけれど、でも愛嬌を振り撒いて立ち回りの上手い強かな子だった。
貴族院の休みに帰省してから体調が優れないと聞いたけど、妊娠していたせいだと聞いて驚いた。
お腹の子の父親は婚約者の彼だった。
わたしが後から聞かされた話だと、妹はなんでもそつなくこなす私が嫌いだったらしく、妹に優しくしていた彼が姉と結ばれるのが認められなかった。
だからわたしがいない隙を見計らって彼と既成事実を作ったのだ。
当然、実家と彼の家は混乱した。
わたしは身内から世間体のことも考えて婚約を破棄することを勧められて承認させられた。
両親は思うところはあれど孫の誕生を祝福したし、いつの間にか噂が流れ、望まれない相手との婚約を打ち破って真実の愛を手に入れた美談として周囲に広まっていた。
「そうなれば当然、わたしは婚約者に捨てられた惨めで邪魔な女です。新しい婚約者を探すのに実家に任せるのもなんか嫌で故郷を飛び出してきたんですよ」
困ったものですよね、と愛想笑いをしながら我が家の恥を晒したところで自己嫌悪で胸が苦しくなった。
よくある話では決してないが、探せば案外転がっているような悲劇だ。
いや、そもそもわたしは特に抵抗することもなく、ただただ全てが嫌になって逃げ出しただけだ。
「それでも嫌なことだらけじゃ無かったんですよ。こうして今は宰相さま付きのメイドになれましたし」
貴族院時代のツテを辿って城で働くことになったのは偶然だった。
そのおかげでローレンスさまの側に居られると知ったのは奇跡だった。
「貴族院時代、少しだけわたしとローレンスさまの在籍期間が被っていたんです。そこであなたが披露したピアノにわたしは一目惚れしました」
たった一度だけ目にした月光に照らされながら安らかな音色を奏でる絵画のような姿。
聞こえてくる鼻歌は天使の囁き。
だからこそ、あの時目にした光景に脳を焼かれたことを思い出したわたしは同僚達との配属争いに身を投じた。
「あの日からずっとローレンスさまはわたしの推しなんですよ」
今もなお、全てを諦めかけていたわたしの心を照らし続ける眩い一番星の煌めき。
近づけば近づく程、光に焦がれてしまうけど、それもまた本望だ。
「ですので、どうかこのままローレンスさま付きのメイドでいさせてください!」
辛気臭い話をしてしまったが、これがわたしのただ一つの望みだ。
ローレンスさまの良さを、素晴らしさを他の人にも知って欲しいという願いは果たされた。
困っているこの人の力になってあげたいという目的も達成した。
あとは今までと変わらない幸せが続いて欲しい。
「わかった。アニスがそれでいいならこれからも私を支えて欲しい」
「はい! 喜んで!」
「ただし、」
感激して興奮するわたしに向かって、ビシッと指を突きつけるローレンスさま。
何やら真剣な表情だけどどうしたのだろう?
「これまでの君の頑張りに対して何もしないのは国のまつりごとを預かる宰相として無視出来ない。だからそれ相応の褒美を与えたい」
「っ!! それでは今まで以上に偶像活動に力を入れて全国民にローレンスさまの素晴らしさを広めていく計画を進めていいんですね!?」
「それはちょっと待て。というか、そんなことをして歴史に名を残すといつか絶対に子孫に迷惑がかかると思うのだが」
回れ右をしてこっそり頭の中で考えていた野望に着手しようとすると、ローレンスさまに左腕を掴まれて拘束された。
「君は要領が良くて優秀だが、たまに突拍子もないことを考える。なんというか頭のネジが外れる時があると思う」
「安心してください。ローレンスさまに関係すること以外だと面白みもない平凡な女ですから」
「安心という言葉の意味を辞書で調べてみるといい。全く君という奴は……」
呆れたような笑みを浮かべるローレンスさま。
その表情は、少なくともあの頃のように憂のある見ていて辛くなるものじゃなくなって良かった。
「そうだな。君への報酬は待遇と雇用形態の変更が一番いいだろう。奇行を起こさぬよう目を光らせることもできる」
「ヘンナコトナンテシマセンヨー」
「真っ直ぐ目を見て言いなさい」
私はただお仕事をしながら推し事をしたいだけなのに。
でもまぁ、ローレンスさまグッズを自腹で制作している以上はお賃金が増えたりすると嬉しいな。
「アニスにはエリザベス三世の世話を任せたい」
「勿論喜んで! エリザベスちゃんとわたしはもうすっかり仲良しですからね!」
「あとはウチのメイド長が歳で引退するので、代わりのものの教育を任せたい」
「メイドとしての心得ならバッチリです。ついでにローレンスさまに捧げる舞も仕込みますね」
「それはしなくてよろしい。家のことは殆ど君に任せることにする。あとは……アニスが用意してくれる紅茶が毎朝飲みたい」
「お安いご用意です。砂糖は多めですよね」
なるほど。これはやりがいのある仕事が増えそうだ。
んー、でもフォーゲル家まで出張するとなると城のメイド寮から通うのは骨が折れそうなんだよね。
「……必要な書類は後で用意しておく。とりあえず今必要なのは……」
そう言ってローレンスさまは机の上に置かれていた次回のグッズ材料の赤い紐をわたしの左の薬指に巻き付けた。
「これで仮契約完了だ。しばらくこのまま付けておきなさい」
「運命の赤い糸だなんて、このロマンある演出は次の演奏会に使えそうですよ! 流石ですねローレンスさま!」
「君って奴は……」
拗ねるように頬を膨らませる宰相さまに対してわたしは新しい紅茶を淹れようと背を向けた。
今だけは絶対に彼の顔を見たくないし、見せられない。
だって、心の内側だけじゃなくて現実でも顔が真っ赤に染まっているだろうから。
♦︎
「聞きましたかローレンスさま? わたし達の真似事をしている連中がいるらしいですよ」
いつもと変わらない執務室でわたしは手に握った広報紙を机に叩きつけた。
「恵まれない子供達がいる孤児院への寄付金集めか。素晴らしい心がけじゃないか。既に寄付金の使い道に関する届けは出されているし、無問題だ」
「えー、でもなんか真似されるのはちょっとモヤモヤしませんか?」
ローレンスさまは我関せずといった様子で積み重なった書類をテキパキと処理していく。
盛大な活動休止前の演奏会を成功させ、伝説へと登り詰めた彼はこれまで以上に職務を全うしている。
「ちなみにだが、その活動を主導しているのは陛下だ。その証拠にグループのセンターには王太子殿下がいる。最初は陛下ご自身がやるつもりだったが、家臣一同でお止めした」
「はえ〜。よっぽど王妃さまがローレンスさまにお熱だったのが嫌だったんでしょうか?」
王太子殿下が関わっているということは王妃さまも認めているということで、まぁ、あのお方ならきっと大丈夫。
同じファンクラブの一桁メンバーとしてそこは信頼できる。
「アニスはあまり興味が無いのか? 若い美男子の集団らしいが」
「わたしの場合はローレンスさま一生推しですので他の方についてはどーでもいいですね」
広げた紙を丸めてどかして、眼鏡姿のローレンスさまの顔を見る。
最近視力が落ちたからとかけ始めた眼鏡だけどこれがまたローレンスさまの知性を底上げしていると脳内のわたしが大聖堂の鐘を鳴らす。
「そ、そうか……。まぁ、それなら問題ない」
少しだけ口角を上げた彼のことをわたしは見逃さなかった。
あれは珍しく照れながらも嬉しい時の表情だ。
彼の側にずっといる終身名誉ファンだからこそわかる変化ですね。
「あー、でも推し変は無くてもやむを得なく推しが増えることはあるでしょうね」
「詳しく聞かせて貰おうか」
眼鏡をカチリと光らせてわたしを見つめるローレンスさま。
ゴクリと唾を飲み込んだ彼にわたしは告げる。
「それは勿論、推しにそっくりな推しの子とかいたら絶対に推しますよ」
「……君に聞いた私が馬鹿だった」
再び手元の書類に目をやるお仕事熱心な宰相さま。
あれ? わたしの言ってること、間違ってる?
「でも、いつか叶えたいんですよね。推しと推しの子が並んで舞台に立って更に伝説へ……。勿論、わたしは最前列で応援しますからね。その時はファンサしてくださいよ旦那さま」
「考えてはおくよ。熱心な私のレディー」
あぁ、今日も推しがカッコよくて幸せだ。
♦︎
「さて、この件はアニスに伝えたほうがいいだろうか」
私は一通の手紙を持て余していた。
差出人は会ったこともない愛する妻の実家から。
内容としては金銭を融通して欲しいというものだ。
どうやら、彼女の妹がある人物の熱心なファンになり、その後も次々と出ている偶像活動をする者たちに金を注ぎ込んで身を滅ぼしかけているらしい。
「……まぁ、我が家には関係ないか」
引退してもなお、私のグッズを趣味で作っている愛おしい妻の姿を横目に私は手紙を引き出しの奥にしまうのだった。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
誤字脱字報告をいつでもお待ちしてます。すぐに修正しますので。
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